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臨月天光  作者: 蒼原悠
2/6

覚醒の累加







 あれから、何日かが経った。


 毎晩の悪夢は収まるどころか、むしろどんどん悪化していった。

 それまでは訳の分からないイキモノだったのが、お母さんが溶解したあの日からは身の回りのモノさえもが怪物になってやって来るようになったんだ。

 壁から突き出す腕、ばたんばたんと独りでに開閉するドア。お前には、逃げ場はないんだ。まるでそう言いたいかのように。

 そして決まって、黒い影のようなモノが私を包み込んでいた……。





「沙織ー」

 その声に、私は学校机から重たい顔を上げた。

 プリントを手にした桃子が、申し訳なさそうに笑っている。またか。先の展開、見え見えです。

「あのさぁ、この前の宿題の答え、教えてくれない? あたしあれやるの、すっかり忘れててー」

 私は黙って自分のプリントを引っ張り出すと、桃子に押し付けた。眠い、とにかく眠い。声を出すのももう、億劫だった。

 押し付けられたプリントを桃子は少し呆気に取られたように眺めていた。

 ……その口が、ゆっくり開いた。

「沙織、最近ほんとにどうしたの?」

 別に、何も。ただ悪夢を見てるだけ。相談するほどの事もないよ。

 そんな思いを目に込めて見上げた私を、桃子はじっと見返す。

「前はこんなに疲れてること、なかったじゃんか。一言も言わずにプリントだけくれるなんてこと、これまでさすがに一度もなかったよ。何かあったならあたしたちに言って。出来ることがあるなら、手伝うし」

「……大丈夫、だよ」

「本当……?」

「本当」

 言い切ると、私はまた机に突っ伏した。もう、駄目。眠気の限界……。


 はぁ、と桃子のついたため息の音は、昼間の校舎の喧騒の中へと紛れて消えた。




◆◆◆







 ジリリリリリリリリリリ。


 目覚ましの音に、私ははっと目を醒ました。

 カーテンの外が明るい。時計を見ると、午前六時だ。あれ、おかしいな。怖い夢を見ていないのに、もう朝だなんて。何度確かめても時間は変わらなくて、そのたびに少しずつ不安が消えていく。

 もしかして……、あの夢をもう、見なくて済むの!?

 私は小さくガッツポーズした。

 よかった、本当によかった。もう、大丈夫なんだ。授業中に寝ちゃうことも、みんなの前でぐったりすることもないんだ!

 なんとも言えない解放感が身体中を包み込んだ。伸びをした腕の先から、温かさが染みてくるような気もするよ。

 ああ、幸せ……!






 違う。


 この温かさは、違う。

 外から、じりじりと温められてるような感じがするんだ。身体の温もりって、もっとじわじわと来るものだったはず。

 温まってきたのは手先だけじゃなかった。身体中が、あつい。熱い。暑い。いや、この部屋の全てが、あつい……!



 カーテンを開け放った私は、その理由をようやく悟った。

 家の周りが、彼方の町が、真っ赤な炎に包まれていたんだ。明るいと思ったのは、火の明るさだったんだ。

 足元に見えた隣の民家も、向こうに霞む奥多摩の稜線も。何もかもが、ごうごうと猛る火の中に崩れ落ちていた。

 めらめら、ぱちぱちと爆ぜる音が、沸き上がってきた恐怖を募らせる。逃げたいのに、逃げられない。部屋のドアが焼け崩れて倒れ、そこから紅蓮の火炎が部屋の天井へと這って伝おうとしているのが、背中の感触だけで分かっていたから。

 周囲のあらゆるものに火の手が回って、私は完全に逃げ場をなくした。肌を掻きむしりたくなるほどの熱気に包まれて、激痛になった指先に火がついた。

「熱っ……ぅ……ああ…………!」

 身体が、私の身体がどんどん焼かれて……、

 あつい、あつい、あつい、

「あぁあっ、」


 あついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあt──────











『ジリリリリリリリリリリ』




「…………っ」


 枕から顔を上げた私は、時計を見た。

 午前八時。そうか、今日は土曜日なんだ。六時になんて起きる必要はない日なんだった。

 外が、明るい。カーテンを開けた私の目の前には、何事もないいつもの市街の風景が広がっていた。炎なんて勿論のこと、夏休みの間中ずっと隣の家の庭から上がっていた、灰色にくすんだ野焼きの煙一本さえも、上がっていなかった。


 見たくなかった。

 この町が、青梅が、燃える景色なんて。

 何もかもが、焼けて、消えてしまうのなんて。



「う……っ……」


 拭っても拭っても、涙が溢れてきた。

 どうして私だけ、こんな目に遭わなければいけないの?

 どうして……?




 九月十三日。

 その日、熱を出した私は塾も部活も休んで、一日中自分の部屋で閉じ籠っていた。

 何もかもを放り出したい。初めて、そんな衝動に駆られた。

 真っ黒な影はその日一日中、視界の隅から消えなかった。





◆◆◆






 悪夢の日々が始まって、もう半月以上。

 日に日に私の体力は落ち、やる気も意欲も削がれていくばかりだった。

 もう私、駄目かもしれない。改めてそう思ったのは、その日の体育の授業の時だった。バレーボールのチーム対抗戦をしていた、その最中。

 私の戦う相手は敵チームじゃなくて睡魔だった。何度も何度も球を落として、見当違いの方向に飛ばして。それまでは何も言わなかったチームの男子が、ついに口を開いた。キャプテンの、師岡(もろおか)くんだ。

「お前さぁ、マジで試合する気ないだろ。いい加減にしてくんない?」

「ごめん……」

 拾ってきた球をコートに転がすと、私は謝った。その間にも、目眩がしそうなくらい眠気が強くなる。

「ごめんの言葉が聞きたい訳じゃねえんだよな」

 師岡くんは吐き捨てると、私に向かって歩み寄った。「やる気あるのかないのかって聞いてんの。分かるか?」

「ちょっと、その辺にしときなよ……」

 桃子が割り込んできたけど、師岡くんは気にも留めない。ただ真っ直ぐに、私を睨んでいる。

「吹上が最近ぐったりしてるのは俺たちだって知ってんだよ。けどさ、いつまでそうやってるつもり? つらいなら休むなりなんなりして、チームに迷惑かけないようにするのが筋じゃねーの?」


 迷惑。

 その言葉だけが、師岡くんの台詞から浮き出して私に迫ってくるようだった。

 周りを見渡せば、他のみんなは下を向いて黙ってる。実はみんな、師岡くんのように口に出さないだけでそう思ってるのかもしれない。私を捉えないその視線が、静かなその声が、怖かった。

 ふらっ、と揺れた私の肩を支えてくれたのは、住江先生だった。


「吹上、無理をするな。保健室に行ってなさい」

 その言葉が微かな諦めのため息を含んでいることに、私は気づいていた。


 もう、駄目だ。

 みんなにも先生にも迷惑かけて、でも解決の道も見えないなんて。

 打ちひしがれて帰ってきたその夜も、夢を見た。部屋の窓枠をすり抜けて、呪詛の文句や罵詈雑言がみんなの字で所狭しと書きなぐられた紙が、何百枚も飛んできて私を襲う夢だった。


 毎日見る悪夢のために、寝起きが悪くなって就寝は遅くなった。

 怖い夢を見るたび、起きてキッチンに立つお母さんに泣きつくようになった。でも顔を見るのは怖くって、ただ顔を押し付けるだけだった。事情を知らないお母さんは、いつも不思議そうな目で私を見た。

 テストの赤点率と引き換えに、宿題の提出率は下がる一方だった。

 私の日常は今や、崩壊の一途を辿るばかりだ。






◆◆◆





「沙織」


 呼ばれて振り返ると、お母さんがペンを片手にカレンダーの前に佇んでいた。

「なに……?」

 ぼやける頭が重たい。カレンダーの傍まで歩くと、お母さんはペンでカレンダーをつつく。

「急でごめんね。お母さん、明日から明後日までちょっと出張しなきゃならなくなっちゃったのよ」

「え……?」

「一晩だけだし、ダメそうならご飯も作り置きしておいてあげるから。あとは沙織が何とかして。中学生だし、大丈夫でしょ?」


 そんな。

 聞いてないよ。

 お母さんがいなくなったら私、誰に泣きつけばいいの。そうでなくてもお父さんは長期出張中なのに……。

 そんな私の心中を察してか、お母さんは私の頭を撫でながら優しく言った。

「友達とか呼んで泊まってもらっても、構わないからね」



 それしかない。

 一人で眠るなんて、できないよ。そうは思ったけれど、今の私にそんなことを頼める相手はもう……。




「桃子」


 久しぶりに、その名前を口にした気がする。

 席について雑誌をめくっていた桃子は、私の方を見てちょっとびっくりしたような顔をした。話しかけるのが、久々だったからかな。それとも、私の顔が窶れてるせいか。

「明日の夜、空いてる……?」

 恐る恐る尋ねると、桃子はうんと頷いた。「空いてるけど……なんで?」

「うちに来てほしいの」

「来てほしいって……。お泊まりって事だよね、それ」

 今度は私が頷く番だった。

 桃子が、最後の希望だ。幼稚園からずっと仲の良かった桃子は、何度かうちに来て泊まったこともある。桃子以上に仲のいい友達なんていないし、今の私にはきっと……関わりたくないだろうから。

 しばらく逡巡する素振りを見せた桃子だったけど、最後には「分かった」って言ってくれた。あんまり気が抜けて、思わず後ろに倒れそうになる。


「ただし」

 桃子は私を真っ直ぐ見つめた。

「沙織、なんかあたしたちに隠してるでしょ。元気が出ない理由、実のところ沙織は分かってるんじゃないの?」


 教えなさいよ。


 そんなこと言われなくても、私はもう話す気でいた。

 助けてほしかった。






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