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臨月天光  作者: 蒼原悠
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累加の抗衡







「懐かしいなー……」


 私の部屋を見回すと、桃子はうーんと伸びをした。

「沙織、あんたやっぱり変わらないねー。本もモノもちゃんと整理整頓してあるし、勉強関連の参考書もこんなにあるし」

 昔から真面目だったもんね、なんて楽しげに話す桃子の後ろで、私は黙ってカーペットを睨んでいた。使う気も起こらない参考書に、不気味なくらい綺麗に並べられた戸棚の中身。今の私にとってそれは、変わってしまった自分を浮き彫りにするアイテムでしかなかった。

 よいしょ、と荷物を置くと、桃子は私の顔を覗き込んだ。

「聞きたいな。せっかくのお泊まり会なのに、沙織がそんなに元気なさそうにしてる理由を」


 うん。

 分かってる。

「下、行こう」

 そう言うと私は先に階段を下りて、一階の電気を点けた。調理の音が消えた台所の隅が、暗かった。


 全てを話した。

 二十日前、九月の初めの夜に悪夢を見て以来、毎晩ずっと悩まされていること。

 話したって本気にしてもらえるとは思えなくて、誰にも相談できなかったこと。

 改善の兆しも見えなくて、迷惑をかけてるって感覚だけが一人歩きしてること。

 前みたいな私はもう、返ってこない。楽しかったあの日々が、彼方に遠ざかってしまったことも。


 話しながら、何度も何度も涙が溢れてきた。

 桃子は時々そんな私の頬を拭いながら、ただ黙って最後まで聞いていてくれた。 そして最後に一言、言ってくれた。

「話してくれて、ありがとう」って。

 余計に涙が止まらなくなって、子どもみたいに泣きじゃくった。



「つーかさあ」

 テレビのリモコンを玩びながら、泣き止んだ私に桃子は一言。

「寝なきゃいいんじゃない?夜通し遊ぶとか何とかしてさ」

「それが出来たら苦労しないもん……。毎日毎日、眠くて仕方ないのに」

「無理矢理にでもやるんだよ」

 そう言うと桃子はボタンを押した。テレビがぱっと点いて、部屋の明るさが少し増す。

「遊ぼうよ、せっかくだし。いつまで起きてても許されるなんて、なかなかないチャンスなんだよ? 活かさない手はないだろ!」

「え、でも」

「いいからー」


 リモコンを握ったら、不思議と起きられるような気がしてきた。

 結局、ソフトを換えたりテレビを見たり漫画を読んだりと、なんだかんだで時間は過ぎていった。もう丑三つ時だ。時計の回りが普段よりも早く感じるのは、やっぱり桃子がいて安心するからなのかな。



「ねえ。沙織さっきさ、色んなタイプの悪夢を見るって言ってたじゃん」

 パソコンの画面を眺めながら、桃子がふいに言った。

「うん」

「“臨月天光”って、知ってる?」

 りんげつてんこう?

 知らない言葉だ。首を振ると、「見てみなよ」と桃子は画面を私の方に向ける。

「有名な都市伝説だよー。悪魔の一種で、取り憑かれた人は一ヶ月間、悪夢を見続けるの。んで、最後の一日までちゃんと生きていられたら、あとは悪夢を見なくなるって言うヤツ」

「こんなのがあるんだ……」

「なーんかね、沙織の話聞いてて引っ掛かるなーって思ってたんだぁ」

 悩みが吹っ切れたみたいにあははって笑う桃子の向こうに、カレンダーが見えた。九月三十日まで、あとほんの数日……。

 本当なの? その都市伝説、信じていいの?

 ふつふつと湧き出る疑心を、私は心の隅に押しやった。弱気になっちゃダメだ。なんとかなるって、信じようよ。

「……ちょっとは、前向きになれた?」

 桃子の声に私は笑いかけて、










 そこからしばらく、記憶がない。




 ふっと、私は顔を上げた。


 部屋の中は暗かった。

 電気は全て消えている。微かにザーッと流れる音は、砂嵐を映す灰色のテレビから流れ出していた。

 ゲーム機もパソコンも何もかも、放り出されたまま。闇の中に散らばる日常の欠片が、画面から不気味に光を放っていた。

 そして。桃子の姿が、どこにも見当たらないんだ。


「桃子……どこ……?」

 薄暗い中で、私は目を凝らした。身体を起こすのも、正直怖い。

 どうして。どうして、電気が消えてるの。とりあえず明るくしようと思ってスイッチに触れても、何の反応もない。ブレーカーが落ちたみたいに、何度押しても光りもしない。

 なら、どうしてテレビは……? パソコンは……?

 違う。そんなことより今は、桃子を探さなきゃ。二階に行く階段を見上げ、一歩を踏み出したその時だった。

「沙織、どこ行くの?」

 背中から、桃子の声がしたんだ。

 私は足を止めた。なんだぁ、後ろにいたのか……。

「もー、隠れてるなんて酷いよ桃……」


 桃子じゃなかった。


 桃子の顔を貼り付けた、異形のイキモノだった。

 その口がまた、開いた。

「ね、早く戻ってゲームやろうよ。ねっ?」

「離してぇっ!」

 掴まれそうになった腕を、私は必死で振り払った。こんなの桃子じゃない!桃子じゃないよ!

 後ろに立たれてる以上、上に逃げるしかない。黒々と闇に包まれた二階へ私は階段をかけ上がった。どうか、どうか二階には変なのがいませんように……!


「沙織」

 暗闇から声がした。

 はっとして立ち止まった私の目に、桃子のシルエットがぼんやりと見え始める。違う、桃子じゃない。桃子はこんなしゃがれた声をしてない……。

 固まった私を前に、私の名前を何度も呼びながらそいつは歩いてきた。

「ね、私の顔がどこにあるか知らない?」


 顔が見えたのは、一瞬だった。

 ぐらりと揺れ、後ろ向きに流れていく視界に捉えられた顔は、目が幾つも並んだ蜘蛛みたいな顔だった。

 そして次の瞬間、強烈な痛みとともに、

 何も見えなくなって────









◆◆◆






「────ぉり、沙織!?」


 あれ。

 また、桃子の声だ。

 私は小さく目を開いた。桃子の顔をした化け物がそこにいるような気がして、怖かった。

 けれどすぐに視界に入ったのは、横たわる私の身体にすがって必死に名前を叫んでる、本物の桃子だった。

 っていうか、あれ。

「ここ、どこ……?」

 その声で、私の意識が戻ったことに気づいたみたい。桃子は顔を上げると、私の首に抱きついてきた。見たこともない、泣き出しそうな表情で。

「ちょっ、桃子!?」

「良かった……死んじゃわなくて、ホントに良かった……!」


 え、

 死……?




 私が搬送された青梅市立病院は、市内で一番大きな救急病院だ。

 桃子と、私を診てくれた先生の話によれば、真夜中にうとうととし始めた私は突然、部屋の中を彷徨い始めたらしい。目の前にいた桃子は引き止めたけど、その瞬間、私は二階へ向かって駆け出してしまった。そして少しして、階段から後ろ向きに転落した……。


「打ち所が悪くて助かりましたよ」

 私と、慌てて出張先から帰ってきたお母さんを前に、成木と名乗った担当医の先生はホッとしたように言った。

「奇跡的に、脳へのダメージは少ないようです。気は失っていたが、症状としては脳震盪。死ぬような危険性はありませんでした」

「なんだぁ……」

 気が抜けたように、桃子が私の隣に座り込む。先生は微笑んだ。

「君の救命措置は的確だったようだね。救急車が来るまでの間の話は、車の人から聞いたよ。まあ大丈夫だろうとは思っていたが、君の行動は良かった」

「あ……ありがとうございます」

 そうだったんだ……。

 私は桃子の横顔を眺めた。本当に、申し訳ないよ。今日は普通に学校のある日なのに……。



 その時だ。

 ふいに思い出してしまった。

 あのとき見た、悍ましい桃子の化け物の姿を。

 全身が滑りに包まれた、不気味なあの姿を。

 ダメ。どうしても思い出しちゃう。横を向くのが怖くなって、私は自分の膝を見つめていた。今にそこからも、人の顔か何かが浮かび上がって来るんじゃないかって気がした。


 一度思い出したら、止まらない。部屋中のモノの全てが、恐怖の対象に見えてくる。

 そんな私に、桃子は気が抜けた勢いからか手を触れてきた。

「いやー、しかしほんと脅かさないでよねー! 無事なら無事って言ってよ!」

「……触らないで」

「……えっ、」

「……触らないでよっ!」

 やめて。身体が、服が、あなたの体液で濡れてしまう。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!

「…………!」

 憎しみを込めた目で、私は桃子を睨みつけた。怯えているのはむしろ、桃子だった。

「沙織、ちょっとあんたどうしたの?」

 やめて、お母さん。私に話しかけないで。いま振り返れば、あなたの顔も溶けているんでしょう。もう、見たくないの。何も、何も……!


 もう、自分で自分のような気がしなかった。

 成木先生は立ち上がると、念のためまだ入院してもらうと言い残して去っていった。





◆◆◆





 結局のところ、桃子の作戦は全く当たりはしなかった。

 私はどう頑張っても、眠ってしまう。悪夢のせいで寝不足になり、そして次の悪夢を必ず見てしまう。そんな悪循環に、私は疾っくに嵌まってしまっていたんだ。


 病院で過ごす夜は、暗かった。

 病室の中には余計なモノは何一つなくて、かえって私は安心した。ちょっとした物陰や扉の向こうが、今はひたすら怖かった。

 学校では、みんな元気にしてるかな。私がいなくなって、むしろ喜んでるんだろうな。窓の外の夜景に目を凝らすと、仄暗い市街地の彼方に校舎っぼいシルエットが浮かび上がっていた。


 私は、変わってしまった。

 何も、かも。



 窓に微かに映る自分に、ふっと自嘲した時。

 肩の向こうに、何かがのっそりと立っているのが見えた。

 首がなかった。肩から続く太い付け根から先がまるで捻り取られたように欠損して、そこから血がだくだくと流れ出している。

 見覚えのある服装に、私は全身の血が逆流したかと思った。血塗れになったその服は、私のものだ。よく見れば体型も私、立ってる時の姿勢も私……。


「ソノ顔、寄越セ」


 首のない私は、言った。

 一歩、また一歩と私に近づいてくる。いや、いや。こっちに来ないで。精一杯の抵抗は、掠れてちっとも声にならない。

 ダメだ。動け、私。逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ……!

 私は布団を跳ね退けると、ベッドの縁に立った。首のない私と向き合ったのは、ほんの一瞬。全速力で側を駆け抜けると、私はドアまで走った。ここから、ここから外に出られれば、私は助かるんだ!


 ガチャッ、ガチャッ。

 何度もドアを引いた。

 開かない。

 鍵が掛かっている。

「そんな……!」

 思いっきり力を込めても、ドアは頑として開かない。

 やだ、やだよ。私を逃がしてよ……。

 溢れ出す涙を拭う暇もなく、取っ手にまた力を入れた時だった。


「見ーツケタ」


 がしっ。

 首を、掴まれた。

「……ぁ……っ……!」

 苦しい。喉が痛い。ドアにかけてた手で引き剥がそうとしても、力が強すぎて抵抗にもならなかった。

 もう、ダメだ。力が入らない。冷たい空気に混じる血の臭いを鼻に感じながら、そんな思いが身体を、頭を、通り抜けた。


 私、死んじゃうんだ……。

 喘ぎながら、泣きながら、私は嗤った。

 そうだね。私もう、この世には要らないよね。みんなに迷惑ばっかりかけて、生きてきたんだもんね。狂った私なんてもう、社会は受け容れてくれないよね。

 じゃあ、死んじゃっても、構わないよね……。








「何をしているんだ!」



 首のない私から急に力が抜けたのは、鋭い声が背後から背中に突き刺さった時だった。

 気を失いそうになりながら、私は冷えた床に倒れ込んだ。息が、出来ない。出来ない。出来る。

「しっかりしなさい! 一体、何があった!」

 必死に空気を吸い込む私の身体を支えながら叫んでいるのは、成木先生だった。

「なぜ、自分で自分の首を絞めたりした!? 君、正気ですか!?」


 えっ。

 私、絞めたりなんかしてないよ。

 絞められてただけで……。


「げほげほっ、ごほっ……!」

 何度も咳をするたび、背中がぎしぎしと痛んだ。なんとか、呼吸は回復してきたみたいだ……。

「先生、お呼びになりましたか!?」

 開かれたドアから、看護師さんが駆け込んでくる。成木先生は私をそっと横たえると、指示を飛ばした。「この子──吹上沙織さんを、介抱してあげなさい。落ち着いて来たら、私の部屋へ連れてきてほしい。頼むよ?」

「了解しました」

 一言発すると、看護師さんは私の側へと歩いてくる。代わりに立ち上がった成木先生は最後に一言、告げた。


「君の言動の謎が、ようやく解けました。少し、話を聞かせてくれませんか」






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