終焉の悪夢
「そっち行ったぞーっ!」
大きな声に打ち上げられるように、白いボールが弧を描いて飛んできた。
腕を前で組んで、打ち返す。高く宙を舞ったボールをアタッカーが敵コートへ叩き込んだ。得点だ。
「よっしゃー!!」
「ナイスプレイ!」
口々に上がる歓声に、私はほっとして腕を下ろした。
すぐ前で待機していた師岡くんが、振り向いて声をかけてきた。
「吹上、すごい回復の早さだったよなぁ。一学期の頃のスポーツ神経、戻って来たんじゃね?」
「うーん、そうかな?」
「絶対そうだって」
ナイスアシストだったぜ、と言い残すと師岡くんはまた前を向いた。審判の所に立ってる住江先生が私を見て、小さく頷いた。
ふぅ。細く息を吹き出すと、高い空を私は見上げた。多少の雲こそあれど、澄み渡ったその空は清々しいほど蒼く、輝いている。
◆◆◆
一ヶ月間、私を苦しめた悪夢の正体。
それは一言で言うなら、麻薬だった。
ここから先は全て、私が後から聞かされた話だ。
麻薬の一種である覚醒剤には、人に幻覚を見せる効果がある。
全ての元凶は、病院に勤めながら一方では自宅で危険な研究開発も行っていた成木先生──いや、成木吉雄が開発した、覚醒剤の効能を有する特殊なガス状の麻薬『NAD』だった。
計算上、期待される効能は強烈な幻覚作用。そして、禁断症状の発症から三十日後には完全に廃人と化すその影響能力だった。しかし、如何せん試す相手がいない。そこで実験台として選ばれたのは、隣家の二階に住む私──吹上沙織だった。
昔から、私は窓を少し開けて寝る癖があった。周囲に立つビルの影響で、成木家の庭を通過した風は吹上家の二階に達することが多い。それを知った成木は、毎日風の大人しい時間帯になるとこのガスを流し、本人が気づかないくらい少しずつ、私を麻薬中毒にしていったのだという。夏の間、私が頻繁に目撃していた野焼きの煙は、実はこの麻薬ガスだったんだ。
夏休みの終わり、成木は予定通りガスの放出を止めた。すると私はたちまち禁断症状に陥り、悪夢を見るようになった。その様子を毎晩見ていた成木にしてみればそれだけでも満足のいく結果で、悪夢を見た私が階段から転落して病院に来るとは思っていなかったらしい。これはチャンスとばかりに担当医になり、経過観察と称してさらなる実験を試みた。悪夢の制御は、可能なのかという点だった。
診察室や病室でガスを吸わせ、禁断症状を一時的に抑制する。結果として、私は見事に悪夢を回避した。既に三十日は目前に迫っていたから、私の最期も看取る気だったんだろう。寸前になって、思わぬところから企みが露見し覆されるだなんて、思いもせずに。
事件を明らかにしたのは、桃子だった。
桃子の違和感は、私が階段から落ちた次の日の診察時に遡るらしい。診察室には、妙に甘い香りが充ちていた。既に薬漬けだった私には分からなかったけれど、お母さんも少し感じてはいたらしい。そして翌日、二人とも体調を崩した。
成木という苗字にも、見覚えがあった。桃子の家は私の家から見て、成木家の先の方にある。何度もうちまで来る間に、数回は目にしていたんだろう。
一ヶ月という短期間で、明らかに態度も容体も激変した私。不自然なタイミングで体調を崩した二人。私の家まで向かううち、その匂いが隣の家からも仄かに漂っていることに桃子は気づいた。成木という表札の文字に確信を募らせながら、こっそりと窓から中を覗き込んだ時、気がついたんだ。部屋の奥に積み上げられた箱に、中学生の知識でも分かるような劇薬の名前が幾つも列挙されているのに。
桃子に言わせれば、そのとき全てが一瞬で繋がった。警察が現場に到着して、劇薬の正体が判明した直後に私に病院からの逃亡を叫んだのは、そのためだったんだ。
「もーあたし、大活躍だったんだからね!?」
全身から力が抜け、ベッドの上でぐったりとする私に、桃子は力説してくれた。
「警察に連絡するじゃん? そしたら『なんで他人の家を覗いてるんだ』って突っ込まれるじゃん? あたし、怒られてんのか誉められてんのか分かんなかったよ」
「……まあ、一歩間違えば住居不法侵入罪だもんね……」
「そーだよー。でもあたし、最悪自分が捕まっても沙織が助かればいいって思った」
思いっきりドヤ顔をされて、少し複雑な気分になる。
桃子の腕には、点滴の管が未だに突き刺さっていた。程度の差はあっても、麻薬に侵されたのは桃子も同じなんだ。
危険を省みず私を救ってくれたと知った時、少し泣いたのを覚えてる。私は、そんな大切な友達を邪険に扱ってしまったんだ。
薬に侵されていたって、やっちゃいけないことはある。後悔の涙に暮れる私に、いつものことじゃんって桃子は笑ってくれた。それはそれで、妙な気持だった。
ともあれ、成木吉雄は出動命令を受け突入した青梅警察署の警察官によって取り押さえられ、麻薬取締法違反で逮捕された。病室と診察室に設置されていたアロマからは案の定、ガス状の劇薬が検出された。
既にかなりの劇薬を浴びていた私は、はじめのうち数日を病室で過ごした後、毎日毎日学校と家と病院を往復しながら回復治療をすることになった。
一学期の間、私がやたらに優等生だったのも頷ける。なにせ無自覚のうちに、毎日のように覚醒剤を服用していたのだから。
全ての謎が解け、少しずつ日常が戻ってきた。
学校の友達との仲直りも、桃子の事前の説明の効果か信じられないくらいスムーズだった。
快くまた仲間に入れてくれたみんなにも、桃子にも、感謝の一言しか出ないよ。本当に……。
◆◆◆
それにしても。
「結局、あの黒い影は何だったんだろう……」
髪を乾かしながら呟くと、隣で手を洗いながらお母さんが尋ねてきた。「沙織が悪夢の時によく見たっていう影の話?」
「うん」
あれだけは私を襲わなかった。そればかりか、事件の謎を解くヒントさえも私に与えてくれた。
悪い存在には、思えないんだよね……。
「ガス麻薬アロマの風に当たるたびに姿が欠けていってたのも、なんか変だし……」
ドライヤーを置くと、おやすみ、って言おうとした。その前に口を開いたのは、お母さんだ。
「……自我、かもしれないわね」
「自我?」
「人の心──と言うより精神には、他のモノの介入を防ぐ機能があるって、聞いたことない?」
ないや。
「地球に例えるならオゾン層みたいなものよ。地表に降り注ぐ紫外線っていう害悪な存在から、地球の生物を守っているでしょう?
きっと、それが麻薬を浴びるたびに崩壊して、侵蝕されていくのが具現化したのよ。夢を見るようになってから少しずつ薄くなっていったっていうのも、それだったら説明がつくと思うし。夢の中で沙織を助けようとしたのも、頷けるわ」
……助けてくれた訳じゃ、ないんだけどね。
それでも、お母さんのその声には説得力があった。私を襲わなかったのは当たり前だし、うっすらと私を覆うあの姿の意味もそれなら説明できる気がする。
不可侵領域である私の心への交渉を防ぐ、最後の防御結界。カッコいい言い方をすれば、そんな感じなんだろうなぁ。
今度こそおやすみって言うと、二階へ上がった私は自室のドアを開け、ベッドに潜り込んだ。
ようやく安心できる場所になったそこは本当に暖かくて、
すぐに意識が落ち込んでいった────
『ジリリリリリリリリリリリリ!』
ああ、目覚ましが鳴ってる。
止めなくちゃ。寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こした私は、時計のボタンを押した。
異変が起こったのは、その直後だった。
『ジャリジャリジャリジャリ』
ゼンマイのような可笑しな音を立てながら、時計の針が逆回転を始めたんだ。
「あれ……?」
見る間に、時計はぐるぐると時間を戻していく。窓の外の景色が明るくなり暗くなって、カレンダーにつけたバツも後ろから順に消えていく。
止まらない。何をしても止まらない。
怖くなって、私は時計を握りしめた。
十月半ばに達していた日付は、九月に入った。
刹那、私の頭の中にフラッシュバックしたのは、
あの悪夢たちだった。
もがき苦しみ、白眼を剥いて悶絶する私の姿だった。
いや。
もう、あんなのはいや。
もう絶対にいや。
目を瞑ろうとしても、瞑れない。迫り来る腕に、舌に、私は声にならない悲鳴を上げた。
いや、
いや──────
「……あんた、なんて姿勢で寝てるのよ」
お母さんの声で我に返った私は、自分が目覚まし時計に手をかけたままの状態で固まっていることに気づいた。
あれ、私もしかして二度寝してたの……?
「しっかりしなさいよー」
笑いながら、お母さんは遠ざかっていく。その背中に、ついさっき私の目の前にいたドロドロのお母さんが重なった。
「今度は……続いたり、しないよね」
明るくなった朝の空に確認を取ると、私は改めて伸びをした。
あの真っ黒な影が、ちらりと視界の隅を横切った気がした。
……これにて、「臨月天光」は完結となります。
作者史上、「キセキノモノガタリ……」「ザ・タワー」に次ぐホラー三作目となった本作の出来は、いかがだったでしょうか。やはりホラーは書くのが難しいです。読者の皆様を怖がらせられる文章というのが、いまいちまだ掴めずにいます。
本作の舞台は、東京都青梅市です。
「東京愛徒」シリーズで未採用の場所だったということもありますが、何よりこの市内には関東でも最恐と怖れられる心霊スポット、吹上隧道があります。主人公である吹上沙織の苗字は、ここから拝借しました。作中でも成木が言及していますね。
ガチでヤバい、などと諸心霊サイトにも書かれる有様ですので、お読みになった皆さんも決して行かないようにしてくださいね。あっ、作者はそういうの苦手なので((逃
なお、テーマソングを設定して書き始めた作品ではないのですが、KOTOKOさんの「リアル鬼ごっこ」をBGMにお読みいただけると、より一層臨場感が増す仕様となっております。
薬物、ダメ絶対です。不審に思えるくらい悪夢が続いた時は、一度疑ってみるといいかもしれませんよ。あなたご自身の、健康状態について。
2014/9/30
蒼旗悠
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本作は月別テーマ短編企画「第十三期テーマ短編・集大成」に参加しています。感想、レビュー、ポイント評価、どれでも結構ですのでしていただけると作者は非常に喜びます!