48話
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幾重にも黒い花弁が重なり合った外見。
服装のように見えるが衣擦れの音はなく、そもそも生き物らしい物音がそれには一切感じられない。
誰もが息をするのも忘れている――正確にはムラマサだけがその事実を冷静に観察していたが別の理由で沈黙を守っていたことをほかの誰も知らないが――静かな執務室の中で、誰一人動こうとすらしないまま『それ』が何なのか……何を次にするのかに意識を奪われる。
――日常の中で音に集中して意識を払ったとき、人は普段意識しない様々なものに気付く。
……例えばこの執務室はどうだろうか?
――切り出した大理石の上に絨毯が敷かれた床の上を歩いたならば、靴ならばくぐもった固い音がする。
素足や柔らかい履物だとしたら、静謐な場所では逆に際立って毛皮の擦れる音が耳に届くかもしれない。
……生き物がそこにいたならどうなる?
――十人も入れば窮屈に感じる程度のそれほど広くはない部屋なら十分に把握できる。
例えば、呼吸の音が感じられる。
焦燥に駆られた門兵ならば必死の形相で手で押さえながらもこぼれる短く早い呼吸。
レーグトニアやグラントならば、内心の焦りを心の内に閉じ込めて、何にも悟られないよう自らを隠そうとする不自然なほどの浅く静かな呼吸。
顔色こそ青ざめて見えるが領主も同じだろう。
座っている椅子の僅かな木造の脚の軋みが――それがいかに職人の業であろうと腰かけるのなら僅かばかりは音が鳴る。呼吸を隠すものでも、僅かばかりの音は持つ。ムラマサの故郷などには、僅かな心音を聞き分けるようなものもいた。
……窓の外は、天気や風は?
どんなに完全な作りであっても……むしろ完全なものだからこそ、音や風は通り抜ける。冬の季節の厳しさを物語る大層立派な木枠で覆われた二重の硝子窓は、街中では見ない程に透き通っていて景色ともども美しい。
その向こうには舞い吹雪く雪と暮れる夕焼け。吹雪くからには風があり、少し意識を向ければ風と雪の粒が窓を叩く音が微かに聞こえるだろう。
ならば屋敷の中は?
……ここは二階で、階下にはグラントと同業の給仕がいるだろう。
生活音は上には届かないが、気を傾ければ人の気配の有無はそれとなくわかるもの。
食事の支度、廊下の往来、床から聞き取れないとして、防音の措置なしなら扉を伝って廊下から咳払いか何かが聞こえるかもしれない。
息遣い、物音、気配。
健常な人間ならば僅かばかりは感じるもの。その一つが音。
それら一切の音がしないということは、それだけで異常な事なのだとわかってしまうだろう。
その類の底知れない気味の悪さを『それ』が携えていることを、ムラマサは静かに観察する。
誰もが押し黙る中、始めに静寂を切ったのはムラマサだった。
「お主の名前は、ネフィリム……というのではないか?」
「あら、お久しぶり……いいえ、それともこれはハイでいいのかな?
いずれにしても、その質問には『よくご存じで』とだけ返しましょうか。もしかして、はじめまして、でご挨拶の方がお好みだったりして?」
「それは勘弁被りたい。お主のようには、なれぬでな」
「……ふうん。ふうぅん、おもしろい。面白いのね貴方達のめぐり合わせ。存外、世の中にはまだまだ興味深いものがあるものね」
なにかが琴線に触れたのだろうか。ネフィリムと呼ばれた『それ』は以前どこかで聞いた覚えのあるものと喰われたであろう人物のものとが重なり合った、二重の声でくすくすと笑う。
その笑いはしばらく続き、やがて唐突に「興味はもうない」といった様子で首に突き付けていた刃物を床に投げ捨てた。その様子に、むしろ一層の緊張が部屋の者達の間に走る。
「全くどうして、面白いったらありゃあしないねぇ。【友ゆえに、友だからこそ、喰い合おうじゃないか】とか、随分懐かしいことを思い出させてくれるじゃあないの。おかげさまで子供みたいに恥ずかしげもなく笑っちゃう」
視線が真直ぐにムラマサへと向けられている……その事に、ここにきてようやく周囲の者もそれに気付く。
人の形を成した時、『それ』は肌も眼球も何もかも黒一色だった。人の形をした影、とは外見の黒い色を指すと同時に、そういう意味でもあった。
ーーそして今は、肌色はもちろん、髪や目の色に至るまで人間らしい色に変化している。すこしずつ、すこしずつ変わっていたことに思考が付いて行かず気付かないのも仕方がない。それほどに、苦も無く当たり前のように変化をしていた。
であれば気付くだろう。『それ』がムラマサに向ける視線は、無表情で無感情……酷く乾いたもの。言葉とは裏腹の表情に、人らしい姿かたちをしているならばなおのこと緊張しない道理はなかった。
『それ』はその場でくるりと一回転をして、少女が下ろしたてのドレスに喜ぶかのように仕草だけを振舞った。黒いドレスのような外見が、さながらにふわりと回転に一拍遅れて追従する。もはや服と言っていいほどの、そっくりな外見にまで変化は進んでいた。
周囲の感情を意に介しもせず、『それ』の声だけが抑揚を持って、無表情のまま言葉を続ける。
「――ところでどお、これ。さっきの体に合わせてみたんだけど。
――ほら、『合わせる』って友達にとっては大事な事なのでしょう?」
「その『ふれんど』とやらが何を指すのかはわからんがな、いよいよもって人間離れしているとしか言いようがない……」
「それはおあいこってことで。あなたたちだってそこのところは、この世界の住人からしたら同じ、同じ、同じ、同じ。おんなじような大差ないようなものじゃないのぉ?」
「……それは違うと言わせていただくとしよう。生憎と人を好んで殺すような趣向は持ち合わせて居らぬ故」
「ふうん。そうなんだ。そういうかんじか。ふうん……『尊厳で腹は膨れないのさ!』って返しても、『お主くん』には通じないわけか」
そこだけは妙に、人間らしい感情が見えたような気がして……けれども、それを察することが出来るような余裕は、この場にいるものの中ではムラマサのみに限られた。
――――再度の静寂。
今度は下がり口調で気分が萎れるような言葉とは裏腹に満面の笑みで笑っていて、余計にその心情を図り切れないちぐはぐな印象を与えて、誰もが一層の困惑を深めた。
……困惑がないのは、ムラマサだけだった。
しかし表情には深慮の末に納得しきっていないような苦しさを携えながら、彼は『それ』に再度語りかけた。
「あずかり知らぬ事情があって、さもありなん。
人はだれしも、予想だにしないことを抱えるもの。それは誰かにとってはくだらぬことで、当人にとっては時に何より代え難いもの。
……故あって、拙者は今一度、同じ言葉を問い正そう」
――「お主はネフィリムか」そう言い切った瞬間に、部屋の……ひいてはこの屋敷の全てが脈打ったかのように大きく震え始めた。
それは、声だ。
最初は小さく。
次第に大きく。
部屋の窓……屋敷中、この城塞都市の全ての硝子が伝播して次第に大きく振え、やがて絶叫のような音を立てて一斉に割れる。
大きな音の後には、静かになった窓硝子のない執務室へと吹き込む風と寒さだけが残される。
その風に腰ほどまでの黒髪のような何かを靡かせて、音もなく『それ』は言った。
――先ほど窓硝子を割った時と同じような激しい振動が再び起こる……けれども耳には、抑揚なく澄んだ声のみが確かに響いた。
それは先ほどまでの二重に重なった声ではなく……取り込まれた神官でも、門兵やムラマサの知る『ナミネ』の声でもない高低併せ持った奇妙な声だった。
「私はネフィリム。
その仇は名を『友喰らい』。
この世界の終焉の音を賜る一の堕神とされるもの――
この世界の先に一切の希望無し。
なおも抗う者達に我ら問う、第一の救いの法。
【どうかワタシを泣きやませてくださいませ】
――その解はあるのだろうか?」
――言葉の最後、それに重ねた……城壁の外にいる門兵を捕らえに行くときと同じ、相手と自分を重ねて自身の存在を極限に対象と同化する、呼吸を用いた隠れ身。
ムラマサは、果たして『それ』の言葉の終わりを待っただろうか。
執務机を足蹴にして、音立てず腰の獲物を『それ』に向けて振り抜いた。




