〔序〕
ようやく書き始められました。わっしょい
――音だ。そこでは、あらゆる音が身体の芯底までをも叩く。
金属がぶつかる音。
角笛がうなる合図の音。
不退転ゆく靴の音。
身を奮い立たせ叫ぶ声の音。
恐怖、苦痛、怒り、憎悪、怨恨、奮闘、励起。ありとあらゆる音が啼く。
周囲からはこの世のすべてを集約したかのように音に負けぬほどの声という声が飛び交って、それでも何を聞こえることか。
こうもはっきりと必要な言葉を拾い上げられるのかと驚きさえ覚える。
きっと人間だけは地獄であろうと声高々に叫ぶのだろうと、瞬きほどに想いを馳せる。
「ノーフィス!」
くりぬかれた土の塹壕の一つから声が上がり、己が名前を呼ぶ声に精神が思慮から戦場へと呼び戻された。
足の感触は屍の欠片混じるぬかるみを踏みしめたり踏みつぶしたりして、言葉にも言えぬほど不快な感触踏ん張っているし、手の感触は拾った剣で今しがた皮を縫い付けた骸骨のような顔をした異形の存在を貫いたばかりで暖かい血が手甲を伝う。
――ああ先ほどの感傷にも似た思考の行き先は、きっと、ヴァルハラだ。死んでいたら、戦士はそこに行くのか。走馬燈というものがあると異邦の剣士から耳にしたことはある、それに近いのかもしれない。
人が思い当たる物事の本質の終点は、いつだって似通うもの。
碌でもないものか、はたまた他愛ないものかのいずれかだ。
こちらに来るばけものどもの勢いが途切れたとはいえ呼び声に気を取られ不意を突かれぬよう、最大限警戒をして轟音の中声の方へと駆けていくと、そこには見知った顔ぶれがいることにいくばくかの安堵を感じた。
「残ったのは」何人だと訊ねるより早く呼び立てた男は返事を叫んだ。
「こっちはだめだ! もう隊列を維持できん、後方への撤退支援、頼めるか!」
殿を押し付けられる身にもなってほしいものだが、あいにくとそれを断るすべがない。掛けられた声に、応、とだけ答える。
男には眼球の片方がなく、それと同じ左のひじから先は炭化し砕けたような骨が突き出ている。
肉は焼くことで塞いでいて出血はないが、あからさまに顔色蒼白であることが見て取れる。それが周囲で一番マシな具合なのだから、五体満足の自分に断れるわけがない。
躊躇うこともなく引き受けるという合図で首を縦に振ると、男は「退くぞ、動けるものはまだ死んでなければ助け合え、合流は第二防衛ライン! 撤退だ!」と叫んだ。
近くにいた負傷者、おそらくは息絶えていない彼を担いで塹壕から掛け出て行った。
他の者も、男ほど機敏に動けるようなものではないにせよ、気力をどこに備えたものかと訊ねたくなる動きでなるべく固まらずに散開していく。
自分もまた殿を引き受けた以上は手を抜くつもりはなく、改めて気を引き締めた。
ただ戦うだけでは、彼らは足元のソレと化すだけ。
撤退の際に担がれなかったものに並ぶだけ。
自分にわずかでも何かが出来るのだとすれば、それは一人でも多くそうならないように努力すること、他にはない。
私は彼らが向かう後方の防衛ラインとは逆方向を見やり、迫る脅威に思わず嘆息が出る。
醜悪極まる怪物や異形の存在ならいざ知らず、迫る脅威には人間らしき形をした姿もあった。
――ああ、全くもって至らない。
神という仕事は、苦境を与えなければこの世を眺める価値もないほどに退屈しているというのか。