第63話 此処はヒトの戦場にて 【TREMBLE WITH FEAR】
誤字・脱字ご容赦ください。
「だから!これ以上ここから食料を持って行かれるとダメなんですって!」
「何言ってやがる!ここに充てるのはドツキ合い主体の奴らだ!腹が減って暴れられたら手前ぇどう責任をとるってんだ!?」
孝和は自分の胸ぐらを掴む男の手をやんわりと外しながら、手元の地図に書き込まれたポイントを指し示す。
「ここ見てください!近くに避難所があるんです!こっちには外の壁の傍で暮らしてた人の避難所で昨日の夜から飯が食えてないんです!そっちに回す分を削れってんですか?正直ギリで計算して配分してるんですよ!あなたのとこに渡した飯を人数で割れば普通の人より多いくらいじゃないですか!?」
「そ、そうか?」
「そうですよ!むしろこの後のゴタゴタから、そのあたりの人たちを守ってもらうのに少し多めに回してるくらいなんです。計算したもの見ます!?」
「い、いや、いい。いいよ!わかった!!それで手を打つ!」
孝和が取り出した食料備蓄の計算が書かれたもので、それを出した瞬間、男は怯んだ。
孝和の握る手の中、びっしりと書き込まれた計算、検算、再検算までされたそれは、教育水準のさほど高くないこの世界においては、呪術書にも似た一種異様な雰囲気を放っていた。
さらに言うならば不眠不休で働く孝和の容貌は、乱れた髪に無精ひげ。
充血した両目にうっすらとくまが浮かび上がっている。
それが鬼気迫る表情で迫ってくる様はなかなか心に来るものがあるのだ。
「……じゃあ、頼みます」
「……おぅ」
すごすごと孝和の前から去っていく男を見ながら眉間を揉む。
真っ赤に充血した目を見開き、孝和は再度後ろの備蓄食料を見やる。
「つ、つらい……。目が痛ぇ……」
現代日本のサラリーマンであった孝和にしてみれば、この異世界はあまりにも在庫管理がずさんであった。
放っておけば持てるだけ持っていこうとする人々を采配し、完璧でなくても必要な物資を必要な場所に届ける役割の人間が必要だった。
その点、戦時の物資管理という経験がないとはいえ日本では在庫管理を仕事とし、四則演算もできる孝和はうってつけの人材といえた。
第一、この規模の戦時の物流管理をしている人間がまずそうそういるわけもないわけだが。
「お前、少し寝てもいいんじゃないか?死ぬぞ、その面」
横で同じく物資の計算と運び出しに精を出す商人の一人がそう話しかけてきた。
彼もなかなかの疲労感を漂わせているが、孝和ほどではない。
なにせ彼は朝から配属され働き出したのだ。
孝和も“同じく”朝から働き出した。
ただ一つ違うのは、彼は本日からで、孝和は昨日からだということだけである。
「いやぁ……。もう少しで交代のはずですし、何とか踏ん張りますよ。だけど少し外してもいいですか?」
男がうなずくと孝和はこの物資保管所にある井戸に向かってふらふらと歩き出す。
適当に積まれた盥を一つ手に取ると、水を灌ぐ。
跪くと盥に向かって突っ伏すようにして顔面を沈める。
もうここまで来るとさすがに限界も近い。
頭全体を水の中に沈めたまま、頭を洗うようにワシワシとマッサージをすると、おそらく昨日落としきれなかった泥の塊が落ちていく。
少しばかり盥の水に浮かぶ汚れにゲンナリとしながら、多少さっぱりとした顔を腰に括り付けた布でふき取る。
「ふう……」
椅子に腰を下ろした孝和に湿った風が吹いてきた。
空は豪雨の後、曇天となり今も黒々とした雲が一面を覆っている。
願わくば少しでも晴れ間が見えてくれれば、雨を吸い込んだ地面も乾いてくれるのではないかと思っていたが、そううまくはいかないようだ。
その為エメスの指揮する濠の進捗状況は捗ってはいない。
雨水を含んだ土は重く、粘度を増して足元を危うくしている。
作業中に足を滑らせ怪我をするものや、雨に打たれ体調を崩したもの。
さらにそれをカバーするために仕事が増えるという悪循環。
神殿や協力してくれたフリーの回復術の使用可能な者は総出でそれらと、避難中の人々の救護にあたることになっていた。
ただ、幸運な点があるとすればそんな劣悪な状況下でも不眠不休で動くエメスと、救護所で朝からフル稼働しているキールの活躍。
屋台や催し物の為準備されていた資材に食材が予想よりも潤沢にあったこと。
遠方から遊びに来ていた者は基本健康で若いものが比較的多かったということだ。
「トントン、っていうか若干マイナスってとこか」
厳しい。
正直、どう転ぶものなのか全くと言っていいほど解らない。
真龍の加護がなければ精神的にはもっとパニックになっていただろう。
この落ち着いている自分の心が、正しく事態を理解しているか、否か。
だからここで一つ試してみたいことがある。
「さあて、“俺”。よく聞けよ」
胸を強く握り、心の中、それも自身の深いところに居る“俺”に語りかける。
「確かに、あの時俺は“お前”を受け入れた。だが、“俺”……。まだお前は、俺じゃあないぞ?」
トクン……。
ジッと体を落ち着けている状態でなければ、気付かなかったであろう鼓動を感じた。
ふふ、と笑みが零れる。
「“お前”は俺にならなきゃならないんだ。人の器にはそいつ一人分しか入らないように出来てるんだよ。すぐに“お前”が俺になれってのは無理だってのは解ってる。何せ“お前”は俺なんだから」
トクン……。
またしても鼓動。
ただ、こんどは暖かさを感じる。
くすぐったい様な柔らかな風が心の中に吹いたかのようだった。
「よし……。“お前”も大変だろう?なんせ龍と人の心なんてとんでもなく違うはずだ。そっちも今まで俺に配慮してくれてたんだ。そうだろ?」
ドクン!
強く、心が跳ねる。
そうであるはずなのだ。
幾ら強くとも、命のやり取りをする場に放り出された日本人が平静を保てるはずがない。
黄金の骸骨しかり、魔導人形の軍勢しかり、漆黒の巨獣しかり。
それ以外にも彼の前に立ちふさがった敵対者たち。
盗賊、モンスター、アンデッド。
戦う選択をした孝和が混乱しつつも狼狽するまでに至らなかったのは、なぜか?
孝和本人の心の強さもないわけではないだろう。
しかし、それ以外のファクター。
真龍の加護が働いていたことは疑うべくもない。
「でも、なぁ……?悪いんだけど今だけは頼む。大切な何か……キールやアリア、エメスにポポ、シメジ、宿の皆とか他にも色々、それがなくなるかもしれない。彼らや俺が殺されるかもしれない。……そのことに俺は震えないといけない」
トクン。
“俺”になろうとしている真龍の残滓が優しく心に響いた。
労わる様に、そっと触れるか触れないか位の力で。
「……俺は、正しく、真っ当に、ヒトの力だけで、これを感じないといけないんだ。怖くて怖くて、泣き出したくて、でもどうしようもないんだ、っていうのをきっちり刻まないと駄目なんだ。動揺して、狼狽して、みっとも無いザマァ見せて、それでも死にたくないって思いたいんだ」
今度は鼓動が聞こえない。
だが、心の奥底からふつふつと湧き上がってくる。
これは、何だ?
カチカチカチカチ……。
気付く。
音に気付く。
歯が激しく触れ合う音だ。
「ありがとう……」
感謝を告げた声の語尾はもう消え入るくらいの音量だった。
全身を覆う寒気と、こみ上げてくる吐き気を必死に堪える。
全力で体を抱きしめ、その震えを少しでも抑えようとする。
知らず、脂汗が噴き出す。
……怖い。
「ち、くしょお……」
恐怖が襲う。
歯の根が合わず、指先がこんなにも震えるのかと思うほどに言うことを聞かない。
孝和の中の“それ”が守ってくれていた、生身の孝和の心がむき出しになっていた。
……怖い。
何も考えず全力で逃げ出すのが正しいのではないか?
朝から何度か必死の形相で街から逃げ出す者たちを見かけた。
それを無様と嘲る者がいたが、本当にそうだろうか?
彼らは生きるため、自分の全力を振り絞っているのではないか?
あれもまた輝きだ、と孝和は思う。
人が見せる純粋な思いだ、と感じる。
「……でも。……俺はさぁ」
髪から滴る水を拭い、顔を拭く。
頬に触れる無精ひげがじゃりじゃりと音を立てる。
「それを選ばない」
椅子から立ち上がる。
声に出すというのは大切だ、と孝和は感じた。
やるべきことが見える。
「……これ以上、失くしてたまるか」
家族を奪われる?
それを“また”“ここでも”受け入れるのか?
あの時と違い、自分が出来ることがあるのに?
トクン……。
暖かい、音がする。
「サンキュー……。“お前”も少し分かってくれたよな?これが人間なんだよ」
みっともなく震えて、悩んで、自分の中で折り合いをつけて、そこからが人間の生き方だ。
震えが止まる。
真龍の加護の力ではなく、ヒトの心の力で。
それを孝和が認識した瞬間、ゆっくりと心が落ち着く。
……“俺”はいい仕事をする。
少し口元に笑みが浮かんだ。
「蚊帳の外でいつの間にか、なんてのは駄目だしなぁ。……抗うぞ。全力で抵抗してやる。あきらめて大人しく、死んじまうなんて冗談じゃない。運を天に任せる?誰が言うセリフだよ、それ?全部やって、それでもダメで、何とか道を探して、それでもダメで、一か八かをやって、それでもダメで、そこでダメだった奴を見て、“他の奴”が掛けてくれる言葉だろうが」
ゆっくりと顔を上げ、空を睨みつける。
天候はどうにもならない。
敵の来る時間も刻々と迫ってきている。
祈る、怯える、願う、立ちすくむ。
逃げるのに全力で動いていた人たちのことを思う。
彼らは間違っていない。
誰がなんと言おうとも、孝和の中で彼らは間違っていないと思うのだ。
ならば、孝和もそれに倣うべきか。
違う。
それは違う。
孝和には仕事がある。
きっとここで命を張る価値がある仕事が。
「さあ、やるぜ。死ぬ気で行くぞ」
盥の横に置かれた帳面を掴むと孝和は物資保管所へと戻るのだった。