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臨月天光  作者: 蒼原悠
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悪夢の覚醒



「──(おに)()(よび)て、(わざはい)(さいわい)になす(こと)は、夫々(それぞれ)の鬼の名を(おぼへ)(よぶ)べし。

()大人君子(たいじんくんし)一笑(いつしやう)となるべき事と()れども、世俗(せぞく)()にかけて、(なや)む事なれば、(その)(たたり)(はら)(じゆつ)(しる)して、(わづか)婦女子(ふぢよし)(こころ)安堵(あんど)ならしめんとせり。


(ちなみ)(いふ)()しき(ゆめ)()たる時は臨月天光(りんげつてんくわう)三度(さんど)(よぶ)(とき)は、(たちま)(あしき)(ゆめ)吉祥(きちぢやう)となすといへり。」



──為永春水『閑窓(かんそう)琑談(さだん)巻之四 第五十・怪事(けじ)(せつ)』より──





挿絵(By みてみん)






 ガシャーン!



 ……その音の大きさは、眠りこけていた私の目を醒ますには充分だった。

「な……に……?」

 寝惚け眼をこすりながらベッドから半身を起こした私は、ぎょっとした。すぐ目の前にあるはずのガラスが、布団の上に粉々に砕け散っていたんだ。


 えっ、なに……!?


 不穏な予感が頭を支配する前に、割れた窓からヌッと何かが入り込んでくる。

 人の手みたいな形をした、茶色の何かだった。それが、ぐにゃぐにゃって不自然な動きを見せながら、私に近寄ってきた。

「い、いやああああっ!!」

 慌てて撥ね除ける。するりと躱したそれはなおも、頭を狙って伸びてくる。

 私はベッドから飛び降りると、ドアに寄りかかった。深夜のドアはすっごく冷たくって、ぞわっと背中に押し当てられた悪寒が余計に恐怖を募らせた。

 ぐねぐねと動くそれは、布団の中を探っているみたい。嫌だ、あれはいったい何なの? 私を、どうする気だったの……?


 その時だった。

 突然、窓から別の何かが飛び込んで来たんだ。

 違う、身体だ。腕の先が布団の中を暴れている。

 まるで最初から、窓の下に張り付いて待機してたみたい。人っぽい形はしていても、気持ち悪い動き方はもう完全に、人間なんかじゃなかった。

 それはギラリと光る目で私を一瞥したかと思うとどこからか足を踏み出して、一歩、私に近づいた。

 べしゃっ。フローリングに跳ねた泥が頬について、それだけでもう気を失いそうだった。


「来ない……でぇ……」

 ドアにぴったりと背中を合わせたまま、私はずりずりと崩れ落ちた。力が、入らない……。

 逃げなくちゃ。あのイキモノから、逃げなくちゃ。ドアノブにかけた手が、ぴしっと音を立てた。その間にもそれは床に足跡をつけながら、迫ってくる。


 なんで。

 どうして。

 私が、こんな目に……!


「はあ……はあ……」

 息が荒くなる。

 それの顔がどんどん迫ってきて、私はもっとドアに押し付けられて、


 いや。

 いや。

 いや、










『ジリリリリリリリリリリ!!』


「──はっ!?」

 目が覚めた。

 朝だ。外が明るい。ベッドから起き上がった私は、伸びをした。

 よかった、あれはやっぱり夢だったんだ。ほっとするあまり力が抜けて、後ろに倒れてしまいそうになる。


 それにしても、暑い。毎日窓を開けてるからいつもはもっと涼しいのに、全身にびっしょりとかいた汗が気持ち悪い。

 早く着替えたいな。鬱陶しい服に顔をしかめながら、何気なく目覚まし時計を止めた時。



 気がついた。


 片側が開け放たれた窓ガラスに、小さなひびが入っていることに。

 小石か、あるいは鳥の嘴か。尖った何かが、勢いよくぶつかったみたいだった。

 昨日まで、こんなものはなかったはずだ。



 ふっと脳を過ったのは、さっき見たあの夢だった。



「嘘……でしょ……?」



 嘘だよね。

 誰か、私に確信を与えてよ。



 枕元に置かれた目覚まし時計には、【九月一日】と書かれていた。


 これが、私──吹上(ふきあげ)沙織(さおり)にこの先何日も何日も降りかかる、文字通りの悪夢の始まりだったなんて、

 まさか想像できなかったけど。




◆◆◆




 【市立河辺(かべ)中学校】の表札を横目にしながら私が校門へ駆け込んだのは、本鈴が鳴る一分前のことだった。

 東京の西のはずれにあるこの街、青梅(おうめ)市の市立中学校はみんな、九月一日で授業が始まる。ふらふらする視界が綺麗な青空を捉えても、眠気は一向に払えない。

 やばい、始業式が始まっちゃうよ。大慌てで教室に荷物を放り出して、体育館に駆け込む。と、入り口に立ってた強面の先生に呼び止められた。怒らせると怖いと評判の、体育の住江(すみえ)先生だ。

 ああ、やっぱり……。最悪……。

「遅刻だぞ、吹上。始業式は五分前集合だと言っただろう」

 がっしりした体格に上から睨まれて、私はすっかり畏縮してしまう。「す、すみません……」

「二学期早々、やる気がないな。そんなんでいいと思ってるのか?」

 ──その言葉には、少しムッとした。私のせいじゃないもん。朝、ちゃんと起きられなかったのは、あの変な夢のせいだもん。それ言っても、仕方ないけどさ。

 はぁ、とため息をついたとたんだった。



 ふっと全身に麻酔されたみたいな感覚が、私を襲った。

 え、なに、これ……。

 どさり、と音がした時には、私は床に膝をついていた。視界がぐるぐる回る。先生の姿も、何もかもが見えない。目の奥が、痛い……。

 立ち眩みだ。ぐちゃぐちゃになった頭の中で、そう思った時だった。



 ふと、何かが見えた気がしたんだよね。

 私の肩に、背中に、足に、まとわりつく何かが。

 形を持たない、真っ黒なシルエットをした何かが……。



「お、おい大丈夫か? 吹上?」

 慌てたような住江先生の声が聞こえたかと思うと、肩ががくがくと揺さぶられる。

 その拍子に、視界がふっと元に戻った。本当に、一瞬の出来事だった。

 私は手を振って無事を伝える。「だい……丈夫、です」

「そうか……?」

 心配そうに私の顔を覗き込む住江先生の声が、ふいに訝しげになる。

「思えば、吹上が遅刻だなんて珍しいな。一学期の間は遅刻も欠課も全くしていなかっただろう。昨日の夜、寝付けなかったのか?」

「はい……。なんか、寝覚めがすごく悪くって」

「ふん……。ま、いい。大丈夫なようなら式に参加しなさい。体調が悪くなったら、近くの先生に言えよ」

 小さく頷くと私は立ち上がった。身体も今はなんとかなってるし、早く式に合流しなきゃ。



 この時は、これでお仕舞いだと思ってたんだ。

 だけど現実にはその日一日、「ふっ」と力が抜ける瞬間は頻繁に私を襲った。寝不足なんてほとんど経験したことがなかったから、この感覚にも慣れていなかったのかもしれないなって思う。或いは夏バテか、貧血だったのかもしれない。でも、あの黒い影を見ることは、なかった。

 それもこれも、あの夢のせいだ。もう、あんなことにはなりませんように。そう願ってその夜も、私はベッドに潜り込んだ。

 あー、眠いよ……。




◆◆◆




「からん」



 闇の中に、軽い音が響き渡った。

 きしぃ、きしぃと何かが軋む音も混じる。耳障りなその音に、私はぼんやりと目を開けた。やだな。目、醒めちゃった……。

 目さえ閉じれば、また眠れるよね。ふうっと息を吐くと、瞼を閉じる。


 その時だった。

 私の布団の上に、何かがドサッと飛び降りてきたんだ。

「!?」

 目を閉じてなんていられなかった。暗闇に早くも慣れ始めた網膜が捉えたのは、布団にのし掛かり、気持ち悪いくらいに長い舌をべろべろと動かしながらこっちを眺めている、猿みたいな不気味なイキモノだった。

「きゃあっ!!」

 叫びざま、思いっきり足で布団を蹴る。宙を舞ってベッドから落ちた布団を飛び越すと、イキモノは私の上に乗ってくる。いやっ、怖い……。怖いよ……!

 震え上がった私の身体の上にしがみつきながら、そいつは私を眺めた。ぎゅうっと脇腹を掴まれて、痛みが走る。

 あっち行ってっ!

 叫んでももがいても、それは私から決して離れない。むしろ、一歩ずつ少しずつ、顔に向かって近寄ってくる。

 長い鉤爪に握り締められた腰が、どろっと滑るのが感じられた。でも痛みより何より、今は恐怖が抑えきれなかった。揺れる視界の向こうに、私の身体にまとわる真っ黒な影みたいなのがちらついた。


 ああ、

 顔が、

 私の、

 目の前に──────









『ジリリリリリリリリリリ!』


 朝だ。


 目を開けた私はまず、自分の寝相の悪さに驚いた。布団は下に落ち、パジャマはまるで誰かと格闘してたみたいに乱れまくっていた。めくれて露になったおへそが冷たくて、もぞもぞと布団を取りに行く。

 そしてその時、気がついたんだ。

 天井から吊り下げられた、子猿くらいのイキモノなら充分乗っかれるくらいの大きさの電灯が、微かに揺れていることに。

 「きしぃ、きしぃ」と、音を立てながら。




 時計の日付は、九月二日を指していた。





◆◆◆





「おはよー……」


 ぼやける目を擦り擦り教室に入ると、私は自分の席を探した。

 昨日のホームルームで席替えをして、ぼうっとしているうちに決められてしまった私の席。そっか、そういえば窓際だったっけ。

 席についてカバンを降ろすと、眩しい窓の外の光に私は目を細めた。太陽の光で目が覚めるとか、ぜったいウソだよ。私、まだまだ眠いもん……。


「おはよ、沙織!」

 背中から元気な声がかかった。

 その声色だけで、誰かは分かる。親友の大柳(おおやなぎ)桃子(ももこ)だ。

「なんだ桃子か……」

 掠れた声で返事すると、「なんだって何よー」と口を尖らせながら桃子は私の前に回り込んでくる。後ろ手に隠し持っているのは差し詰め、宿題か。

「お願い! 数学の宿題、見せてっ!」

「……期待通りの質問しないでよ」

「しょうがないじゃん、ゲームしてたら深夜になっちゃったんだもん」

 何だか押し問答の気配が感じられたので、私は早々と白旗を揚げることにした。宿題をカバンから引っ張り出して、投げつける。

「あたっ!」

「さっさと返してね」

 はーい、と威勢のいい声を返しながら、桃子は後ろの席へと戻っていく。机を見つめながら、私はまた深い息をついた。


 宿題やってる間も、授業受けてる間も。

 結局何にも気が入らない。気怠くて、空しくて、仕方ない。



 やっぱり、あの夢のせいなのかな。





◆◆◆




「あんた、最近どうしたの?」


 九月四日の朝、ぼんやりと食パンを齧る私にお母さんがそう呼び掛けた。

「毎朝毎朝、ものすごく眠そうに起きてくるけど。下りてきてもなんだかぼんやりしてるし……」

 やっぱり、そうなのかな。

 うんと返事する代わりに、私は大きなため息を吐いた。向かいのテレビのテロップが、歪んで見える。

「顔、洗ってきたのよね?」

「朝一番に洗ったよ……」

 変ねえ、とお母さんは頻りに首を傾げている。そう言いたいのはむしろ、私なのに。


 あの九月一日以来、もう四日間連続で私は悪夢に悩まされている。

 おとといの夜はドアの隙間から、昨日の夜はクローゼットの中から、それは現れた。逃げたいとどれだけ願っても、身体が思うように動かなくって。そしていつも、目の前まで迫ってきたところで目が覚めるんだ。

 もう、嫌だよ。学校でも家でもふらふらだよ。何していても身が入らないし、ふとした瞬間に寝ちゃうし。こんなこと、今まで一度も無かったのに……。



 そして今、もしかして、って思った。

 独りで寝ていたから、あんな悪夢を見るんだとしたら?寂しさがあんなイキモノを私にイメージさせているんだとしたら……?




「ねえ、お母さん」

 その夜、寝仕度を終えた私はお母さんの部屋のドアを叩いた。お父さんは仕事から帰ってくるなり、疲れたって一言残して寝入っちゃっている。

「何?」

 ドアを開けてくれたお母さんに、抱きつく。思いっきり。

「今夜、一緒に寝ていい?」

「どうしたの、突然……。怖くなったの?」

「うん……」

 頷くと、仕方ないわねって呟いてお母さんは一緒にベッドに入れてくれた。懐かしい温かさが、私を迎えてくれる。

 前はよくこうやってお母さんの温もりの中で眠りに就いていたっけ。ああ、今夜は久しぶりに静かに寝られるかなぁ。わくわくとどきどきが入り雑じった変な顔でお母さんにしがみついていたら、

 段々、

 頭の奥が白くなっていって…………、








◆◆◆







 変な臭いがする。


 顔を顰めながら、私は薄く目を開いた。ざわざわと、空気が擦れるような音も微かに聞こえる。

 何の臭いだろう。放置してあった洗濯物みたいな、でも何だか動物っぽい何かのような。そんな臭いを発するようなモノ、この部屋の中にあったかな……。

「ねぇ、お母さん……」

 目の前にいるはずのお母さんに、私は問いかけた。


 ぐじゃっ。


「あ」


 声が漏れたのと、ぐちゃぐちゃに溶けたお母さんの顔から肉が落ちたのは、同時だった。

 お母さんの身体には皮膚がなくて。

 剥き出しになった肉はものすごい臭いを発しながら、腐っていた。


「い、やっ……」

 どうして。どうして、お母さんが……。

 逃れようとしても、私の腰に回された腕がそれを許さない。ぎりぎりと骨だけの腕にしめられて、痛みと恐怖で私はもう泣きそうだった。

 と。動かないとばっかり思ってたお母さんの口が、がばっと開いた。

「……!!」

 腐臭とともに体液が飛び散り、顔が迫ってくる。

 ぱっくりと裂けたように開いた口が、

 私の顔を……食べ………………、











『ピピッ、ピピッ、ピピッ』



 はっ、と目が覚めた時、そこはもう朝だった。

 時刻は午前六時。電波時計を止めた手が、じっとりと汗で濡れている。やだ、気持ち悪い……。

 ふと見れば、目の前に眠っていたはずのお母さんは、もういない。きっと私よりずっと早く起きて、お弁当を作ってくれてるんだろう。


「ダメだった……」


 独りになった部屋の中で、私はぽつり、呟いた。

 ダメだった。私独りで寝ていたのが原因なんかじゃ、なかったんだ。どうしても、あの怖い夢を見てしまうんだ。外の明るい光を灯すカーテンが、絶望で真っ黒に染まっていくような気がした。あの黒い影が、ちらりと視界を横切った。

 それも、ただの悪夢じゃない……。お母さんが、毎日元気に笑ってたあの顔が、あんなにぐちゃぐちゃに………。


「やっと起きたの?」

 後ろから声がかけられた時、私には我慢なんて出来なかった。

 エプロンを着たお母さんに、私は思いっきり飛び付いた。その拍子に、涙が溢れた。

「うっ……ひくっ……」

「ちょっと、沙織? 昨日からいったい、どうしたのよ?」



 分からないよね、お母さんには。

 私の夢の中で、お母さんがどんな目に遭っていたのかなんて……。



 時計の脇に置かれた日めくりカレンダーは、九月五日の日付を示していた。

 そして、私の腰にしっかりとついた手形のようなアザは、そのあと何度確認しても消えなかった。








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