第91話 社畜の溜息【DRAW UP A CONTRACT】
誤字・脱字ご容赦下さい
「ふわぁぁ……」
珍しく街中にうっすらと霧が立ち込めている。
朝靄程度であれば、日が高くなりさえすればすぐに晴れていくだろうと高を括っていたが、どうもかなり厚めの霧のようで、太陽が昇っているにもかかわらず一向に散る様子すら見せない。
視界も悪く、あまり遠くまで見通せないような状況の中、孝和は小脇にキールを抱え、背にはポポを背負って歩いていた。
朝の微睡の中、キールは半起き、ポポは8割寝ぼけている状態であるため自然この形となっている。
ちなみにシメジも一緒ではあるが、彼に関してはすごく元気であり、ばいんばいんと地面を強く蹴りながら孝和たちを先導するようにぐんぐん先に進んでいく。
どうもこのじとっとした気候が大変心地よいそうである。
「中止にならないかなぁ。これじゃあ何か近くで変なものがあっても判らないぞ」
孝和の歩みはこの周囲の霧のようにどんよりとしてなかなか前に進もうとしない。
如何せんやる気が起きないのである。
『だめだよ。きのうギャバンさんとやくそくしたんだもん!ちょっとおてつだいしてほしいって。かわりにおひるごはんごちそーしてくれるって、"けーやく"したんだ!』
「いや、約束した内容って飯代だけなの?」
話が違う気がした。
確か、駄賃は弾むとのことであったはず。
まさかの飯代のみとはあまりにも殺生ではなかろうか。
『んーと、むずかしいほうの"けーやく"はますたーとマルさんでしてもらうっていってたよ?ぼくらは、おてつだいの"けーやく"だけだもん』
「……やっぱグルじゃねぇか。あの熊のおっさん、そういう後ろめたいことばっかりしてたら、いつか天罰喰らってぶっ飛ばされるぞ」
ふつふつと湧き上がる不満を呟きながらも、目的地が霧の向こうにうっすらと見えてきた。
霧の中から現れる集団の中にはマルクメットにギャバン、バグズと数名の警備隊がいる。
こちらに気付いたマルクメットはとても良い笑顔でこちらに手を振っている。
若干のいら立ちを覚えたのは仕方のないことだと言えるだろう。
その中に、アリアの姿を見かけた孝和はあれ、と疑問を覚えた。
「アリア?何でいるんだ?キール何か聞いてるか?」
『しらなーい。きのうおやつもらったときは、そんなおはなししてなかったよ?』
「ポポは、寝てるか……。もう、起きようか?」
「くぅぅぅ……」
『アリアさんー!おはようっ!』
てててっと転がるように孝和の腕から逃れ、キールが彼女の元へと駆け出していく。
未だに寝息を立てる背中のポポを揺すって起こすと、目をこすりながら自分の足で立ち上がった。
しょぼしょぼの目を手で拭う様は、犬猫のどちらかといえば猫っぽい仕草である。
「ああ、朝早くからご苦労様。どうだい、少し冷めたが起き掛けの一杯でも?」
ギャバンは道の側に小さな携帯用の椅子を準備して、ポットに淹れたお茶を楽しんでいる。
しかも横に座るアリアはその相伴にあずかっているといった状況だ。
「いえ、遠慮しておきます。んで、どういう経緯でアリアがここにいるんだ?」
「昨日、神殿で急に言われてね。北部区画にいる人って仕事柄結構神殿と密接な人が多いの。危険物の探索を行うので万一に備えるために誰か一人参加要請したいとなってね。それで、派遣要員として誰にするかとなったのだけれど」
「もしかしてポポがいるってことで来たの?」
こくりと頷くアリア。
ここにも黒い大人の犠牲者がいた。
「でもキールが居るよ?朝の集会で何回か神殿の人も会ってるはずだし、こないだのゴタゴタの治療所も手伝ってたの見たはずじゃないか?」
「そうそう。きっとキールも居る筈だから、別に神殿からは誰か出す必要が無いとも言われたのだけどね。でも最近パーティ以外に大勢でしか話してなかったし。かといって席を設けてまでの話もあまりなかったから。まあ近況報告もかねて私が行くと言ってみたのよ」
『んふふー。ぼくもひさしぶりにあったかもー』
そういえば、砦の再整備やらレッド・リザードの一時野営の件もあり腰を落ち着けて、のような話もできていないかもしれない。
「朝の気持ちいい空気の中で歩きながら、と思ってたんだけどね」
苦笑しながら空を見上げる。
朝の濃霧に包まれ、日光は非常に弱い。
そのせいで念の為に着込んできた革鎧の下のシャツには少し湿気がこもる。
正直不快度指数はかなり高いといえる状況だ。
「雨が降ってないだけマシって考えたほうがいい。まあ、これから降ってくる可能性もあるからどうとも言えないっちゃあ言えないけどな」
『シメジはげんきだけど?』
端から見ると違いがよくわからないのであるが、力強いストライドで移動していたことからしても、このキノコ君はどうも絶好調らしい。
今も溢れでるやる気をそのボディから発揮しながら小刻みなアイドリングをしているように見える。
「種族的なものなんだろうけど、じめっとするといい感じなのかも。シメジ、やる気あるなぁ」
十人十色とはいえ、浮いている挙動のシメジを除けばほとんどがステータスに気力減と表示されそうなテンションであった。
「どんよりしているところ悪いけれど、仕事にかかろう。待っていて確実に晴れるとも限らないし、さっさと片付けてしまった方が良いだろうしね」
ギャバンがぱんぱんと手を叩き、皆の注目を集めた。
正直な話、全員が賛成を示した。
気持ちのいい天気ではないし、なにより朝も早く眠気もまだ有るわけで。
「という訳で、東回りのルートの担当になりました。取りあえずぐるっと一周回ってかえって来るまでと言う事でよろしくお願いします」
孝和はぺこりと頭を下げ、参加者からはぱらぱらと拍手される。
東回りで一周する班と、逆に西回りで一周する班に分かれて何か人のぶっ倒れる物がないかを調べてくる。
そういうことになり、班編成自体は元々パーティーメンバーと言う事もあり、いつもの孝和のチームをベースに補助として警備を数人追加する形になった。
もう一方はマルクメットの警備隊をメインにギャバンとバグズという班分けだ。
アリアとキールが一緒に行動するのは救護の観点から別れた方がいいのではないかとも言ってみたが、あくまで念の為でありそこまでキチキチに決めて行動するほどでもないと言われた。
それでいいのかとも思ったが、責任者のマルクメット自体が許可しているのだから、まあいいのではなかろうか。
「街も広いんで、全部虱潰しに調べる訳にもいかないですし、ざっと流しながら確認していきます。良いですよね?」
こくりと補助についた警備の男が頷く。
「よし、じゃあポポ。よろしくな」
「ガァッ!」
いつもの獣人・幼獣のモードではなく、成獣モードのポポが吠える。
嗅覚等の感覚器はより獣に近い方が高まるらしい。
本人が言っているので間違いないのだと思うが、どの程度かと問われるとよくわからないとの事。
だが、多分そうなのだと本人が言っているのだからそれに従うべきだろう。
すんすんと地面を嗅ぎ取りながら、背にキールとシメジを乗せてポポが進む。
その後に孝和・アリア・警備の順で進んでいく。
行政区画ということと朝方の上、天候不良も重なる悪条件で人通りはまるで無い。
「そもそも人が急に倒れるのはどうしてなんだろうと、調べるために今回集まったんだろう?人っ子一人いないんじゃ理由なんてわかんないと思うんだが」
「すごく正論ね。昼とか夕方とかまだ人通りのある時間帯に調べた方がまだ有意義なんだけど、その時間にやるとなると皆不安がるから、って話らしいわよ。この間のアンデッドの件もあって街中がそういう危険なことに対して敏感になっているみたいなの」
「変な暴発でもされたら怖いってわけか。でももう結構街中の噂になり始めてるんだけどなぁ」
「お役所の仕事ですので。皆さんにはお手数をおかけしています」
アリアと二人で周りにはあまり人がいないこともあり不満をぶつけあっていると、後ろを歩く警備からも声がかかる。
「いえいえ。マルクメットさんも色々大変そうだし、まあ貸しひとつってとこで」
「そうそう、結局自分の住んでる地域に変な事が起きそうだっていうのもなにか気持ち悪いものですよ。マドックの民の心が落ち着くまではディアローゼ様からも協力を惜しまないように命じられていますから」
「恐れ入ります。どうも切った張ったで解決できるものであればいいのですが、今回の件はどうもそれだけで片付かないだろうと隊長も頭を悩ませていまして」
孝和の脳裏にあのひげ面がデスクに座って唸っている姿が浮かぶ。
風貌にまったく似合わない姿だがそれでも実際にそういう光景があったということだ。
「あんまりそういう感じに見えないんですけどね」
「隊長の知り合いからはよくそう言われるんですが、正直字の読み書きは出来ても書類作成となると出来る人材がいないんです。こういう腕力にモノをいわせる仕事にそういう人材は集まりませんから。自然と出来るようになったと本人は言ってますが」
「役職が人を育てるってのの典型ってことですね。まあ、仕方ないでしょうねぇ」
確かにこのマドックなら学のある人間ならば商売人か、行政府に志望は集中するだろう。
冒険者で知識が高い者をスカウトするにしても、魔術師やら神官やらの後衛職の比率が高い結果となるだろう。
警備隊のリーダーシップを取るならやはり純粋な腕っぷしが必要で、更には学も必要なわけだ。
「なり手がいない訳ですか。大変ですね」
「まあ、冗談だとは思うんですけど」
そう前置きしてから警備が続ける。
「タカカズさんを押してみようか、と皆で飯食いながら話をしてましたよ」
「いや、酒の席の冗談でしょうに。はっはっは!」
引きつる頬を隠しきれない。
何を言ってくれているのか、あの熊の親父は。
「隊長は下戸なんで、酔っぱらってという訳でもないんですがね」
「お断りしておきたいんですが」
「でも、タカカズって実はその条件には合致するんじゃない?」
「え?」
何を言い出す、アリアさんとばかりに横のアリアを驚きを以て凝視する。
するとアリアは指折り確認するようにつぶやきだす。
「腕っぷしはこないだのアンデッドの一件で皆わかったし、あなたあれだけ本好きなら、問題なく読み書きできるでしょう?」
「出来るね、うん」
公用語だけでなく、一応真龍の知識のおかげで古語に関しても、神聖文字に関しても実は読み書きできたりする。
神殿にお邪魔した時に、陳列されているレリーフに刻まれた長々とした文章の語順違いや、どう考えても誤字がある煌びやかな写本の表題とかも見つけていたりするが、そこらへんは生温かな笑みでスルーしたりもしていた。
その事実は誰にも言ってはいないのだが。
「貴人に対する態度もちぐはぐではあるけど、失礼にならない程度にはできるし、神前試合で街の人間にも顔は知られたじゃない?」
「あれは非常事態で、本意ではないんだけど」
「流通関係で3番街の人の後押しはしてもらえるし、神殿は面白がったディア様が押すわよ、間違いなく」
「やめてくれるように言ってほしいんだが?」
冷や汗がでる。
「よくよく考えると今のタカカズの立場、結構危ないわよ。実際あなたマドック防衛の遊撃部隊の実務責任者で私と連名になっているし、ゴブリン達はキールとポポくらいにしか従わない。上位者のあなたが世話をしているのを冒険者ギルドが証明しているわけだから……」
「マズイな、ホントに」
追い込まれていた。
いや、これは本当にマズイ所まで外堀が埋まって来てはいないだろうか?
「ようやく厨房の動線も整理して、しっかり出来るようになってきた所なのに。マズイぞ、これは。シフトをもう少し増やして、荒事から離れておかないと……!」
「いえ、あなたコックに注力してたらダメなんじゃないのかしら?本業は冒険者のはずでしょう?」
孝和はきょとんとした表情でアリアを見つめる。
「俺、多分一番稼いでるのは食堂のバイトだよ?それ以外の臨時収入って言うのは賃金じゃなくて突発的な収入だから。ぶっちゃけ博打で勝った金とおんなじ扱いだし。定期収入は宿でしか稼いでないもん、俺。実際問題、冒険者のランクって実質3回しか依頼受けてない形になってるから最低ランクのままだし。すると、収入源の量から考えるに本業はコックで、副業が冒険者ってことになるはずなんだけど」
「そ、そんなはずは……」
「そのはずだって。仕事はポート・デイでの行きと帰りで計2回。アンデッドの強行偵察で1回。その後の防衛線のゴタゴタは冒険者の仕事じゃなくて、街全体の志願制に変更になってたはずで、ノーカウント。砦の整備も一応冒険者ギルドが一枚噛んでるけど、実際問題神殿やら警備隊やら商人ギルドが絡み合って正式な依頼扱いにならないって契約書に書いてあったじゃん」
「嘘ぉ!?」
「マジだって。面倒だったけど、後付けでいろいろ押しつけられたら堪らないからあのあと契約書の全文一通り読んでから話し合いもして、サインしたんだよ。その条項の中にそう書いてあった」
契約書のサインに関しては結構重要である。
個人のサイト利用に関する長文の承諾書のはい、いいえを選ぶのもまあ本質的には一緒なのだが、あれを全部読んでからはいを選ぶ奴は少ないと思う。
まあ、ほとんど皆が流し読みであろう。
ただし、社会人の方はお解り頂けると思うのだが、契約書というものは"事此処に到る"という状況下ではビビるくらいヤバい物である。
文言の不備、言い回しの妙、該当事例が文面内のどこのどの章の何行目にある、いやそれは別項にて該当しないことになっている、いやなっていない。
まあまず契約をしてから後で間違いなくこういうゴタゴタが起きるのだ。
だからまず自分一人がババを引くだけですまない契約はしっかり読み込むことが必要である。
というかこういう相手と自分との間で喧々諤々の折衝がない契約更新というのは普通どうかしているのであるが。
まあ、一つだけ言わせてもらいたいがどうしてああも契約書は難しい書き方をするのだろうか?絶対に契約書の不明瞭さをあの難しい文面が助長しているとしか思えない。
大きく話しがずれたが、まあ契約というものはとても大切ですよ、ということが分かっていただければそれでよい。
「すげえ細かいけど砦の使い方は俺たちの自由裁量だってのを条件次第で無視できるような条項もあったし、絶対どっかで嵌める気だったもんな、あの契約。一応こっちも手直しかけて書面の改定の要求したりもしたし」
数行に渡る気持ち悪い不穏な箇所の削除から始まり、第一稿になかった分が第二稿以降に報告なしで増えていたり、ならばこちらも追加をしてみると、文と文の接続詞が細かく変えられたり、サイン直前の文面変更が急におこなわれたりと、まあ時間がかかったものである。
「それは凄いのね。結構ハードだったんでしょう?」
「まあ、それはそうなんだけど」
ここまで細かに詰めたのは現代日本のサラリーマン時代の年度末に、日用品の契約をしていたマイド商店の狸ジジイとの契約以来であった。
思い出すのも腹立たしい。
課長に主任を伴って唾と怒声と汗をまき散らしながら、3月31日ギリギリに契約に至ったあの頃が懐かしい。
実際、契約後の翌日四月一日にはこちらもあちらも笑顔で納品の応対をしていたものである。
ああ、懐かしきかな事務サラリーマンの悲哀というやつだ。
「でも、押し込めるとこは押し込んだし。悪い形ではなかったと思う」
思い返すに契約書の担当者が突き返すたびに人が変わっていき、どんどん恰幅が良くなり、頭も禿げ上がり、年老いていき、着ている物も上物となっていったのである。
上役がきているのだなと思ったりもしたが、最初からそいつが来いよ、という話ではある。
所謂メンツというものもあるのだろう。
書面もペラ紙1枚から数ページにわたる契約書になるという始末だ。
もうそこまで行くと結果、やってしまえとなるわけで、わざわざ2部書式を用意して、割り印替わりの署名に、契約年月日に、監査役の署名等々。
ぶっちゃけ最終形は現代日本の契約書式で整えて作ってやった。
「双方納得の契約書式だった。うん、大丈夫大丈夫」
「……そうなのかしら?」
げっそりしていた神殿の調整役がそういえばいたなと思い出す。
酷く疲れている様子だったが、これが原因ではなかろうか?
「まあ、そんなわけで俺は本当は飯作る人なわけで」
「違うと思うわ」
突っ込むアリアに同意した警備の男たちが深く頷くのであった。