52話
身を起こして立ち上がると、僅かに空気が張り詰める。
ムラマサへの言及まで至らず、警戒はまだ解けていない。後ろに控えているのは護衛らしき鎧を着た人物たち。彼らはムラマサが鉄格子に近づくと、手に握る盾と斧槍を、僅かに構え直した。
確かに、レーグトニアが言う「とにかく早急な救援を」というのはは早計だが……それよりこんな不毛な討論は終わらせて、ここから出たい。
それが、わざわざムラマサが話の間に入った理由の一つだった。
鉄格子の向こうにいるダスティンへと一歩ずつ歩み寄りながら、意見を述べていく。
「なに、簡単な理由よ。
救援が無理で、ともすればエルフは敗北もあり得る……ならばせめて、逃げ延びる先だけでも、という話」
「それがこの都市……あるいは他の人族に、どのような利点が?」
「恩を売る。ただそれだけ。
受ける先あらば戦えぬものを預けられる。
退く先あらば怪我が治療されれば戦力になってくれよう。
人が入れば金も動く、金がないなら腕や技前で工面する。
とすると、土地がにぎわうかもしれんな。
少なくとも当面の負担はあるが、兵を向けるに比べれば些末なものだろう?」
ダスティンの背はかなり高い。
執務室で座っている折にはわからなかったが、平均以上の背の高さはあるだろうムラマサの、頭一つは抜き出る。
体格もよく、いっぱしの貴族が着るような豪奢な服装ではなくあえて兵士が普段身に着けるような軽装の装いであることにも納得できる。
戦う伯爵。若い頃はまだ伯爵ではないかもしれないが、相当に腕利きの剛の者だったのかもしれない。
鉄格子を境に、見上げる形で対面したムラマサは尚も続ける。
「救いもせず、手も差し伸べず。それが人だというのなら滅んで当然の報い。それが人情よ。
だが、人の政は人情沙汰では動かんことも知っておる。
民と政治と、その摩擦の果てには泥沼の戦争が起こることも」
「……捨て置けば大きな戦になると、ムラマサ殿は脅しているのか?」
ここぞ正念場とばかりに啖呵を切った。
「この装束は、拙者の国ではシノビと呼ばれる者達が纏う、特殊な染め布で織られた伝統衣装のようなもの。
では、その服がなぜ黒いのか……ダスティン伯爵殿は解かりまするか?」
夜闇に紛れるため?
不気味さを増すため?
染まらぬ色であるから?
単に汚れを目立たないように?
じっくりと眺めながら、ダスティンは首を縦にも横にも降らずに「ムラマサ。貴殿はレーグトニア殿に雇われておるのだったな」とだけ確かめた。
しばらく、対面したままの沈黙が続く。レーグトニアも、護衛も、固唾を飲んで成り行きを見守る。
先に端を発したのは、ダスティンの方からだった。
「ほかの地域も考慮するなら、ともすれば王城や他国との疎通も図らねば」と思案顔で呟いて、そしてレーグトニアに向き直り、改めて言う。
「残念ながら、戦力は出せぬ。これが覆ることはなく、我々は我々の安全を守るだけで手が足りない。
……だが、困る者に手を差し伸べることはできよう。貴殿らに私個人の判断で出来る支援は行い、避難先として受け入れを許可する。
グレッグとロンドは、各位の門の責任者に制限の解除を通達する知らせを。グラント、書状に必要な書式を執務室にまとめておけ。後ほど処理する」
「この者達の処遇は?」と、グレッグと呼ばれた護衛が訊ねる。ダスティンが「釈放だ、引き続き話があるので私が連れていく」と指示を出すと、ダスティンに伴って何も言わず歩き始めた。
もう一人の護衛、ロンドによって鉄格子に備えられた鍵は開けられる。
先を行くダスティンは歩きながら後ろ手に小さく手招きをして、ムラマサとレーグトニアに牢から出てついてくるように促した。
牢の外に出ると、さほど広くない廊下が一本のみ。二人が運ばれたのは一番奥、突き当りのようで、壁に掛けられたランタンの薄暗い灯りが、廊下の先にわずかに見える、上に向かう階段を照らしていた。
「ムラマサ殿。これは……つまり、どういうことですか?」
「さてな。
だが、あの御仁の采配ならばそう悪いことにはならぬだろうよ」
今のレーグトニアには、二人の間にどのような言外のやり取りがあったか、すべては分からなかった。
意外だったのは、ムラマサ本人もまた「ただ『こうするべき』と、なんともなしに思っただけのこと」と言ったことだった。最後にムラマサが牢から出るとき、レーグトニアは訊ねようとした。「どうして」と、口走った言葉は、ムラマサの先手で塞がれてしまった。
「今は、ただ単に時間を浪費して牢で身動きが取れなくなる時間より、少しでも動ける状況で事を進める方が先決であろう?」
細かな条件と交渉はこれからだと釘を刺してから、一つ。ムラマサは提案をした。
「あの「ねふぃりむ」なる輩の言葉は気になるのだ。
今ならば『影』を一つ、密偵として送れるが……どうか?」
救援の為の戦力とまではならないことを告げた。
牢のあるらしい地下を抜けるべく、先頭になって階段を上るダスティン、その背中と、前を歩くムラマサの背中を一度ずつ交互に見やる。
レーグトニアは「お願いします」と頷くと同時に、視界が開けて明るくなる。
扉をくぐると、見覚えのある門が目の前にあった。
ムラマサとレーグトニアがこの都市に入る時に通った、まさにあの門だった。




