第8章「消えた人」
♦︎♦︎♦︎朝の記憶♦︎♦︎♦︎
翌朝、悠真は奇妙な夢から目を覚ました。
夢の中で、誰かが自分の名前を呼んでいた。懐かしい声だったが、誰の声だったかは思い出せない。男性の声で、同世代のような印象だった。
「悠真、一緒に遊ぼう」
そんな言葉が夢の中で聞こえていた。
悠真は起き上がり、窓の外を見た。朝の光が村を照らしており、昨夜の神秘的な雰囲気は消えている。しかし胸の奥には、説明のつかない不安が残っていた。
時計を見ると午前七時。いつもより早い時間だったが、もう眠る気にはなれなかった。
悠真は簡単な朝食を作り、仏壇に挨拶をした。祖母の位牌を見つめていると、昨夜の夢がよみがえってきた。
あの声は、確かに聞いたことがある声だった。子供の頃、よく一緒に遊んだ友達の声だったような気がする。
「田中健司?」
突然、その名前が頭に浮かんだ。
田中健司。幼馴染の一人で、確か同じクラスだった。体が小さくて、少し内気な性格の男の子。でも優しくて、悠真とは親しい友達だった。
しかし最近、健司のことを思い出すことがなかった。昨日同級生たちと会った時も、健司の話は出なかった。なぜだろう?
悠真は記憶を辿ってみた。
小学校の時、健司とはよく一緒に遊んだ。昆虫採集をしたり、秘密基地を作ったり、湖畔で魚釣りをしたり——楽しい思い出がたくさんある。
中学校に入ってからも、時々一緒に過ごしていた。健司は勉強が得意で、悠真によく勉強を教えてくれた。
そんな親しい友達のことを、なぜ最近思い出さなかったのだろう?
♦︎♦︎♦︎存在しない家♦︎♦︎♦︎
悠真は健司の家を訪ねてみることにした。
健司の家は村の東側にあったはずだ。田中という苗字だから、田中村長の親戚かもしれない。確か古い農家で、大きな庭があったと記憶している。
悠真は記憶を頼りに歩いて行った。しかし村の東側に着いても、記憶にある健司の家が見つからない。
「おかしいな」
悠真は辺りを見回した。確かにこの辺りに健司の家があったはずなのに、全く違う家ばかりが並んでいる。
もしかすると記憶違いかもしれない。悠真は別の場所も探してみた。
しかし、どこを探しても健司の家は見つからなかった。それどころか、田中という表札の家も、田中村長の家以外には見当たらない。
「転居したのかな?」
悠真は首を傾げた。しかし村から出て行ったなら、昨日同級生たちと会った時に話題になったはずだ。
悠真は困惑しながら、村の中を歩き回った。しかし健司の家だと思われる場所には、全く別の家族が住んでいるようだった。
♦︎♦︎♦︎誰も覚えていない♦︎♦︎♦︎
悠真は田中村長の家を訪ねてみることにした。同じ田中姓なので、何か知っているかもしれない。
「おはよう、悠真くん。今日は早いんだね」
田中村長は庭の手入れをしていた。
「おはようございます。ちょっとお聞きしたいことがあって」
「何かな?」
「田中健司という人を知りませんか?」
悠真は直接的に尋ねた。
「田中健司?」
村長は首を傾げた。
「この村にそんな人がいたかな?」
「同級生だったんですが——」
「君の同級生で田中姓の人はいないと思うが」
村長の答えは意外だった。
「確かにいたんです。小学校の時、同じクラスで」
「そうか? でも記憶にないなあ」
村長は本当に知らない様子だった。
「もしかすると、別の村の人と間違えているのでは?」
悠真は困惑した。田中村長ほど村のことを知っている人が、健司のことを覚えていないはずがない。
♦︎♦︎♦︎同級生への確認♦︎♦︎♦︎
悠真は健一の家を訪ねた。
「田中健司って、覚えてる?」
悠真は単刀直入に聞いた。
「田中健司? 誰それ?」
健一は本当に知らない様子だった。
「小学校の同級生だよ。小柄で、勉強が得意な男の子」
「そんな人、いたっけ?」
健一は記憶を辿るような仕草をしたが、結局首を振った。
「覚えてないなあ。同級生なら覚えてるはずだけど」
悠真は美香の家も訪ねてみた。
「田中健司? 知らないわ」
美香も同じ反応だった。
「本当にそんな人、いたの?」
「確かにいたんだ。一緒によく遊んだし——」
「でも私、そんな人の記憶がないの。悠真くん、疲れてない?」
美香は心配そうな表情を見せた。
拓也に聞いても、同じ答えが返ってきた。誰も田中健司という人物を覚えていない。
♦︎♦︎♦︎消えた写真♦︎♦︎♦︎
悠真は家に戻り、昨日見たアルバムを再び開いてみた。
小学校の集合写真を探し、一人一人の顔を確認する。健一、美香、拓也、涼、結衣——皆の顔がある。
しかし、健司の姿はなかった。
「おかしい」
悠真は他の写真も確認してみた。運動会の写真、遠足の写真、卒業式の写真——どれを見ても、健司の姿はない。
しかし写真は自然だった。合成や加工の跡はなく、まるで最初から健司がいなかったかのように見える。ただ、よく見ると人数が微妙に少ないような気がした。
「記憶の中では確かにいたのに——」
悠真は混乱した。写真という物理的な証拠からも、健司の存在が消えている。
それでも悠真の記憶には、健司との思い出がはっきりと残っていた。一緒に遊んだこと、話をしたこと、笑ったこと——すべてがリアルな記憶として存在している。
「まさか」
悠真は恐ろしい可能性を思い浮かべた。
田中村長から聞いた話によれば、影の世界と現実世界の間で「入れ替わり」が起こることがある。そして、現実世界の人間が消えることもあるという。
もしかすると、健司に何かが起こったのではないだろうか?
♦︎♦︎♦︎灯篭の数♦︎♦︎♦︎
悠真は湖畔に向かった。
昨夜、涼の灯篭が湖の中央で止まり、最終的に沈んでしまった。そして今朝、健司の存在が皆の記憶から消えている。
この二つの出来事に関連があるのではないだろうか?
湖畔に着くと、昨夜流した灯篭の残骸が岸に打ち上げられていた。儀式が終わった後の、いつもの光景だった。
しかし悠真は、あぜ道に並ぶ石灯篭の方に注意を向けた。
「数を数えてはいけない」という禁忌があることは知っている。しかし今の状況では、確認しないわけにはいかない。
悠真は慎重に灯篭を数え始めた。
一つ、二つ、三つ——
途中で数を見失ってしまった。まるで何かが数えることを妨害しているかのように、集中力が続かない。
何度か試してみたが、正確な数を数えることはできなかった。しかし一つだけ確実に言えることがある。
昨日より確実に数が少なくなっている。
具体的に何個少ないかは分からないが、全体的な印象として、明らかに減っている。
「健司の分が——」
悠真は戦慄した。
もしも灯篭が本当に村人の魂に対応しているなら、数が減ったということは、誰かが消えたということになる。そして、その「誰か」が健司だとすれば——
♦︎♦︎♦︎涼との会話♦︎♦︎♦︎
「悠真、おはよう」
振り返ると、涼が立っていた。いつものように爽やかな笑顔を浮かべている。
「おはよう」
悠真は挨拶を返した。
「昨夜は大変だったね。僕の灯篭があんなことになるなんて」
涼は困ったような表情を見せた。
「初めてのことだから、よく分からなかったよ」
また「初めて」という言葉だった。悠真は違和感を覚えた。
「涼、田中健司って覚えてる?」
悠真は試しに聞いてみた。
「田中健司?」
涼は首を傾げた。
「そんな人、いたっけ?」
やはり涼も覚えていない。
「同級生だったんだけど——」
「僕の記憶にはないなあ。君の勘違いじゃない?」
涼の答えは、他の人たちと同じだった。
「でも確かにいたんだ。一緒によく遊んだし」
「そうか? でも僕は知らないよ」
涼は当然というような口調で答えた。
「もしかすると、別の村の友達と混同してるんじゃない?」
その可能性を提示されると、悠真も少し自信がなくなってきた。本当に健司は水凪村の住人だっただろうか?
しかし、健司と湖畔で遊んだ記憶ははっきりしている。この村でなければ、あのような思い出はできないはずだ。
♦︎♦︎♦︎結衣の反応♦︎♦︎♦︎
午後になって、結衣に会った。
「田中健司って人、知ってる?」
悠真は同じ質問をした。
「田中健司? 知らないわ」
結衣も即座に首を振った。
「そんな人、この村にいたかしら?」
「同級生だったはずなんだけど——」
「でも私、そんな人の記憶がないのよ」
結衣は申し訳なさそうな表情を見せた。
「ごめんなさい、役に立てなくて」
「いや、いいんだ」
悠真は諦めた。
もう誰に聞いても、同じ答えが返ってくるだろう。健司の存在を覚えているのは、自分だけらしい。
「悠真、最近変よ」
結衣が心配そうに言った。
「存在しない人のことを聞いたり、記憶が曖昧だったり——」
「存在しない人?」
「だって、誰も知らない人でしょ?」
結衣の指摘は的確だった。確かに、誰も覚えていない人は「存在しない人」と言えるかもしれない。
「もしかすると、疲労やストレスで記憶に混乱が起こってるのかもしれないわ」
結衣の診断は、医学的に妥当に聞こえた。
「一度、お医者さんに診てもらった方がいいんじゃない?」
♦︎♦︎♦︎孤独な確信♦︎♦︎♦︎
夜になり、悠真は一人で考え込んでいた。
誰も健司のことを覚えていない。写真からも彼の姿は消えている。物理的な証拠は何一つ残っていない。
それでも悠真の記憶には、健司との思い出がはっきりと残っている。
一緒に昆虫採集をしたこと。秘密基地を作ったこと。健司が泣いていた時、慰めたこと。中学校で健司が転んだ時、手を貸したこと——すべてがリアルな記憶だった。
「俺の記憶が間違ってるのか?」
悠真は自分に問いかけた。
もしかすると、本当に健司などという人物は存在しなかったのかもしれない。ストレスや疲労で、架空の人物の記憶を作り出してしまったのかもしれない。
しかし、それにしては記憶があまりにもリアルすぎる。
「それとも——」
悠真は別の可能性を考えた。
田中村長の話が本当で、健司が影の世界に連れて行かれたのかもしれない。そして、現実世界から彼の存在が完全に消去されたのかもしれない。
記憶を持っているのが自分だけなのは、よそ者だからかもしれない。村の集合的な記憶から切り離されているため、消去の影響を受けなかったのかもしれない。
「どちらが本当なんだ?」
悠真は頭を抱えた。
自分の記憶を信じるべきか、それとも現実の証拠を信じるべきか。
しかし一つだけ確実に言えることがある。
この村では、確実に異常なことが起こっている。
健司の消失、涼と結衣の存在、記憶の混乱、灯篭の異変——すべてが関連しているはずだ。
そして明日の夜、涼と結衣が何かを計画している。それが悠真にとって危険なことである可能性は高い。
♦︎♦︎♦︎夜中の決意♦︎♦︎♦︎
深夜、悠真は湖畔を歩いていた。
石灯篭の青白い光が、いつものように夜を照らしている。しかし昨日より確実に数が少ない。健司の分が消えているのだ。
「健司、どこにいるんだ?」
悠真は湖に向かって呟いた。
もしも健司が影の世界に連れて行かれたのなら、助ける方法はあるのだろうか? それとも、もう手遅れなのだろうか?
湖面を見つめていると、昨夜の記憶がよみがえってきた。水面の自分が先に微笑んだこと。記憶が混乱し始めたこと。
「もう一度、見てみようか?」
悠真は危険な誘惑に駆られた。
湖面を覗き込めば、何かの手がかりが得られるかもしれない。健司の行方も分かるかもしれない。
しかし同時に、更なる危険に身を晒すことにもなる。
悠真は迷った。
理性では、湖面を見るべきではないと分かっている。しかし感情では、健司を助けたいという気持ちが強い。
「明日の夜まで待とう」
悠真は決心した。
涼と結衣の計画を見極めてから、行動を起こそう。それまでは、慎重に行動すべきだ。
しかし心の奥では、既に決意が固まっていた。
健司を見捨てることはできない。たとえ危険があっても、真実を知る必要がある。
この村の秘密を、必ず解明してみせる。
悠真は湖畔を後にした。明日の夜への準備を始めるために。
そして湖の向こうから、誰かが悠真を見つめているような気配があった。しかし悠真が振り返った時には、何も見えなかった。
ただ静かな湖面があるだけだった。
でも水の奥底では、何かが蠢いているような気がしてならなかった。