第9章「湖の呼び声」
♦︎♦︎♦︎眠れぬ夜の始まり♦︎♦︎♦︎
その夜、悠真は全く眠ることができなかった。
健司の消失という異常事態が頭から離れない。自分だけが彼の存在を覚えているという事実。そして明日の夜に迫った、涼と結衣の謎めいた計画。
時計の針は午前二時を指している。布団の中で寝返りを打っても、心が落ち着かない。
悠真は起き上がり、縁側に座った。外は静寂に包まれている。新月に近い夜で、月明かりもほとんどない。村は深い闇の中にあった。
「このままじゃ、体がもたない」
悠真は呟いた。
連日の精神的ストレスで、体調も悪化している。食欲もなく、集中力も続かない。このままでは、明日の夜に何が起ころうとも、対処できないだろう。
しかし眠ろうとしても、頭の中が騒がしすぎる。
健司はどこに消えたのか? 本当に影の世界というものが存在するのか? そして自分は、これからどうなってしまうのか?
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
悠真は深呼吸をして、気持ちを落ち着けようとした。パニックになっても何も解決しない。冷静に状況を整理し、対策を考える必要がある。
その時——
遠くから、かすかに声が聞こえてきた。
♦︎♦︎♦︎懐かしい呼び声♦︎♦︎♦︎
最初は風の音かと思った。
しかし耳を澄ますと、確実に人の声だった。遠く、湖の方角から聞こえてくる。
「悠真——」
はっきりとは聞こえないが、自分の名前を呼んでいるようだった。
悠真は縁側から立ち上がり、外に出た。夜風が頬を撫でていく。村は相変わらず静寂に包まれており、他の家からは物音一つしない。
「悠真——」
再び声が聞こえた。今度ははっきりと聞こえる。間違いなく自分の名前を呼んでいる。
声の主は分からない。男性のようでもあり、女性のようでもある。しかし懐かしい響きがあった。どこかで聞いたことのある声。
「誰だろう?」
悠真は首を傾げた。
こんな深夜に、湖の方から自分を呼ぶ人がいるはずがない。きっと聞き間違いだろう。風の音や、遠くの動物の鳴き声を、人の声と錯覚したのかもしれない。
しかし——
「悠真、こっちよ——」
今度は女性の声だった。そして、その声には聞き覚えがある。
結衣の声だった。
悠真の心臓が激しく鼓動し始めた。なぜ結衣が、こんな深夜に湖から自分を呼んでいるのか?
「悠真——」
別の声も聞こえてきた。男性の声で、これも聞き覚えがある。
涼の声だった。
そして——
「悠真、一緒に遊ぼう——」
三番目の声が聞こえた。子供のような、幼い男の子の声。
健司の声だった。
♦︎♦︎♦︎夢遊病のような歩行♦︎♦︎♦︎
悠真は我を忘れて歩き始めていた。
理性では、深夜に湖に向かうのは危険だと分かっている。田中村長の警告も思い出される。しかし体は勝手に動いていた。
まるで夢遊病にかかったかのように、足が湖の方向に向かっている。自分の意志とは関係なく、何かに引き寄せられるように歩いている。
「悠真、早く——」
結衣の声が、より近くから聞こえてくる。
「待ってるから——」
涼の声も聞こえる。
「一緒に遊ぼう——」
健司の声は、子供の頃とまったく同じだった。
悠真は歩き続けた。村の道は暗く、足元がよく見えない。しかし不思議と道に迷うことはなかった。まるで誰かに導かれているかのように、確実に湖へ向かっている。
途中で、自分が何をしているのか一瞬理解した。
「いけない、戻らなければ」
悠真は立ち止まろうとした。しかし足は止まらない。まるで意志とは関係なく、体が勝手に動いている。
「悠真——」
再び呼び声が聞こえると、立ち止まろうという意志も消えてしまった。早く声の主に会いたいという気持ちだけが残る。
理性と感情の境界が曖昧になっていた。夢なのか現実なのかも、よく分からない。
♦︎♦︎♦︎湖面の幻影♦︎♦︎♦︎
湖畔に着くと、不思議な光景が広がっていた。
湖面には月が映っている。しかし空を見上げても、月は見えない。新月のはずなのに、なぜ湖面に月が映っているのか?
そして月の周りに、複数の人影が揺らめいていた。
水面に映った人影たちが、ゆらゆらと動いている。まるで水中から上を見上げているかのように。
「悠真——」
湖面から声が聞こえてくる。
よく見ると、人影の中に見覚えのある顔があった。
結衣だった。15歳の頃と変わらない顔で、悠真に向かって微笑んでいる。
「こっちへおいで——」
結衣の声が、水の中から聞こえてくる。
その隣には、涼の姿もあった。爽やかな笑顔で、悠真を手招きしている。
「一緒にいよう——」
涼の声も、水中から響いてくる。
そして——健司の姿もあった。
小学生の頃の健司が、人懐っこい笑顔で悠真を見つめている。消えてしまったはずの友達が、確かにそこにいる。
「悠真、一緒に遊ぼう——」
健司の声は、子供の頃とまったく同じだった。
♦︎♦︎♦︎水中からの誘い♦︎♦︎♦︎
悠真は湖の縁に膝をついた。
水面に映った三人を、もっと近くで見たかった。特に健司には、聞きたいことがたくさんある。
「健司、どこにいたんだ?」
悠真は水面に向かって話しかけた。
「ここにいるよ——」
健司の答えが返ってくる。
「みんな、君を待ってるんだ——」
涼も言った。
「こっちの世界は、とても気持ちがいいのよ——」
結衣が微笑む。
三人の姿は、水面の中でゆらゆらと揺れている。まるで本当に水中にいるかのように。
「こっちの世界?」
悠真は尋ねた。
「影の世界よ——」
結衣が答える。
「現実世界より、ずっと素晴らしい場所——」
「悩みも苦しみもない——」
涼が補足する。
「一緒に来よう——」
健司が手を伸ばす。
水面に映った健司の手が、まるで本物のように見える。触れることができそうなほど、リアルだった。
「でも、どうやって?」
悠真は戸惑った。
「簡単よ——」
結衣が笑う。
「水の中に入ってくるだけ——」
「大丈夫、怖くないから——」
涼が優しく言う。
「一瞬で済むよ——」
健司も微笑む。
三人の言葉は説得力があった。確かに、彼らの世界は素晴らしそうに見える。悩みも苦しみもなく、永遠に友達と一緒にいられる世界。
悠真は湖の水に手を伸ばした。
冷たい水が指先に触れる。現実の感覚だった。
「そう、そのまま——」
結衣が励ます。
「こっちへおいで——」
涼が手招きする。
「待ってるから——」
健司が嬉しそうに笑う。
悠真は更に深く手を伸ばした。肘まで水に浸かる。水は予想以上に深く、底が見えない。
「もう少し——」
三人の声が重なる。
悠真は体を前に傾けた。顔が水面に近づく。もう少しで、水中の三人に触れることができそうだった。
その時——
♦︎♦︎♦︎現実への帰還♦︎♦︎♦︎
「悠真!」
別の声が聞こえた。
振り返ると、田中村長が立っていた。心配そうな表情で、悠真を見つめている。
「何をしているんだ?」
村長の声は現実のものだった。
悠真は我に返った。自分が湖の縁で、水に手を浸していることに気づく。あと少しで、湖に落ちるところだった。
「村長さん?」
悠真は慌てて手を引っ込めた。
「こんな夜中に、湖で何を?」
村長が近づいてくる。
悠真は湖面を見た。しかし、もう三人の姿はなかった。月の映像も消えている。ただ暗い水面があるだけだった。
「声が聞こえたんです」
悠真は説明しようとした。
「結衣と涼と健司の声が——」
「健司?」
村長が首を傾げる。
「そんな人は知らないが——」
村長も健司のことを覚えていない。やはり悠真だけが記憶を保持している。
「幻聴だったのかもしれません」
悠真は苦しい説明をした。
「疲れているんでしょう。家に帰って、ゆっくり休みなさい」
村長は優しく言った。
「湖は危険です。特に夜は」
悠真は頷いた。確かに危険だった。あのまま村長が来なければ、湖に落ちていたかもしれない。
♦︎♦︎♦︎帰路の混乱♦︎♦︎♦︎
村長に送られて家に戻る道中、悠真は混乱していた。
先ほどの体験は、夢だったのだろうか? それとも現実だったのだろうか?
三人の姿も、声も、非常にリアルだった。特に健司は、記憶の中とまったく同じだった。幻覚にしては、あまりにもはっきりしすぎている。
しかし現実的に考えれば、深夜の湖面に人影が映るはずがない。きっと疲労とストレスによる幻覚だったのだろう。
「悠真くん」
村長が口を開いた。
「最近、変わったことはありませんか?」
「変わったこと?」
「記憶の混乱とか、幻覚とか——」
村長の質問は的確だった。
「少し、記憶が曖昧になることがあります」
悠真は正直に答えた。
「やはりな」
村長は深刻な表情を見せた。
「影の世界からの干渉が始まっているようですね」
「干渉?」
「あちらの世界の住人たちが、君を取り込もうとしている」
村長の説明は恐ろしかった。
「今夜の体験も、その一環でしょう」
「じゃあ、あの三人は——」
「影でしょうね。君の記憶を利用して、親しみやすい姿で現れた」
村長の分析は論理的だった。
「気をつけなさい。次はもっと巧妙な手段で誘惑してくるかもしれません」
♦︎♦︎♦︎朝の発見♦︎♦︎♦︎
翌朝、悠真は奇妙な発見をした。
足に、湖の泥が付いていたのだ。
昨夜、湖に手を浸したことは覚えている。しかし足まで水に入れた記憶はない。
「これは何だ?」
悠真は困惑した。
泥は確実に湖のものだった。独特の匂いと質感がある。しかし、なぜ足に付いているのか分からない。
もしかすると、記憶にない間に、湖の中に入っていたのだろうか?
あるいは、夢の中で湖を歩いていたのだろうか?
どちらにしても、昨夜の体験が単純な幻覚ではなかったことを示している。何らかの形で、物理的な接触があったのだ。
悠真は足を洗いながら考えた。
夢と現実の境界が、曖昧になってきている。自分の意識も、完全にはコントロールできなくなっている。
このままでは、いつか本当に湖に引き込まれてしまうかもしれない。
♦︎♦︎♦︎昼間の不安♦︎♦︎♦︎
昼になっても、悠真の不安は続いていた。
昨夜の体験がトラウマになり、集中力が続かない。少しでも水の音が聞こえると、ドキッとしてしまう。
食事も喉を通らない。胃が縮んでいるような感覚で、何を食べても味がしない。
このままでは、精神的にも肉体的にも限界が近い。
悠真は田中村長の家を訪ねることにした。専門的なアドバイスが必要だった。
「昨夜はありがとうございました」
悠真は深々と頭を下げた。
「いえいえ。無事で何よりでした」
村長は優しく微笑んだ。
「ところで、影の世界からの干渉を防ぐ方法はあるんでしょうか?」
悠真は切実に尋ねた。
「完全に防ぐのは難しいですが、いくつか対策はあります」
村長は真剣な表情になった。
「まず、湖に近づかないこと。特に夜間は絶対に避けるべきです」
「分かりました」
「次に、疑わしい人物との接触を避けること」
村長の目が、悠真を見つめた。
「涼くんや結衣さんのことですね?」
「そうです。彼らは影である可能性が高い」
村長の判断は明確だった。
「しかし、完全に避けるのは難しいでしょう」
「そうですね。村は狭いですから」
「だからこそ、注意が必要です。彼らの誘いには、絶対に乗らないこと」
村長の警告は深刻だった。
♦︎♦︎♦︎夕方の誘惑♦︎♦︎♦︎
夕方になって、結衣がやってきた。
「悠真、体調はどう?」
いつものように明るい笑顔で尋ねる。
「まあ、普通かな」
悠真は警戒しながら答えた。
「それならよかった。実は、今夜特別な場所に案内したいの」
結衣の提案に、悠真は身構えた。
「特別な場所?」
「秘密の場所よ。涼も一緒に来るの」
結衣の誘いは魅力的だったが、村長の警告を思い出した。
「今夜はちょっと——」
「大丈夫よ。危険な場所じゃないから」
結衣は優しく説得する。
「とても美しい場所で、きっと気に入ると思うの」
その言葉は、昨夜湖面で聞いた誘いの声と似ていた。
「今度にしようか」
悠真は丁重に断った。
「そう? 残念ね」
結衣は少し寂しそうな表情を見せた。
「でも、いつでも案内するから、気が変わったら言ってね」
結衣は去って行った。しかし振り返る時の表情は、どこか不自然だった。まるで仮面を外した瞬間のような——
悠真は身震いした。
もしかすると、結衣は本当に影なのかもしれない。昨夜湖面で見た結衣と、今の結衣は、微妙に違うような気がする。
♦︎♦︎♦︎夜への恐怖♦︎♦︎♦︎
夜が近づくにつれて、悠真の不安は高まった。
昨夜のような体験が、再び起こるのではないだろうか? 今度は村長が助けに来てくれるとは限らない。
悠真は家中の戸締まりを確認した。そして、絶対に外に出ないよう自分に言い聞かせた。
しかし、果たして意志の力だけで抵抗できるだろうか?
昨夜は、まるで夢遊病のように湖に向かってしまった。自分の意志とは関係なく、体が勝手に動いていた。
今夜も同じことが起こるかもしれない。
悠真は居間の真ん中に座り、瞑想のように集中しようとした。心を空にして、余計な思考を排除する。
しかし、どうしても昨夜の記憶が蘇ってくる。
結衣の笑顔。涼の手招き。健司の懐かしい声。
そして、彼らが誘っていた「影の世界」の魅力。
悩みも苦しみもない世界。永遠に友達と一緒にいられる世界。
それは、確かに魅力的だった。
現実世界には、失業や将来への不安、孤独感や疎外感——辛いことばかりがある。
影の世界に行けば、そういった苦しみから解放されるのかもしれない。
「いけない」
悠真は首を振った。
そのような考えは危険だ。影の世界の誘惑に負けてはいけない。
しかし心の奥底では、小さな声が囁いていた。
『本当に拒否し続けるべきなのか?』
その声は、悠真自身の声でもあった。