前編
薄暗い研究室に、いつもなら響くはずのガリレオ先生の朗々とした声も、複雑に絡み合う精緻な機械仕掛けが刻む規則正しい歯車の音もない。窓から差し込む朝の光は、空中に舞う埃を無情に照らし出すだけで、かつての知的な活気はどこにもなかった。代わりに耳朶を打つのは、湿り気を帯びた石壁に反響する、苛立ちと絶望に満ちた兄弟子たちの怒声だった。
マルコは、その日の朝もいつものように、師の言葉を求めて研究室の重い扉を押し開けたばかりだった。まだ指先には、昨夜遅くまで続けていた写本のインクの匂いが残っている。扉の蝶番が軋む音さえ、今は不吉な予兆のように響いた。
「…異端の容疑で連れて行かれたんだ!あの論文がまずかったんだ、一体どうすればいいというんだ。我々の前途は、あの老人の頑固さのせいで真っ暗だぞ!」
「どうするもこうするもあるか!教会に逆らえばどうなるか、分かっていたはずだろう!このままでは、我々まで巻き添えを食らい、異端の加担者として地下牢に放り込まれるのが関の山だ!」
声の主は、筆頭弟子のジョバンニと、その次に年長のピエトロだった。彼らは、床に散乱した貴重な書物や繊細な実験道具の間に立ち、顔を真っ赤にして互いをなじり合っていた。ジョバンニは震える手で自身の服の襟元を掴み、ピエトロは机を叩いて師への不満をぶちまけている。マルコは、その場の凍りつくような空気に、一瞬にして事態を悟った。心臓が冷たい鉛のように重くなり、胃の奥がせり上がるような感覚に襲われる。肺に入り込む空気が、これまでになく鋭く冷淡に感じられた。
「先生が…異端審問に?」
マルコの口から、消え入りそうな、か細い声が漏れた。その言葉は、混乱の渦中にある研究室の空気に、かすかな波紋を作ったに過ぎなかった。
ジョバンニが、まるで自分の恐怖を八つ当たりするかのように、苛立たしげにマルコを睨みつけた。その瞳には、かつて師を尊敬していた面影はなく、ただ自己保身への焦燥だけが張り付いている。
「ああ、そうだ!君が呑気に寝ていた間に、異端審問官の黒い影がこの神聖な研究室に踏み込んできたんだ!先生はあの地動説の論文を、あんな悪魔の代弁者のような主張を撤回しないと、審問官の前で頑として首を振らなかったのだ。老い先短い自分はともかく、残された我々の生活をどう考えているのだ!」
ピエトロが、自身の震える声を隠すこともできずに付け加えた。彼の額には、冷や汗が滲んでいる。
「あの老いぼれめ…なぜもっと賢く、大人しくしていられない!これでは我々も、異端の弟子として刻印を押され、学術界から追放されるに違いない。ああ、主よ、どうしてこんな災難が降りかかるのですか!」
話は全くまとまらない。彼らの口から溢れるのは、師の安否を気遣う慈愛の言葉ではなく、弁護の手立てを講じようとする知性のきらめきでもなかった。ただ、自分たちの身の保身と将来への不安ばかりを吐き捨てる兄弟子たちに、マルコは言いようのない失望と、胃を焼くような不快感を感じた。彼らが師と共に学んだ時間は、ただの出世の道具に過ぎなかったのだろうか。胸の奥底から、泥のように濁り、煮えたぎるような怒りがふつふつと込み上げてくるのを、彼は抑えることができなかった。
マルコは黙って、部屋の隅に置かれた太陽系の同心円模型に近づいた。それは、プトレマイオスの天動説に基づき、複雑な周転円が幾重にも重なった、精巧な真鍮製の模型だった。かつてガリレオが、既存の理論の欠陥を説明するために学生たちに見せていた、古き時代の象徴だ。マルコは、冷たく硬い真鍮の感触を手のひらに感じながら、何の躊躇もなく、その模型に手をかけた。そして、自身の内部で荒れ狂う感情を指先に集中させ、部品を一つずつ、乱暴に引き剥がし始めた。
ガシャン!と、高価な金属が石の床に落ち、耳を劈くような鈍い音が響いた。その不吉な衝撃音は、醜い兄弟子たちの怒鳴り合いを、一瞬で断ち切った。静寂が戻った部屋の中で、ジョバンニが血相を変えて、肩を怒らせたマルコに駆け寄る。
「おい!マルコ!正気か!一体何をするんだ!それは先生が多額の資金を投じて作らせた、大事な、大事な模型だぞ!壊してどうするつもりだ!」
「邪魔だ!」
マルコは振り向きもせず、腹の底から絞り出すような声で怒鳴り返した。細身の体が、ありったけの怒りと、決して屈しないという強い意志を込めて小刻みに震えている。彼の視界は、怒りの涙で歪んでいたが、その手だけは迷いなく動いていた。
「誰も先生を助けに行かないというなら、僕が行く!理屈を並べて震えているだけのあなたたちとは違う。先生を救うための道具を、僕がここで作るんだ!邪魔をしないでくれ!」
ピエトロが、まるで狂人を見るかのような、呆れた視線をマルコに投げかけながら言った。
「馬鹿なことを言うな!異端審問官という存在の恐ろしさを分かっていないのか!あの方々に逆らえば、君の首などあっという間に処刑台に飛ぶ。若さゆえの無知とは、なんと嘆かわしいことか!」
「構わない!」
マルコは鋭く振り返り、その真っ直ぐで力強い瞳で、後ずさりする兄弟子たちを射抜いた。彼の目には、師を奪われた深い悲しみと、それを上書きするほどの、硬質なダイヤモンドのような決意が宿っていた。かつて、親を亡くした彼に読み書きを教え、宇宙の広がりを説いてくれた師の横顔が脳裏をかすめる。
「僕には、帰る場所も、親も兄弟もいない。ただ、暗闇の中にいた僕を見つけ出し、知識という光を授けてくれたガリレオ先生だけが、僕の親代わりなんだ。先生が異端として処刑されるというなら、僕もその傍らで共に処刑されても構わない。真実を愛する者を殺そうとするキリスト教など…そんな神など、クソ喰らえだ!」
その教会への激しい冒涜の言葉に、ジョバンニとピエトロは顔を紙のように白くさせ、目を見開いて数歩後ずさった。彼らにとって、教会の権威は絶対であり、マルコの言葉は地獄への招待状に等しかった。彼らは、感情の激流に身を任せたマルコを制止することもできず、ただ口を半開きにしたまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。
マルコは再び、バラバラになった模型に向き直った。彼の指は怒りと緊張で震えていたが、その動きは驚くほど素早く、かつ的確だった。散らばった真鍮の環、惑星を模した小さな球体、それらの中から必要な部品を瞬時に選び分け、頭の中で幾何学的な図形を描いていく。
彼の頭の中には、ガリレオ先生が夜を徹して、誰にも知られないように語ってくれた、コペルニクスの地動説の原理が鮮明に浮かんでいた。宇宙の調和、太陽を中心とした完璧な秩序。しかし、今その「真実」をそのまま持ち出せば、審問官の怒りに油を注ぎ、先生をますます窮地に陥れるだけだ。必要なのは真理の提示ではなく、政治的な妥協点を見出すための「装置」なのだ。
「地球を中心…地球を中心に据えるんだ…」
彼は、己を言い聞かせるように、低い声でブツブツと呟きながら、金属の環を地球の周囲に配置し直していく。その外側に、本来なら動くはずのない太陽の模型を、再び天動説の体裁を整えるように据える。しかし、彼の作業はそこで終わらなかった。その太陽の周りに、金星と火星を模した小さな惑星モデルを、極細の真鍮線で慎重に取り付け始めた。これらは、太陽が地球を回る軌道の上で、さらに太陽の周りを巡る従順な衛星として振る舞うことになる。
何度も部品を組み直し、角度を調整し、歯車の噛み合わせを確かめる試行錯誤が続く。彼の脳裏には、望遠鏡を覗き込みながら感嘆の声を上げたガリレオの姿と、その傍らで必死に記録した観測ノートの記述が蘇っていた。金星が見せる月のようは満ち欠け、火星が夜空で見せる奇妙な逆行運動。
それらすべては、従来の地球中心モデルでは、複雑すぎる周転円を継ぎ足さなければ説明できない矛盾の塊だった。だが、それらを「太陽の周りを回るもの」として定義し直せば、計算上の矛盾は霧散する。今マルコが作ろうとしているのは、純粋な真理の探求ではなく、頑迷な教会の教義を傷つけることなく、観測事実を飲み込ませるための「美しい嘘」だった。
数時間後、静まり返った研究室の片隅で、新しい太陽系模型がひっそりと完成を告げた。窓の外では太陽が既に高く昇り、世俗の喧騒が遠くから聞こえてくる。完成した模型は、確かに地球を宇宙の中心に据えていた。太陽は、古代の賢者たちが信じたように、地球の周りを堂々と、王者のように公転している。
しかし、その太陽の周囲には、水星、金星、火星が、まるで付き従う騎士のように、複雑な円弧を描いて配置されている。それは、かつてティコ・ブラーエが提唱した折衷モデルと外見上は酷似していたが、ガリレオが発見した金星の位相変化を完璧に説明するために、より精巧な、そして神学的な批判をかわすための数学的巧妙さを内部に秘めていた。
火星や金星が太陽の衛星としてその周囲を巡り、その太陽自体が地球を回る。この構造であれば、金星が満ち欠けすることも、火星が不自然に後退して見えることも、地球中心の視点を維持したまま説明がつくはずだ。異端審問官たちが、この模型の奥底に隠された、真理を救うための数学的な策略を見破れるだろうか。あるいは、ただ表面的な「地球中心」という配置を見て、自分たちの勝利だと満足し、矛を収めてくれるだろうか。
マルコは、完成した模型をじっと見つめた。ランプの光を反射して怪しく光るその模型は、どこか不自然で、歪んだ知性の産物のようにも見えた。それは、真理を愛する師を救うために、真理そのものを偽装した、彼自身の苦渋に満ちた心境の裏返しでもあった。これで本当に先生を、あの牢獄から、死の恐怖から救い出せるのだろうか。彼の胸には、冷たい隙間風のような一抹の不安と、そして、たとえこの身が砕けても師を救い出すという、鋼のような確かな決意が交互に押し寄せていた。
「先生…」
マルコは、完成したばかりの冷たい真鍮の環にそっと指先を触れ、誰にも聞こえないほど静かに呟いた。その声には、震えはもうなかった。
「必ず、助けに行きます。僕の命に代えても」
彼は模型を大切に布で包み込み、研究室を飛び出した。背後で兄弟子たちが何かを叫んでいたが、その声はもう、彼の耳には届かなかった。




