後編
ガリレオの軟禁場所として指定されたフランチェスコ・ニッコロ・ニッサリーニ大使の公邸は、熱を帯びたローマの喧騒から、あたかも神の指先によって切り離されたかのように隔絶された静かな孤島だった。威圧感を与えるほどに分厚い大理石の壁は、通りを賑わす露天商の叫び声も、路地を駆ける馬車の車輪の響きも、そして時を告げる教会の鐘の音さえも遠ざけていた。
そこには、塵一つ立たない静謐な空気が、まるで澱のように沈殿している。マルコは、その重厚な門扉の前に立ち、腕に抱えた布包みの感触を確かめながら、喉の奥までせり上がってきた緊張を飲み込んだ。彼は、硬く閉ざされた扉を叩き、迎えに出た門番の鋭い視線を受け止めてから、精一杯の落ち着きを装って告げた。
「ガリレオ先生の薬を届けに参りました。アルチェトリの研究所から預かってきた、大切なものです」
門番は、煤けた旅装束の若者を怪訝な顔で見下ろし、その無骨な指先で剣の柄に触れたが、マルコの口から出たニッサリーニ大使の名を聞くと、弾かれたようにその態度を改めた。大使の権威は、この静かな邸宅において絶対的な守護の証だった。マルコは促されるままに中へと足を踏み入れた。
糸杉の香りが漂う中庭で彼を出迎えたフランチェスコ大使は、マルコの姿を一瞥するなり、その瞳に宿るただならぬ決意を敏感に察したようだった。気品ある大使の顔には、この数週間の政治的奔走を物語る深い疲労と、友を救いきれないかもしれないという憂いが、彫刻のように色濃く刻まれている。大使は、周囲に人の気配がないことを確認すると、マルコの肩に重苦しく手を置き、鼓膜に直接響かせるような低い囁き声で言った。
「君は、ガリレオ先生が最も信頼を寄せている末弟子だと聞いている。頼む、マルコ、あの頑固な知性を説得してくれ。今のままでは、彼の尊い命が異端の炎に呑まれてしまう。彼は科学者として、真理に対してあまりに純粋で、あまりに無防備すぎるのだ。
この過酷な現実を受け入れ、形だけでも教会の権威に膝を屈し、決して逆らわないようにと、君の口から話してやってほしい。それが、彼という不世出の天才をこの世に繋ぎ止める、唯一の、そして最後の道なのだから」
大使の言葉を受け、マルコの心は、師が命を懸けて愛した真実を汚すような提案への激しい躊躇と、何としてでもその命を長らえさせたいという、身を引き裂くような願いの間で激しく揺れ動いた。しかし、彼に残された時間は、砂時計の最後の一粒が落ちるのを待つほども残されていない。マルコは大使の言葉を重いお守りのように胸に抱き、冷たい廊下を抜けてガリレオの部屋へと向かった。
部屋の奥、西日に照らされた窓から差し込む一筋の光の中に、かつての威厳を失い、驚くほど痩せ細ったガリレオの姿があった。彼は静かに背もたれの高い椅子に腰掛け、力のない虚ろな眼差しで、自由のない窓の外の景色を眺めていた。その手は、かつて望遠鏡を支え、星々の位置を記録した時のような力強さを失い、膝の上で力なく震えている。マルコはこみ上げる涙を懸命に堪え、師の足元に深く跪くと、持ってきた薬包を震える手で差し出した。
「先生…お体の具合は、いかがでしょうか。アルチェトリの風を持ってまいりました」
ガリレオはマルコの聞き慣れた声にゆっくりと顔を向け、枯れ木のような唇をわずかに綻ばせて微笑んだ。だが、その瞳の奥には、かつて木星の衛星を発見した時に見せたような、天上の音楽を聴くような情熱的な輝きは、もう欠片も残っていなかった。
「マルコか。わざわざ、このような火の中に飛び込むような真似をしてまで、来てくれたのか。だが、私の病は、その薬ではもう治らんよ。この老いた身には、真実という名の、あまりにも巨大な天体の重みが圧し掛かっているのだ。それは薬学の範疇を超えた、宇宙そのものの重さなのだよ」
マルコは視界が滲むのを止められず、掠れた声で懇願した。
「先生、お願いです。どうか、どうかお考え直しください。このままでは、あなたのその素晴らしい頭脳が、知の結晶が、無慈悲な処刑台の露と消えてしまいます。未来に続く道が、閉ざされてしまうのです」
ガリレオは静かに、しかし断固とした拒絶の色を浮かべて首を振った。
「私は、この目で見た真実を曲げることはできないのだ、マルコ。夜空に輝く星々が、私の言葉の正しさを、数学的な調和をもって証明し続けている。それを、私自身の保身のために偽りだと認めることが、科学に携わる者としてどうしてできようか。神が与えたこの知性を、神を欺くために使うことはできんのだよ」
「先生、今、この瞬間に必要なのは真実ではありません!」
マルコは、自身の内側から溢れ出す絶望感に突き動かされ、無意識のうちに声を荒げた。それは、学徒として入門して以来、生涯で初めて師に真っ向から逆らった、悲鳴のような瞬間だった。
「今この瞬間に何よりも必要なのは、先生が明日を生き、研究を続けていける未来です。真実は、先生が生き延びれば、百年後の人々が必ず見つけ出します。ですが、先生の命は今ここで消えてしまえば二度と戻らないのです。
そのためには、一時的にでも、この屈辱を受け入れていただかなければならない。地動説は宇宙を計算するための便利な仮説であり、天動説の美しさを説明するための数学的ツールに過ぎないのだと。どうか、そう審問官たちの前で主張してください。嘘をつくのではありません、真実を守るための盾を構えるのです」
ガリレオは深い溜息とともに目を閉じ、しばらくの間、微動だにしなかった。科学者としての崇高なプライド、真実を追究する魂の渇望、そして愛弟子の切実な、血を吐くような願い。それらの激しい葛藤が、彼の深い皺に刻まれた顔の上を通り過ぎていく。
マルコは、これ以上言葉を続けることはできなかった。己の卑怯さを恥じる思いと、それでも生きてほしいという執着が、彼の喉を塞いでいたからだ。彼は伝えるべき祈りをすべてその場に置き去りにするようにして、師の部屋を後にした。
大使の執務室に戻ったマルコは、再びフランチェスコ大使への面会を、今度は一介の弟子としてではなく、一人の戦士のような気迫を込めて懇願した。
「大使様。私に一度だけ、機会をください。異端審問官に対し、先生の主張がいかに教会の教義と調和しうるかを、私が自ら製作した模型を用いて解説したいのです。先生の無罪を勝ち取るための、最後の策があります」
大使は、そのあまりに無謀で大胆な申し出に目を見開き、強い口調で反対した。
「危険すぎる、マルコ。万が一にもお前が論理の穴を突かれて失敗すれば、お前までもが異端の徒として火刑に処される。それどころか、お前のその不遜な行動が、ガリレオ先生の立場をさらに悪化させ、彼を死へ追いやる引き金になりかねんのだぞ」
「失敗した時は、すべて私という無知な若者が、名声欲しさに独断で仕組んだことにして切り捨ててください。先生には一切の火の粉がかからないようにいたします」
マルコは大使の目を正面から見据え、一歩も引かずに言い放った。彼の瞳には、かつてのガリレオ先生が若かりし頃に、パドヴァの講義室で見せていたのと同じ、何ものにも屈しない知性の炎が宿っていた。
その若者の熱意と、そこに秘められた緻密な計略の可能性に屈した大使は、数日間の政治的な裏工作を経て、ついに主席審問官であるヴィンチェンツォ・マッキウッリ神父への極秘の面会を取り付けた。
異端審問官の執務室は、陽光を拒むかのような冷たい石造りの部屋だった。壁に掛けられた十字架さえもが、罪人を裁く剣のように鋭く尖って見える。ヴィンチェンツォ神父は、山のように積まれた黒い装丁の書類に囲まれ、部屋に入ってきたマルコを氷のような眼差しで一瞥すると、感情を排した冷徹な声で告げた。
「主の御心、そして聖なる教会の教えに沿わない不遜な主張であれば、其方もまた師と同様に異端の徒と見なし、相応の処置を執る。己の魂の救済を賭けて、心して話すがよい」
マルコは一瞬、背筋を凍りつかせたが、臆することなく歩を進めた。彼は、腕に抱えていた布を解き、数日間の苦闘の末に組み上げた「折衷の太陽系模型」を、神父の目の前の大きなテーブルに置いた。真鍮製の円環と惑星を模した球体は、薄暗い部屋の中でランプの灯火を受け、まるで意志を持っているかのように鈍く輝いた。
「神父様。ガリレオ先生は、決して天の秩序を乱そうとしたわけではありません。先生はただ、全知全能の神が創造されたこの宇宙の神秘を、人間の不完全な知恵を用いて、より正確に、より美しく理解しようと試みたに過ぎないのです」
マルコは細い指先で慎重に模型を指し示し、自身の人生を賭けた弁論を開始した。
「このモデルの配置をご覧ください。地球は、聖書に記されている通り、不動の存在として宇宙の中心に静止しております。そして、太陽は地球の周りを、完全なる円を描いて公転しているのです。この一点において、先生の真の観測結果は、決して伝統的な天動説の根幹を揺るがすものではありません」
ヴィンチェンツォ神父は、怪訝そうに眉をひそめ、身を乗り出して模型を検分した。
「では、あの悪名高い論文で語られていた、太陽の周りを回るという惑星の説についてはどう説明するのだ。あれこそが教義への明白な叛逆ではないか」
「神父様、それこそが誤解なのです。先生の望遠鏡による観測によれば、金星や火星といった天体は、太陽を主君としてその周りを回る、いわば『衛星』のような存在であると判明いたしました。これらはかつての便宜上、惑う星と呼ばれてまいりましたが、先生が見出したのは、むしろこれらの星々が太陽に付き従う忠実な召使いであることを示す、神の秩序の新たな一面なのです」
マルコは震える指先を抑えながら、模型の火星と金星をゆっくりと動かした。太陽が地球の周りを回るその円軌道に従って、金星が太陽の影で見事に満ち欠けし、火星が地球から見て奇妙な逆行運動を見せる様子を実演したのである。それは、中世以来のプトレマイオスが提唱した、不自然なほど複雑な周転円の迷宮に頼ることなく、ガリレオが得た観測事実を驚くほど正確に再現していた。
「このモデルならば、敬虔なる神父様も、神の栄光を再確認していただけましょう。金星が満ち欠けをするのは、それが太陽という僕に寄り添っているからであり、火星が不規則な動きを見せるのは、太陽の公転に伴う見かけ上の現象に過ぎないのです。
異教徒であるアリストテレスやプトレマイオスが遺した、あまりに複雑で不完全な図式が、真に全能なる神の御心に沿うものだと、どうして言い切れるでしょうか。むしろ、この模型が示す簡潔な美しさこそが、神の知恵を証明しているとはお考えになりませんか」
ヴィンチェンツォ神父の細められた瞳の中で、猜疑心の炎が知的好奇心へと揺らいだ。この若き弁論家は、教会の権威を否定するのではなく、むしろ教会の権威を補強するための道具として、師の禁忌の発見を再定義してみせたのだ。
「聖書のどこにも、火星が地球の直属の惑星であるとも、月が塵一つない鏡のような球体であるとも、具体的には記されておりません。アリストテレスの哲学は、あくまで異教徒の思考の産物に過ぎず、それを神の言葉そのものと同一視し、神の被造物の真の姿から目を背けることこそ、傲慢ではありませんでしょうか」
マルコは、胸の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じながら、渾身の力を込めて最後の言葉を紡ぎ出した。
「ガリレオ先生の発見は、神が創造された宇宙がいかに巧妙で、人の想像を絶するほど美しく、そして数学的に完璧なものであるかを証明しています。先生は、神が人間に与えられた最大の恩寵である『知恵』を用いて、その神秘のベールを一枚剥がそうとしたにすぎません。師が著書で説いた地動説は、あくまで論理の多様性を示すための仮説であり、真の天動説の盤石さを逆説的に証明するための対比に過ぎなかったのです」
そして、運命の裁判の日が訪れた。
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の修道院。厳粛で、そして重苦しい沈黙が支配する広間において、ガリレオは白装束を纏い、威圧的な尋問官たちの前に一人で立った。マルコの命を懸けた、そして政治的に計算し尽くされた弁護が、水面下で審問官たちの強硬な姿勢に楔を打ち込んでいた。彼らの表情には、かつてのような剥き出しの敵意ではなく、ある種の戸惑いと、形式的な和解への期待が混じり合っていた。
「ガリレオ・ガリレイ。貴殿は、地動説を宇宙の真理として固く信じ、それを世に広めることで教会の教えを貶めようと試みたか」
ガリレオは、審問を前にマルコと交わした、あの涙ながらの対話を思い出していた。彼の胸の奥では、今もなお星々の真実を叫びたいという激しい渇望が、溶岩のように沸き上がっている。彼は一瞬、深い闇を覗き込むように瞳を閉じ、そして、マルコが守ろうとした自分の「未来」を抱きしめるように、ゆっくりと、重々しく口を開いた。
「いいえ。私は、地動説を真理として信じてはおりません。私は、聖なる教典に記された不変の教えに従い、地球こそが神の愛を受ける中心として静止していると信じております。かつて書き記した地動説は、あくまで天体の不可解な動きを数学的に整合させるための、一つの不完全な仮説に過ぎないのです」
その言葉が唇を離れた瞬間、ガリレオの心の中で、誇り高き魂の何かが音を立てて崩れ落ちたかもしれない。それは彼が一生をかけて愛した真実とは、あまりにもかけ離れた、泥にまみれた言葉だった。しかし、それは自分を親代わりと慕い、そのために己の命さえ差し出そうとした愛弟子のマルコを、そして彼が救おうとした科学の種火を守り抜くための、唯一の苦渋の選択だった。
判決の宣告が、冷たい石床を打つ杖の音とともに響いた。ガリレオは表向き、異端の疑いにより終身刑を言い渡されたが、その老齢と衰弱した体調、そして何より彼が示した「悔峻」の姿勢を考慮され、教皇の特赦によって、故郷アルチェトリでの自宅軟禁へと大幅に減刑された。それは、事実上の勝利に近い、奇跡的な無罪放免の判決であった。
ローマの街を離れ、緑豊かなトスカーナの山々へと向かう帰りの馬車の中で、マルコの胸は、張り詰めていた弦が切れたような安堵と、言葉にできない喜びに満たされていた。それとは対照的に、ガリレオはしばらくの間、何も語らず、ただ静かに流れていく窓の外の景色を眺めていた。その横顔には、重荷を下ろした安らぎと、真理を裏切ったという深い哀愁が、夕暮れの光のように混ざり合っている。
「先生、よかった…本当によかったです。神様は、私たちのことを見捨ててはいなかったのですね」
マルコは、堪えきれずに溢れ出した涙を袖で拭いながら、胸いっぱいの思いを伝えた。ガリレオは、ゆっくりと隣に座るマルコに視線を移し、複雑な、それでいて、どこか憑き物が落ちたような晴れやかな表情で、少年のように微笑んだ。
「マルコ、ありがとう。私のこの残りの余生を、そして、いつかまた真理が語られるはずのこの未来を救ってくれたのは、誰でもない、君の知恵と勇気だ」
「いえ、先生。先生が、あの土壇場で私の策を汲み取ってくださった、その強さがあったからこそです」
マルコは、ふと、まだ自分が幼い弟子だった頃に、望遠鏡のレンズを磨きながら先生に言われた言葉を思い出していた。「真理は、いつでも美しい」。彼はその言葉を、今この瞬間に、偽りの模型を組み立てた自分自身の矛盾と共に、深く心の中で噛み締めていた。そして、少しだけ、重苦しい空気を振り払うように、かつての活気を取り戻した声で、師に茶目っ気のある苦言を呈したくなった。
「でも、先生。約束してくださいよ。これからは、研究所に籠りきって星ばかり見ていないで、せめて日曜日は私と一緒に教会へ行って、神父様を安心させてあげましょうね。あんなに熱弁を振るった私の立場というものもありますから」
ガリレオは、その言葉に意外そうな顔をした後、腹の底から、そして、本当に心から楽しそうに声を上げて笑った。その朗々とした笑い声は、ガタゴトと揺れる馬車の窓から溢れ出し、夕闇に包まれ始めたローマの古い街並みに、静かに、しかし力強く響き渡っていった。その笑い声こそが、真理が闇に葬られなかったことの、何よりの証明であった。




