63話
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「今日はこれで終わりにしましょう」
険しい表情に殊更深い皺を額に寄せて検査記録を記入しながら、マックスが言う。
手元でなにやら書き加えられる用紙の内容は、そのほとんどが倒れた際のバイタルの記録。検査に関してはほとんどしていないに等しかった。
「失礼します、また来週に」と断って、丁寧なお辞儀をして退出していったリタを尻目に、薬品を持ってきてそのまま手伝いまでしていた新人の男がマックスに「いい子ですね」言った。
「――礼儀正しいと思うかい?」
「え、ええ……」
「あれで、学校では自分のことを「おれ」だなんて言う、男勝りな話し方をしているんだよ。信じられるかい?」
「そうなんですか? とてもそんな風には……その、可愛いお嬢さんだなと」
「ははは。君もそう思うかい? なんたって私の自慢の姪だからね!」
恐怖に顔を歪めるかのような表情に、男は内心狼狽えながらもかろうじて苦笑した。
表情で誤解されることを誰よりも自身が知っているマックスは、意にも介さずひとしきり快活に笑ってみせた。
笑ったのは僅かな合間で、その表情は真剣なものに戻る。
「手術の機会を待つのなら、ここに居させるのが一番いいのだけれど」
「そう思うのなら、帰らせてしまって良かったんですか?
今からでも入院してもらって、経過を観察しながらの方が……」
「CоLだよ。……彼女自身がそれを望んでいない」
「そこまで言うほどですか? 彼女、命に関わる危険すらあるのに……そんな『人生の質』だなんてあやふやなものを優先するなんて」
「君なら、どういうときなら自分の命と天秤にかける?」
「私は……そうですね、例えば愛する人が命の危機に瀕していて、とかなら考えますけど」
「ありきたりだがとてもいい答えだね。日本人はみんなそんなふうに自己犠牲精神溢れる献身的な民族なのかい?」
「あ、いや、そんな大層なものじゃ。例え話ですよ例え話」
「それでもだよ。建前でもいい、君のような若者の考えが未来を紡ぐものだと思うと、私は誇らしい。
……命と天秤にかけても、守りたいものがある。そんな風に思える人が、私は羨ましいな」
「先生にはこう、命に代えても! ……みたいなものは、ないんですか?」
「僕にかい? そりゃあもちろん妻に決まってるだろ?」
その後数時間に渡って妻の惚気話を延々と聞かされる話相手になった男は、後にほかの先輩の医師から「マックス先生に妻の話をさせるとひと晩あっても足りないほど長い」ということを遅れて知った。
なので、彼は聞き逃した。
マックスが「彼女には彼女なりに、自分の命を懸けても成し遂げたいことがあるんだよ」と、リタのことに触れていたことも。
* * * ◇ * * *
帰宅、靴を脱いで、衣服を着替え、やっとの思いで部屋にたどり着く。それが昨日の検診の後で、そのままベッドに倒れ込んで。
本人としては、それほど長い時間意識が途絶えていた自覚はなかった。けれども時計を見ると、17というデジタル表記の数字が見える。日付はといえば四日になっていた。
夕方といってもいい時間。診察から帰ってほぼ丸一日眠っていたらしいことが分かる。
寝ていただけなのに、全身が熱を持っていて鼓動が不規則に耳を打つのを感じる。どうにも昨日の帰宅時と比べて、あまり体調は改善されていないようだった。
「これは、ちょっとばかりきついな……」
朦朧としていて、病院で倒れてからの記憶は曖昧だった。帰ってくるときにはマックスさんがタクシーを手配してくれていたのでこともなく済んだが、歩いて帰っていたら道中で倒れて騒ぎになっていたかもしれない。実際、帰宅後直ぐに倒れたあたり冗談では済まされないなと内心で苦笑する。
再びベッドに倒れ込みそうになる体を堪えて、リタはPCデスクに身を預ける。
座ったことで少しだけ落ち着いたのか、おそらくは気休めとはいえ大分楽になったような気がした。
PCを起動して、レンガでも縛り付けたかのように重い腕でマウスを動かし、メールフォームを開く。
いくつもの送信元から、相談に報告、懸案事項、判断を仰ぐものまで多様な文面のメールが未読のまま並んでいた。
「メール、溜まってるな……そっか。昨日はプレイ日程前日だったから……」
制作に関わってくれている人からのメール。倒れていたとはいえ、それらを放置してしまったことに良心が痛む。
目の動きも覚束無いほど気だるい状態ながらも、未読の中で一番古いメールを一通開いて、そこから履歴を新しい方へと辿る形で漏れのないように注意しながら目を通していく。
すると、最初は連絡や相談事が多かった内容が、直近になるに従って全く関係のない話へと変わっていった。
『ハイ! リタ。ストーリーラインの進捗に合わせたモンスターの分布情報とエリアごとのリポップ感覚の調整は、前に話した内容をもとにこっちで進めておくよ。
だから心蔵に住み着いたモンスターなんかに負けんなよな!』
『イベントのテキストとフロー、チェックして置いたよ。
私たちみたいな特殊な病気の人たちでも頑張ればすごいものを作れんるんだって、証明しなくちゃね。無理はしないで、辛い時は任せていいからいつでも連絡ちょうだい!』
『全アクセスプレイヤーのプリセット、プレイスタイル、確認して……修正そたほうがいい問題点、まとめた、よ。そっちのスタッフさんに送っておいた、から。
……まだ、僕、出来ることあるかな。いつでも頼って、ね。ゲームはひとりじゃない、それは、作るのも、いっそだよ』
「……マサキにクラレンス。こっちのは……ニック。そこは一緒だろ?」
ゲームはひとりじゃない。
それはプレイヤーも、ゲームの中のキャラクターも、作る側の人間もまた、一緒だ。
メールに書かれた言葉にはたびたび、「頼れ」「任せて」と綴られているものがあった。
「ばか、勝手に進めるなよ、おれのアイデア、おれの立てた企画だろ。
お前らだって、満足に動けなかったり寝たきりだったりするだろ、病院で何年も入院してるだろ。
……それをどの口が言うんだよ」
視界は酔ったように揺れて眩んだままで、体は動かせども相変わらず重い。
けれども熱にうなされたような靄がかった思考だけは、ゆっくりと晴れていく。
振り絞る活力なんてものはない。病気と闘うだけでも、精一杯だと。なにかの大怪我や難病を患った人ならば、誰もがそう思うだろう。
心臓は不規則に脈打って不意に痛身を訴えるし、体はその不安定さについていけず汗をかいたり震えたり、めまいを起こしたり息切れを起こす。
――それでも『エギアダルド』には、
リタ・ハルトマンを奮い立たせる、理由がある。
「さて、こっちも……やらなくちゃな」
メールの返信、提案やユーザーからの意見要望の確認、プログラマーやグラフィッカーとの連絡。それらを済ませて、なおもPC上で作業を続ける。
休んでる暇などないのだと自分の心臓を奮い立たせて、キーボードを打ち込んでいく。
シナリオ修正の作業と並行してアプリケーションを立ち上げて、キャラクターの表示画面を引き出す。
程なくしてアプリは、キャラクター表示前のサインイン画面になった。
アカウントとパスワードを打ち込むとキャラクターが表示される。リタはそのキャラクターを見て、呟いた。
「――――死んでも死にきれないのはお前もだよな。フィオセア」
画面に映っているのは、アランたちと出会った人族と名乗った女性、ノーフィスの姿。
しかし名前の表示には『フィオセア』とあり、その理由とばかりにステータスの状態表示には『状態異常:偽装(魔法具)』とある。
その状態異常のアイコンをPC上でクリックすると、容姿が変わる。
偽装状態が解除された姿は、アラン達が知るフィオセアの容姿と、ほとんど同様のものだった。




