54話
しばらく、視点が変わります。
* * * ◇ * * *
僅かな眩しさに目が覚める。
徐々に意識が覚醒して、朝の静けさの中に、ベランダに留まった鳥のさえずりを耳が捕らえる。
胸元下に浅く掛けていたタオルケットの感触が肌に触れて、僅かなぬくもりに安堵する。
口が乾いていることに気付いて、昨夜は夜更かしをし過ぎたなと少しばかりの反省をしながら身をゆっくりと起こす。
手足を動かし、薄緑の遮光カーテンを開け放つ。
すると日差しが薄手のレースカーテンを抜けて顔を照らして、眩しさに目がくらむ中で日の高さから昼前だということが分かる。視線を僅かに動かして窓際の壁にある棚、その上の卓上カレンダーに目を向ける。
過ぎた日は丸印、少しばかり変わった印のつけ方。日捲りの容量で昨日の日付に印をつけて、丸を付いていない今日は5月3日、木曜日。
前の日の2日、水曜日に印をつけて、そこで初めて実感する。
ああ、今日も生きている。
五感で感じて、自分がまだここにいる実感を得る。リタ・ハルトマンの一日は、まるで子供みたいに儀式めいた行為から始まる。それは8歳の時から毎日続けている、日課のお祈りのようなものだった。
先週からずっと、どうにも不規則になりがちで、昼下がりに目が覚めるなんてことも多かったのだが、とりわけ週末に関してはめまぐるしいの一言に限るものがあった。
『エルダーギア・オンライン』……そこで作り上げた自身の世界。エギアダルド。
多くの世界、多くの作者が悩み、時間を費やして作り上げたのと同様に。自身もまたひたむきにその「世界」を創るべく奔走してきた。
作りたい世界はあるけれど、ゲーム作成なんてできる知識も技術もない。そこで選んだのは、人に頼ること。
そこで彼女は、二人の人物に声を掛けた。
一人は、「イスト」と名乗る人物。
彼とは5年ほど前……リタ・ハルトマンが当時10歳の時にテーブルトークのプレイングチャットで知り合った。
イストには、新進気鋭の若手を紹介してもらうこととなった。そこからはあれよあれよと話が進んでいくこととなる。
彼と実際に会ったことはない。
ボイスチャットで男性ということはかろうじて知っているものの、どんな人物でどこに住んでいてどういう仕事をしているのかも、はっきりとはわかっていない。ゲームや映画の制作に携わったという話もすれば、建築用のCADで図面を引いた、修繕作業を行ったという話もある。
ほかにもクリエイティブな活動を方々でしている、らしいという話をとにかくいくつも噂に聞く。けれど、はっきりとしたことは分からない。
不思議で自由で愉快。まるで旅人みたいな、風。
そんな印象でリタは受け留めていた。
もう一人は、母方の兄の奥さんで、「木村・エルドリッヒ・夏美」さん。
リタ・ハルトマンの親戚にあたる彼女の夫は当然ドイツ出身で、当時は看護婦だった夏美さんが旅行に来た際に「様子を見たい」と訪れた病院先に夫のマックス・エルドリッヒさんと出会った。お互いにそこで、猛烈な一目惚れをしたらしい。
夫婦ともども医療関連の職業ということもありまだまだ忙しいのか、子供はいない。
リタの日本留学が決まったときに彼女の母が頼ったのが彼女たち木村夫妻だった。
そんな夫妻にどうやって協力をしてもらったかといえば、世界観の作成だった。
病院というのは多かれ少なかれ、娯楽がほとんどない場所。
大人はそれでいいかもしれないけれども、子供にとっては退屈極まりない話だ。
リタがそれを「なんとかできないか」と相談すると、思いのほか乗りきになってくれた。
「子供たちって、発想が自由じゃない。そういうのを取り入れて言ったら、面白くなるんじゃない?」
そう言ったのは、夏美さんの方。もちろん夫のマックスさんも、話を詳しく聞くと喜んで手伝う約束をしてくれたのは素直に、うれしかった。
うれしいのだけれども、まるで自分たちの娘みたいに可愛がる……フリフリした服とかぬいぐるみとか……そういうのは、ちょっと遠慮したいところではあるけれど。
相談して、協力してもらえることとなったのは非常にうれしかった。以来、暇そうな子供にリタの用意したプリントを使って、いろんなキャラクターの絵をかいてもらったり、こんな設定の勇者や冒険者がみてみたい! なんていう意見をもらっている。
それらはリタにとって、エギアダルドの世界観を作るなかで、とても励みになっていた。中にはあまりに気に入って、取り入れたアイデアもあった。
ボイスチャットで会議を開いて自分のゲーム世界のプランをプレゼンテーション。一週間前のオーナー解禁からは怒涛の制作・調整作業となったことは記憶に新しい。
プレイヤーがいないのでは話にならない。
呼び込むために、年の離れた従兄とクラスメイトに声を掛けたりもした。
そうして出来上がったのが、『エギアダルド』。
モニターの向こうには、確かに存在する世界。
ベッドから身をゆっくり起こしてベッド際の窓の反対側にあるクローゼットを開き、着替えを始める。
「今日は……『マックスさんのところで定期健診』か」
カレンダーの予定にあるメモ書きをぽつりとつぶやいて、ハルトマンはその隣にあるすこし不細工な黒猫のぬいぐるみがこちらを見ているような目線に気付く。
そのぬいぐるみを抱き上げて、頭を優しげに撫でながら、さて。どうしたものかなと立ち止まる。ほとんど貰い物の服が入ったクローゼットをしばらく眺め見た。




