56話
「こんにちは。マックス先生はいらっしゃいますか」
「こんにちわ、リタさん。今日は随分かわいらしい恰好ね。定期健診?」
「はい」
「そっかそっか、休みなのにマメだねー。たしかマックス先生はまだ戻ってなくてね。もうじき戻ってくる予定だったと思うんだけど……
戻り次第話は通しておくから、リタさんはいつも診察してるところに向かっててくれればいいよー」
「ありがとうございます、いつも。……失礼します」
受付にいた若い看護師の女性と、いくつかの会話を交わして、最後にお辞儀をする。
彼女は「平郡」さんという方で、ここで受付をするときには大抵彼女が対応してくれている。
受付を後にすると、しばらくして他の職員の人の「先輩、あのお人形さんみたいにかわいい子、誰ですか?!」と声が聞こえた。ここに努めて長い人なら去年の時点で顔見せをしているので大体の人とは顔見知り。
ともすればきっと四月に入って間もない新人さんでもいたのだろうなと漠然と想像する。
声は女性のものだったから、きっとしばらくの間はリタ・ハルトマンの話題を種ににぎやかしくなるのだろう。
平郡さんは随分と砕けた会話だけれども、それは頻繁に訪れる顔なじみだからこそのもの。
本来ならいくら大学付属の病院だからといって……働く医師にはインターン生が多く、必然的に若い人が多くなるとはいえ……ここまで砕けた挨拶を診察に来た人としているなんてことが偉い人や大学関係者に知れれば、処罰はともかくいいものではないはずだ。
あるいは、この附属病院の中でもかなりの地位を持つマックスの、姪に当たる立場の人物からくる『関係者』扱いの気軽さなのかもしれない。
……どちらでもいいことだけれど。
苗字に反して壮大な山を二つ抱える平郡さんに挨拶を返してその場を後に。向かう先は診察室で、いつもと同じ場所なら三階だ。
迷うこともなく、慣れた様子で病院のエレベーターまで歩いたところで、顔見知りの人物の後ろ姿が見えた。
マックスさんだ。その熊のように大きな背中へ向けて「お疲れ様です」と声を掛けると、ドイツ人らしからぬ小麦色に焼けた顔がこちらに振り向いて、声の主に気付くとジャパニーズヤクザも顔負けのたくましい表情が途端に激しく歪む。
これは余談だが、この表情が笑みだとわかるまでに二か月かかった。
ドイツで中学校を卒業してこちらの学校の入学式を行うまで、半年ほどの時間があった。ヨーロッパの学校は、大抵の場合8月か9月が区切り。従って終業式は8月で、そこから日本に来て学校が始まるまでに半年ほど。その期間で引っ越しやこちらでの生活のいろはを、私はこの大男とその奥さんに学んだ。
マックスさんは一家そろって身長がかなり高いハルトマン家のなかでもとりわけ身長がある。その丈は、5・5フィート程度ある私の身長を見下ろすほどだ。身長だけでも頭一つ分は高い。体格は肉厚だが筋肉質で、白衣を着ていなければスポーツ選手と言われてもおかしくないだろう。
その大男は、とにかく笑顔が苦手だ。
口角を釣り上げて、にやりと笑う。普通ならばそれだけのことだけれど、マックス・エルドリッヒという男がやると、とにかく怖い。
以前コンビニで座り込んで迷惑を喚き散らしていた若者に眼光一目、にやりと笑ってみせたところ、何を思ったか三々五々に涙目で逃げ出したなんて話もあるくらいだ。
その割に、病院に入院している子供が泣きだすことはない。むしろ好かれているくらいだというのは、なんとも不思議な話だと思う。なにかコツでもあるのかと聞いたら、彼は私にこう言った。
子どもは純粋な目で人をしっかりと見る。
見られても、動じない芯のあるオトナになる事。……コツは、それだけです。
……その時もやはり笑っていて、笑顔が致命的だな、なんて思ったことだけは確かだけれどそれは言わないでおきたい。
それでも、その時の表情が「笑顔だな」と感じたからこそ、にらんだり何か悪だくみしている悪役などではなく、笑っているのだ。その理解が出来た瞬間だったことは確かだ。
そんな不器用な笑顔を、今もまたこちらに向けて。
彼は話しかけてきた。
「ああ、リタ君。今日は、随分と早いのですね。待たせてしまいましたか?」
「今着いたばかりですからお気になさらず。
どの服を着ても『かわいらしい』なんて言われてしまいますから、以前ほど着替えに時間もかかりません」
「年相応で、いい事じゃないですか」
「……私には勿体ない、って思うだけです」
「僕は、」
「そんなことはないと思うけれど」とでも言おうとしたのだろうか。
けれども、丁度エレベーターが下りてきた合図が鳴って、開いた扉に手を差し込むと扉を抑えながら「どうぞ」と促してきた。
「ありがとうございます。相変わらずの紳士なのですね」
「そんな大層なものじゃないよ僕は」
それきり、エレベーターの中はおろか検査室に会話を交わすことはなかった。
丁寧で、まじめで、優しくて、そして、本当に寡黙な人だ。
辿り着いた検査室の一角で「今日は、心電図検査をしますから、これに着替えてください」と簡易のインナーを手渡してくるマックス・エルドリッヒ先生は、いつか関わる必要のないことに関わって損を被るんじゃないか。
先の笑顔と重なって、そんな風に見えてしまった気がして……気持ちを切り替えるために、更衣室代わりのカーテンで視界を遮る。
そして、後髪の毛をワンピースの内側に入れて、「かわいい服」を脱ぎ払った。
肌着の上に着る上下のわかれたスポーツインナーに着替えてからどうすればいいか訊ねる。
「どうすれば――」
「心電図より先に 脈拍を計り ましょうか。
それ から――……
…………タ リタ、大丈夫ですか?」
眩暈がして、目の前にある声と小麦色の顔と色と肌の感触と……
いろんなものが、ゆっくりとかき回されるコーヒーの中のミルクみたいに揺れる。
胸が鈍い痛みを訴えた。
――大丈夫です。
言いながら…………言葉にできただろうかわからないけれど…………僅かに意識が鈍痛に食い潰されそうになる。
まだ大丈夫、もう少しだけ、と深呼吸をしながら必死で自分に聞かせた。




