37話
──光に飲み込まれて音も色も肌の感触も遠くなる。
指の先から体の隅々まで、一切の感覚がなくなる。
目がくらむというものではなく突然中空に放り出されたかのような地に足のつかない感触……その感触すらないかのような。
けれどもそれは長くは続かず──感覚そのものが自分に続いていないのだからそれも当然、どれほどの時間が経っていてもおかしくはないが──ムラマサと呼ばれた男の視界が晴れた時、そこは一面が雪と氷で覆われていた。
「……ここが、地獄」
切り立った氷壁の上、ひとり呟く。
周辺には降りるも登るもなく、そもそも道がない。周囲を伺ったあとに崖の下を覗くと、眼下にはおよそ人の丈の十倍以上はある城塞に囲まれた年のようなものが見受けられた。
「よもや人の暮らす気配があるとはこれ如何……ふーむ、常なればありえぬことだが、寒さは問題ない。三十路の身も鍛えれば侮れん、か?
さりとてまるで力という力が抜け落ちたかのような感触。それにこれは──」
白い小袖と深い藍色の括り袴、それから白い足袋。袴の色さえ赤ければ、簡素ではあるが荷を解いて休む軽装の山伏のようにも見えなくもない。
男は自らの装いに変わりがないかを確かめる。その様相は寸分違わず覚えのあるもので、それゆえにひとつだけ説明のつかないものを持っていることに気づいて、思わず男の眉間に皺が寄った。
何も持たないまま行われた流刑のはずが、驚いたことに彼の腰にはひと振りの脇差が据えてあった。持ち込んだ覚えもなく、持っていないはずのものだ。
──刃物はもとより、本来ならば何物も持たされることのない処刑。
流刑においては稀に、情けとばかりに自害をするための匕首程度なら気まぐれで渡されることもあるだろうがこれは違う。
腰に据えられているのは脇差。
年の数ほどに付き合いの長い刃物を、男が間違えるはずもなかった。
……とはいえ付き合いの長いとはいっても、脇差は愛用のそれではなく、全くの新品だった。
銘も持たない見習いの習作のような簡素な出来ではあるが、頑丈な作りのひと振りだろう。手馴れた様子で抜き放って、刃の反りや重さを品定めをしながら握りの感触を確かめる。
さも当たり前のような動作で数度、風を切る音をひと呼吸のうちに鳴らした後に鞘へと収めると、「技量は劣らず、されど体躯はままならず、といったところだろうか」と深い溜息のように男は呟いて、独り言を続ける。
「まずはここがどこなりとも、あの壁のところまで降りてみると致すか……
ふむ、これは里に居た頃の修行を思い出すのう」
――言って、切り立った氷壁から断崖の外に身を踊らせた。
自重のままに急落下する中で、素早く目を走らせ、要点を抑えて氷壁に突き出した岩肌や氷を軽く蹴る。決して手は伸ばさず、足を匠に操って、氷壁伝いに斜めへ下へと跳躍を繰り返す。落下ではなく飛翔。ただしそれは、一瞬でも判断を過てば即座に死が出迎えるもの。
一歩間違えれば命を落とすばかりだというのに、深みのある声色で豪快に笑う。
……まるで朝露の滴る夜明けに散歩を楽しむかのような、そんな気軽さが男の表情にはあった。
「最小の動きに最善の判断。これくらいのこと、里の童子どもでも出来よう。
ま、出来ぬならば野となり山となり、くたばるだけだが……くく、これがどうして、楽しくなってきたわい!」
その様子を誰かが目にしたのならば、さながら飛び跳ねる兎のように見えただろう。
落下の速度も相まって、幾ばくもしないうちに崖は終わり、先程まで遥か下方にあった都市の外壁が近づいていく。
――すると遠巻きに見える門前で、なにやら揉めている様子が覗えた。
「──ですから、一刻の猶予もないのです!」
「そう言われてもなぁ、今現在、この壁氷都市『シャルシ=ロナ』は人族以外の立ち入りを制限してるんだ。お役所仕事で悪いけど、こちらも仕事なんでね」
「なら面会の取り次ぎだけでも申し立てを──」
歩を緩めつつ近づいて、やがて立ち止まる。その問答の片割れ……門兵らしき男に先刻までの笑いや独り言からは想像できないほど穏やかな声で話しかけた。
「もし、其処の方。ここは人里か?」




