第十二話
川には透明で清潔な水が流れている。その水位は私の太ももの高さくらい。
リリエッタとともに水遊びに興じすぎたせいで太陽はもうすっかり地平線の下に沈み、月が夜空を照らすまでになっていた。
もうすっかり夜だ。私はお腹が減った。
「ミューエ……、お腹減ったの?」
「そりゃそうでしょ。あれだけ動いたんだもの」
そう、今は夜。一日の終わり。
一日が終わるというのに、私たちはお昼から何も食べていない。リリエッタに限っては朝から何も。
ともかく、私たちは何かを胃袋に収めなければならない。
「何か食べるものはないかな」
ないことは百も承知だが、私はリリエッタに尋ねる。
戦場に置き去りにしたアジトの中には食糧とお金と戦利品が保管されている。
しかし、この洗い場は戦場から王都を挟んで真反対に位置し、今からあそこに取りに行くことは出来ない。
「飲み物なら飲みきれないくらい流れてるよ?」
「ダメダメ。カロリーにならない」
清涼な川が静かに流れている。しかし、この川を全部飲んだところで空腹は満たされない。経験則と無駄な雑学がリリエッタの意見を否定させた。
成長期の私はお肉を食べたい。
「せめて人が居ればね」
「……そう、だね」
太陽はすっかり沈み、周囲に人の気配はない。
もし行商人なんかが居れば食糧を売ってもらっても良かったのだが……、いや、お金もアジトの中か。
「やっぱり狩るしかないか」
私の言葉にリリエッタは応えなかった。
まあ確かに、日が落ちてから狩りを始めるなんて考えなしも良いところだ。しかし、人間食べないと生きていけない。
「適当に魔物を襲って焼いて食べよう。今から捕まえるのは骨が折れそうだけど……、って、その前に川から上がらないとね」
食事の算段を頭の中で考え始めた頃、私は自分が居る場所を思い出す。
ここは川の中。私は陸生生物。
「こんな時に魔法が使えたら便利だなーって思うよ。聖女様みたいな出力はいらないけどね。たしか王都では魔法技術を応用して生活に組み込んでたりするんだっけ」
「王都はそんな風になってたんだ。便利だね……」
何故か落ち込んでいるリリエッタに首を傾げるながら、そろそろ本格的にお腹がすいてきたので川から這い上がる。
滴り落ちる水を払いながら周囲を見渡すが、鬱蒼とした自然は既に闇と同化しており目ではまるで識別できない。
しかし、空気の流れや音が、得物の“気配”を教えてくれる。
――得物は、いる。
私と得物との距離は約一キロメートル。
ガサゴソと音を立てているようでは戦闘能力も高くないだろう。
走れば一分の距離だが、気づかれないようにとなると……。
「リリエッタは水の中にいてくれて良い。そっちの方があっちからも分からないだろうし」
“狩り”において、リリエッタの出る幕はない。
水の中でブクブクと息を吐き出しているリリエッタを置いて、私はすーっと音もなく移動を始める。
得物に気づかれる距離はどれくらいだろうか。魔物の中には十キロ先の足音まで聞き取れる種族がいるらしい。しかし、この付近に棲んでる魔物は「ゴブリン」「スライム」「ゴーレム」くらい。どれもそんなに夜眼がきくわけではない。
あの「気配」は何となく幼い気がする。人間で言えば子供くらい? 群れから外れて不用心にたった一人でいるなんて無謀にもほどがある。
……などと考えている間にも、私の足は音もなく獲物との距離を詰めている。
闇の中に自分が溶け込んでいくかのような感覚……。
獲物との距離、一キロ、八百メートル、五百メートル。
こんな暗闇の中でたった一匹でいるなんて、どんな事情があったのだろうか。
いや、得物の事情なんてどうでも良い。愚鈍で大きめの“肉”であること――、こんな得物がすぐ近くで見つかったことを喜ぶべきだ。
獲物との距離、三百メートル。
あれはゴブリンの子供だろうか?
かなり接近している。もはや得物の輪郭さえ識別できる。「ゴブリン」の体格はひどく華奢で戦闘すら必要ない。
得物は、夜に輝く花を摘んでいる。
獲物との距離、百メートル。
流石にこれほど近づけば得物もこちらに気づいた様子だ。
大慌てで逃げようとするが、逃げる体勢を整える前に、得物に飛びつく。
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「ぷはーっ! やっぱり人間はお腹がすいたら食べないとね!」
すっかり日が落ちた森の中、捕まえた得物を焼いて食べている。
今回の収穫は「ゴブリン」だ。
まだ新鮮なお肉を焼き、食べられそうな部分は取り出してかぶりつく。ポケットの中に入っていた短剣で、ゴブリンの腕を切り裂いて炎の中に投入する。
このお肉は脂がのっていてとても美味しい。
「美味しい! リリエッタも食べれば良いのに」
「私はお肉が苦手だからね……」
成長にはタンパク質が必要なので積極的にお肉を勧めるのだけれど、リリエッタはかたくなに口にしようとはせず、代わりに採ってきた木の実なんかを有り難がって食べている。
「お肉、美味しいよ? ほら、皮がこんがり焼けててぱりぱりする」
「木の実が美味しいから、いいかな」
私が好意で差し出したお肉をリリエッタは心底嫌そうな顔をして顔を遠ざけた。
……まあ、菜食主義に無理矢理お肉を食べさせるわけにも行かないか。
最近判明したことだけれど、リリエッタはかなり頑固な菜食主義なのだ。
「せっかく仕留めたのに……。群れからはぐれてて幸運だったのよ? 近くにいたこともすごい運が良いことなんだから」
「そうだね。今回は本当に運が良かった。本当にラッキーだね」
リリエッタは胸を押さえつけながら何度も何度も幸運だったと呟いている。
そんなに幸運を噛みしめているならば、リリエッタもお肉を食べれば良いのに。
「まあ、言ったって聞かないのは分かってるけどね」
「分かってくれて嬉しいよ」
人に無理強いしても仕方がない。それより、リリエッタが栄養失調にならないようにもっとたくさんの木の実を収穫してくる方が建設的だろう。
「おかわりはいらない? ここら辺はいっぱい木の実がなってるから、いくらでも採ってこれるよ」
戦争で治安が悪化したためか、最近では王都の外で人をまるで見かけない。もしかしたら事業拡大を目論んでいる傭兵団に攫われたのかも。
「私はあんまり食欲ないかな。疲れすぎて眠いよ……」
「それじゃあ私が火の番をしてようか。敵が来たら守ってあげるから、ぐっすり眠ってて」
「ありがとう。そうさせてもらうね」
いつものように私はリリエッタを寝かせつけると、光源を絶やさないために火の管理をし始める。
ゆらゆらと柔らかな光は私たちを穏やかに包み、リリエッタはころんと横になった。
「ここは落ち葉もふかふかだね。ゆっくり休んで」
「ありがとう、ミューエ」
どこに頭を置こうかと迷っていたようだが、結局私の太ももを枕代わりにすることにしたらしい。
私は小さな頭の重さを感じながら、空を見上げた。ああ、今日は星が綺麗だ。
それから程なくしてリリエッタは眠りにつき、暗闇の中には炎のぱちぱち、という効果音だけが時折聞こえてくる。
静かな暗闇の中、私は不意に夜空を見上げる。無数の星が輝いていた。
光り輝く星々は大昔から、遥か未来まできっと輝き続けるのだろう。
何億光年も遠くにあるあの星の中には、太陽の何兆倍も大きな恒星も含まれているらしい。
「王都、か」
この地上から見える中では、王都の光はどの星よりも眩しい。夜空をヴェールのように覆う大きな光のかたまり。
技術の進歩はどこまで進むのだろう。いつかあの星をも征服してしまうのだろうか。しかし、人がどれだけ発展しても私たちの居場所は……。
今日は本当に色々なことがあった。
戦場ではアンデッドに襲われ、教会の“聖女”に捕まり、人類の敵、“死神”に救われて。
聖女は私たちを十年後に殺しに来るそうだ。だから、それまでに私たちは力を付けないと行けない。
でも、そんなのどうやったら良いんだろう……?
私たちは王都の中では生きられない、暗闇の中を這うしか出来ないちっぽけな存在だ。
そんなものから一体どうやって、光の象徴のような聖女から身を守ることが出来るのだろうか。
私は太ももの上で静かに息をしているリリエッタの頭を撫でた。
「ねえ、ミューエ」
すると、寝ていたと思われたリリエッタは、静かな声で私を呼ぶ。
「どうしたの? リリエッタ」
ミューエの大きな瞳が私の顔を捉える。
「もう一回、戦場に戻ろうか」
リリエッタは明確な意思を持って、私に道を示すのだった。




