ゆめのかよひじ
「前にさ、『夢十夜』読めって言ってたっけ?」
僕が聞くと、彼女はあからさまに不審気な顔をした。「は?」
「言ってない?」
「私、正直漱石の良さがわからんのよ。自分がわからんもんを人に勧めない」
面倒くさそうに肩をぼきぼきと鳴らしながら、伸びをしがてらの返事。
「そうかあ」
と、僕は気の抜けた言葉を吐く。
「そうよぉ。誰か他の人に薦められたんじゃない?」
「いや、多分夢」
と言ったら彼女は眉をむん、と寄せて不気味なものを見るような顔。
「何?」
「夢。で、君が僕に夢十夜を読めと」
「なんで。わけわからん」
「いや、夢はいつもわけ分からんよ」
「じゃなくて」
「うん、なんか、最近時々あるんだよね。何かふっと思い出して、あれ? 夢だったっけ? それとも現実に起こったことだっけ? っていう状況」
「うわー」
「やばいかな?」
「やばいよね」
「そうっすか……」
「夢日記とか、つけてるわけじゃないんでしょ?」
「ん?」
「夢日記」
「なんで」
「つけるとそのうち、夢と現実の区別がつかなくなって、気が狂っちゃうって」
「なんなのそれ」
「……都市伝説?」
「恐いね。気をつける」
「どうやって。夢日記つけてないのに区別つかなくなってるんでしょ?」
「むしろ、あれは夢だったってメモるために日記つけたほうがいい気がするー。そしたらあれは夢だったのかなあ? って迷う事なくなる」
「え、そういえば。そうだね。つければ?」
というような不毛な会話は仕事中だったので、上司のひと睨みで打ち切られる。お盆時でお客さんもみんなお休みだから、僕らの職場はみんな暇だ。だけどやっぱり、私語が多すぎるのは大目玉らしい。でもじゃあ、手元に仕事がない今の状況で一体何をしよう。
フロアは最近よく聞くいまいち正体不明の謎の組織「チームマイナス6%」の必死の宣伝もむなしく、ひんやりと寒すぎるほどに冷房が効いている。窓から外を見ると、道を歩くおじさんがいかにも暑そうに、シャツの背中をびっしょり濡らして、片手にスーツの上着をひっかけて、ハンカチで顔を拭きながら足早に歩いているのが見えた。せっかくならもっと麗しいものを見たいと思っていたら白い日傘の女性。眩しい白い傘の下から口元だけがのぞいて、すごく興味をそそる。下から覗き込みたくなる。傘をもう少し、上に上げないかな。思っていたら丁度女性が身動きをした拍子に、傘が上がって……ふ、と気づくとデスクの上で目を閉じていた自分。いつから居眠りだろう? どこから? 彼女との会話の時から? 汗っかきのおじさんは夢の中の人? 日傘の女性は多分、完全に夢の……と思っていたら道を先ほど夢で見た日傘の女性が歩いているのが見えた。ああそうか、僕の夢が予知夢、という可能性を除けば、僕が居眠りしたのはほんの一瞬。女性が視界に入ってから前の道を通り過ぎる間も眠っていない。
僕はうーんと手を天井に向けて高く伸ばして、ついでにぽきぽきと肩を鳴らす。これで少しは目が醒めたろうか?
実は彼女が夢日記云々言った時どきりとした。僕はそれをつけている。数ヶ月前から。つけている、といっても夢なんてあまりきちんと覚えているものでもないし、印象に残った夢を見たときにメモ書き程度書くだけだけど。
でも、最近よくある「夢と現実と区別がつかない」状況は、夢日記につけた夢が現実か分からなくなるんじゃなくて、朝には夢見た事も忘れてしまったような些細な事が、現実に起きたのか夢で見たのかわからなくなるのだ。
この前も、僕は自分の部屋で、確かに買ったはずだと、夏らしい青地の和柄のブックカバーを探しに探して、どうしても見つからず、ついにそれが夢だったのかもしれないとふと思って、まさかとは思いながら買っている時一緒にいたはずの友人に問い合わせたところ、そんな記憶はないと言われ、それが夢だったと判明した。あんなにはっきりと柄まで覚えているのに、夢だった! それを知ったときは、ぞっとするよりも先に不思議な気分になった。じゃあとても気に入ったあの柄は、どこから来たのだろうか? 僕が考え出した? まさか。僕は自分のセンスのなさを知っている。あんな絶妙な色彩と図柄、自分の力じゃ考え出せるはずもない。じゃあ、どこかのお店で無意識に見かけたのを記憶していたのだろうか? だとしたらどうして僕はその時に気に入って買わなかったのだろう?
ブックカバーだけじゃなくて、あるときは姉に「髪を切れば?」と言われた夢を見て、僕は次の日髪を切ったのだけど、姉はそんな事は一言も言っていないと言っていた。
とにかくそういう、日常生活の些細な、どうでもいい種類の事象に、夢が侵食してきている気がする。
ようやく退屈な仕事の時間が終わり、僕は冷房の効いた会社を後にする。自動ドアを出た瞬間、体を四方八方から包み込むような湿気と暑さを感じる。空気だけど、肌触りを明らかに感じる。湿気って重いのかな。肌の表面を薄い膜で包み込まれたような感触。
少し歩いたところで、彼女に追いつかれた。「歩くの遅いなぁ」と彼女は笑う。
「そうですよねえ。僕の方が足が長いのに。あんまり急いで歩いても、狭い日本、そんなに急いでどこへ、という感じですね」
「嫌味な。あたしは普通の速さ。君が遅いんでしょうが」
「暑くてあんまり頑張って歩く気になれなくて」
「もっと人生頑張りなよ」
「はあい」
薄暮れの舗道をゆっくり歩いていると、突然目の前に賑やかな様子が現れた。道の両脇の上部には、明るい提灯が連なっていて、その下では屋台が立ち並び、浴衣の女の子や、会社帰りの会社員やOLや、近所に住んでいるらしい子供たち、地元のおじ様おば様方、がひしめき合っている。
「そういえばお祭りあるってポスター貼ってあった」
彼女は弾んだ声で言う。
「寄ってく?」
「付き合ってもいいですよ」
「何その上から」
「どうせ、奢らされるんでしょ?」
「まあ、奢ってくれるというのならば遠慮はしないよ」
彼女はわき目も振らず、人ごみの中を器用に縫って歩いて、リンゴ飴の屋台まで。
(また、リンゴ飴)
僕はちょっと笑いたくなる。
「よっぽど好きなんですね」
リンゴ飴の前で歩く財布、すなわち僕の到着を待っている彼女に追いついて、リンゴ飴のお金を払って彼女に渡しながら言うと、彼女は不思議そうな顔をする。
「だって、前も真っ先にリンゴ飴に突き進んで行ったから」
え? と彼女はいまだ不思議そうな顔。「一緒にお祭り行った事、あったっけ?」
僕はぐるりと視界が回った気がする。明るい蛍光ピンクの提灯が、チカチカと視界で瞬いて揺れているのが、ぐるり。
「なかったですっけ?」
「多分」
彼女はちょっと心配そうな顔。
「また夢、かも」
僕は決まり悪く呟く。でも彼女とお祭りに行く夢、だなんて。彼女が真っ先にリンゴ飴に突き進む事を以前にその夢で見てたとして、どうして僕は彼女がリンゴ飴を好きだなんて知っていたのだろう? 僕は予知夢の持ち主だろうか?
彼女と僕は、お祭りを歩く。彼女は美味しそうに、というよりは嬉しそうにリンゴ飴を平らげた後、たこ焼きを食べて、焼き鳥を食べて、ビールを飲んで、カキ氷を半分僕にくれた。溶けかけた真っピンクのイチゴ味。彼女の歩幅は小さくて、浴衣の彼女はちょっと歩き辛そうだった。「袖とかを何かに引っ掛けないか、気を使うんだよね。草履もね、慣れないから歩きづらいし」
「でも、可愛いよ」
僕が言うと、彼女は黙って僕の頭をはたいた。「欧米紳士的発言禁止」
照れ隠しかな? と僕はちょっと笑った。
僕と彼女はずっと川沿いを歩いていて、堤防に沿って植えられた木に紐をひっかけられて吊り下げられた朱色の提灯が、黒々とした水面に映って揺れていた。宵の口の道は涼しくて、顔や衿口を通り抜けていく風が気持ち良い。彼女は手の中の綿飴をくるくると弄びながら僕に向かって口を開く。けれど、どこからか聞こえる音楽がうるさくて、僕はその声が聞こえない。
ああうるせえ、と僕はベッドの上で目を醒ます。目覚まし代わりのオーディオの音楽は、普段は好きなアーティストの筈なのに、今はすごく不快に感じる。
僕はもぞもぞと起き上がって、枕元のオーディオに手を伸ばす。スイッチを切って、身を起こして、枕元の「夢日記」に手を伸ばす。日記帳には和柄の青地のカバーがかかっている。
夢日記をつけて、ひとつため息。僕はまだ、全然正気だ。オフィスでの会話も、彼女とのお祭りも、川沿いの道も、全部夢だと分かっている。早く、一刻も早く、早々に。それが現実だと思えるようになればいい。夢と現実が交じり合って、どっちがどっちだかわからなくなればいい。夢の中の僕は既にそれが出来ているのに。僕の夢は様々な現実の記憶が混入して、侵食されている。
現実の僕にも、一刻も早くこの現象が起こればいい。そして、現実と夢が完全に混在した世界で生きていければいい。
彼女のいないこの現実なんて、もう僕のいる意味なんてないのだから。
こ、これを書いた当時は異常にCMしてたんだ、「チームマイナス6%」
そういえば最近聞かないなー…
旬のネタ使うのはリスキーだ