闘諍の終焉
「今夜の調子は、どうですか」
アロマディフューザーのスイッチを入れると、先生は穏やかな口調で聞いてきた。「いい気がします」と答えると、小さく頷く。
「今夜は、拘束具は止めましょう。その代わりに検査機器を付けて寝てもらいます」
ガラガラと台に乗ってきたのは、パーマをかけるのに使うような装置だ。「これで脳波を計測し、君の脳の状態を確かめます。そうすれば、寝ている間に君の脳の中で一体何が起こっているのかを突き止めることが出来るのです」
「へえ……」
何だか分からないけど、しろと言われたらするしかないよね。頭の上に来るように機械をセットすると、先生はまた昨日のように病室を出て行こうとして、
ふとしたように立ち止まった。
「──時に君は、“幽霊”なるものの存在を信じますか?」
先生は真顔で尋ねてきた。唐突な質問に、一瞬答えに詰まる。
「幽霊ですか……。あんまり、信じてないかもです」
「それは、どうしてですか?」
「うーん、何となく」
答えになっているのかよく分からなかったけど、先生はそれで納得したみたいだった。「君は、あまりオカルト系には興味がないように見えましたが、やはりそうですか」
確かに、ないけど。目を何度かしばたかせると、先生はちょっと笑った。笑う気のない、苦笑いだった。
「変なことを聞いたと思ったでしょう。何せこの病院には稀に、幽霊に取り憑かれたなどと言って駆け込んでくる輩が居ましてね。如何せんここ青梅市はその手のオカルトにはやたらと強い町ですから。何でも胡散臭い廃屋やら廃トンネルやら、怪しげな噂が立ちそうな場所が多いみたいですし……」
困ったものです、と肩まですくめて見せる。
私のこれは、明らかに違う。私はそんなものには興味がないもん。自分で自分に再確認すると、私は小さく息を吐き出した。
「……みな、知ろうとしないだけなのですよ。本当に怖いのは幻想でも悪霊でもなく、現実世界なのだということを……」
先生が最後に残したその一言はきっと、常に死と隣り合わせのその仕事ゆえのものなのだと思った。
寝ようとしたら、スマホが微振動を始めた。
何だろう。手にとってみると、お母さんからのメールが来ていた。
[お友達にも連絡取ってあげなさいよー。すごく心配してたから]
その文面に、私は真っ先に桃子の顔を思い浮かべる。最後に会った時、私そういえば追い払っちゃったんだよね。
メッセージでも送っておこう。通話アプリを起動すると、調子よくなったよって打って送信する。
返信はすぐにやって来た。
[そっか、良かったよ……]
アイコンに表示された顔写真を見ても、もう怪物を思い浮かべたりはしなかった。
何だかホッとした。私、ちょっとずつだけど回復してきてる。身体も、頭も。
[ありがとう。心配かけて、ごめんね]
[ほんとだよー。なんか最近、あたしまで調子崩してきちゃってさー]
[え、大丈夫!?]
[分かんない。なんか、身体が怠くて……]
それからしばらく、他愛のない会話が続いた。
桃子は私の家にも行ったらしい。お母さんが、何だか風邪っぽいって話していたとこぼしていた。そんなの聞いてないって私が尋ね返すと、桃子は笑った。きっと、沙織に心配かけないように言わなかったんだよ。そう、言っていた。
[そうそう、ちょっと気になることがあってさ]
眠気が出てきた頃になって、桃子はこんなメッセージを送ってきた。
[沙織の担当医の部屋、あたしも行ったじゃん? あの時、なんか変な香りがしなかった?]
[変な香り? 別に?]
[そっか、じゃああたしの気のせいかな]
[じゃない?]
そこまで打ったところで、眠気が頂点に達した。ダメ、もう持たない……。
おやすみと打つ前に、私はスマホをベッドに取り落とした。最後にちらりと、こんな言葉が目に入った。
[あの匂い、沙織の家の近くでも感じたんだけど。気のせいかな……]
◆◆◆
ふと、
目が醒めた。
壁にかけられた時計は、午前三時を示していた。
あんなにあったはずの眠気が、今はもう感じられない。うそ、目、冴えちゃった……!?
悪夢が始まる。
迫り来る確信に、恐怖で私は思わず布団にしがみつき、目を閉じた。もし、一昨日のように命を狙われたら……。もし、負けてしまったら……!
一分が経った。
何も起こらない。おかしい、悪夢の時はいつもすぐに何かしらのアクションがあったのに。
私はそっと、目を開けた。真っ暗な部屋には、外に向けて開いた窓から月の光が差し込んでいる。部屋の中に並んだ器具や設備が、銀色の光に照らされて静かに輝いていた。
そして、その中央。
正方形の病室の真ん中に、誰かが佇んでいた。
真っ黒なシルエット。見覚えのある姿形。
影だ。
「…………!」
声が出せなかった。
これまで一度も経験したことのないパターンだ。昨日と同じと言えば、同じなのかもしれないけど。
でも、向こうは何もしてこないし、私も何も出来ない。いや、逃げようとさえ思えば逃げられるはずだ。
ただひたすらに、静かな空間。沈黙に押されるように、影は僅かに揺れ動きながら私を見つめ続ける。
その時、私は気がついた。影が少しずつ、薄くなっていることに。
胴体が、腕が、抉られるように欠け、そこを埋め合わせるように全体が薄くなってゆく。その先に置いてあるのは、先生が置いていったあのアロマディフューザーだ。
どういう……こと?
「──月影、肢端に充つるに臨みし時」
影は俄に、口を開いた。
私の声だった。
「何処より差さん天光、其の霊界を蝕み肉界へと足を踏み入れん」
臨月、天光……。
いつか桃子に聞かされた都市伝説の名が、脳裏に蘇った。
「気を付けよ」
影はぐらりと揺れたかと思うと、最後に私を一瞥した。
「破られしその結界、並の決意では覆せぬ。月は臨終、既に天光は来る。暁鶏を、待ち侘びよ──」
ふっ。
黒い影は、消え失せた。
◆◆◆
「そんな夢を見ましたか……」
夕べ見た夢の内容を伝えると、成木先生は少し黙り込んだ。
あれ、やっぱりまずい夢だったのかな……。不安に駆られて先生を見つめるけど、何も分からないままだった。
やがて、先生は口を開いた。
「悪夢でないということは、少なくとも快方には向かっているのでしょう。データは無事、録れました。あと一晩が関の山。頑張りましょうね」
先生は振り返らず、ドアをぴしゃっと閉めた。
あれ、怒ってるのかな……。それとも……?
何だか気持ち悪いものを頭の隅に引っ掛けたまま、私はその後の時間を過ごした。昨日言っていた通り、夕方になってお父さんもお母さんも面会に来てくれた。
一頻り下らない話をして二人が帰って行くと、することがなくなった。窓からの景色は相変わらず変わらないけれど、今は昨日とも一昨日とも違う色に見える。
今日で、二十九日が経った。
桃子の教えてくれた都市伝説によれば、明日……つまり三十日まで生き残らねば、死んでしまう。
成木先生の言う関の山は、明日。明日さえ無事にやり過ごせれば、何とかなるって趣旨なんだろう。
そして、あの影も似たようなことを言っていた。
これは、単なる偶然なの?
「……調べてみよう」
スマホを手に取るとブラウザを開き、私は画面を次々に動かしていった。
画面に映る空の色は、垂れ籠める雲のせいか灰色だった。
◆◆◆
臨月天光とはそもそも、悪夢を観させる存在とされる伝説上の鬼神の名前だ。
江戸時代後期の小説家、為永春水の随筆には、悪夢除けの呪いとして「臨月天光」と三度叫ぶことという記述がある。悪夢を見せた鬼神の名を唱えることで正体を暴き、吉夢に転換させる意味があったものと推定されている。名前の由来も何もかもが、謎に満ちた存在なのだという。
都市伝説「臨月天光」とは、そんな臨月天光の不思議要素を物語や仮説に置き換えて誕生したものだった。一ヶ月、つまり三十日を無事に過ごせば月が満ち、天の光が差し込む。その解釈は、都市伝説サイトの書き手によって様々だ。月とは幸せであり、天の光は幸せな日々が訪れること、と読み解く話もあれば、その真逆もある。即ち、月が満ちることは何者かによる侵蝕を意味し、天の光は却って身を滅ぼす……というもの。
背筋が冷えた。これは、昨日のあの影が言っていたことに近い。あの時は分からなかったけれど、影が私に伝えたかったのはこの後者の解釈だ。
臨月天光に関する色んなサイトを覗くたび、嫌な予感が無意識に頭を掠めた。振り払いたくて、夢中で私は画面をスライドしていく。
あれ?
いま覗いたページ、なんか他とは違うことが書いてあったような……。
気になったけれど、戻ることは叶わなかった。
その時突然、スマホに電話がかかってきたからだった。
桃子からだ。
『沙織!?』
切羽詰まったような声が、受話器から飛び出した。
「私だけど。どうかしたの?」
『沙織、今すぐその病院から出て!』
「えっ?」
『逃げるの!』
ちょっと待ってよ、桃子。何を言いたいのか分からない。私に、病院から脱け出せってこと?
『あたしたちもあとでそっちに行くから! 沙織はとりあえず病院を出なさい!』
「なんでよ!?突然何を言い出すの!?」
『わけはすぐに分かるから!』
桃子の声は真剣すぎて、聞いていてぞっとするほどだった。
『手遅れになる前に、逃げて! お願い────』
がちゃっ。
背後でドアが開く音がして、慌てて私は電話を切った。
カルテのバインダーを手に持った成木先生が、そっと入ってくる所だった。出て行った時とは打って変わって、元のように優しい笑みを浮かべてる。
桃子が何を伝えたかったのかは終ぞ分からなかったけど、まぁあとで電話かけ直せばいいよね。スマホを机に置くと、私は先生を振り返る。ガチャ、と施錠されるような音が四角い部屋に響き渡った。
「おや、電話はよかったのですか」
「あー、いいんです。また後で聞きますから」
そうですか、と笑うと成木先生は壁際に歩いて行った。そこにあるのは、今までずっと稼働していたアロマディフューザー。
先生は躊躇いの様子も見せず、スイッチをぱちんと切った。
「!?」
息が、苦しい……!?
薄く笑う先生の顔を前に、私は空気を求めて宙に足掻いた。なんで、なんで……!?
「そのまま、電話していれば良かったものを」
先生の口からそんな台詞が飛び出した。
「何の話をしていたのか、私は分かっていましたよ。だからこそ、それを遮るタイミングで病室のドアを開けたのです」
「どう……いう……」
「そろそろ、始まる頃合いでしょうかね。君もまだ恐らく経験したことのない、昼間の悪夢が」
そう宣告した先生の背後から、ぬっと巨大な怪物が姿を現した。
はっとした。あれは、私が最初の悪夢で見た奴だ。
「白昼……夢……!?」
もがきながら、私はベッドの端に逃げ込んだ。その背後から、二番目の悪夢で見た猿みたいな化け物が奇声を上げながら飛びかかってくる!
いやっ、いやぁ……!
どうして助けてくれないの!? そんな近くにいるのに! 私が苦しんでるの、分かってるでしょ……!?
涙目で必死に先生を見上げた私は、
ようやく、気づいた。
「黒幕が私だということに、もっと早くから気づくべきでしたね」
ま、気づかれないように善人面をしていたのは私ですが。そう言うと先生は、カルテを手ににんまりと笑った。口が、耳までぱっくりと裂けて見えた。
「君は恐らく今夜まで、これまでの全ての夢をまとめて見ることになるでしょう。三十日は、謂わば集大成の夜。君の狂った脳が創り出した化け物の世界に、存分に浸りなさい」
「どう……して……そんな、っ……」
「君は実験台だったのですよ。人を狂わせ、悪夢の妄想に取り憑かせる、美しき媚薬のね」
高笑いすると、先生はそばに来て私を見下ろした。
「まだまだ実験は終わりません。君が完全に狂人と化し、肉体もろとも薬漬けとなって死んでゆくまで、ね……」
なぜ、
こんな人を、
信頼してしまったんだろう。
その時心に浮かんだのは、
悲しみでも、憤怒でもない。
ただ深い深い後悔だけだった。
蠢く恐怖の向こう、
真っ白な化学防護服を身に付けた人たちが病室のドアを蹴り開けたのが、
私の目が捉えた最後の景色だった────