第4章「灯篭の伝承」
♦︎♦︎♦︎記憶の迷宮♦︎♦︎♦︎
湖畔から帰った悠真は、祖母の家で一人考え込んでいた。
結衣との再会。涼という存在。そして村人たちの不自然なまでの統一された証言。これら全てが、悠真の記憶と現実認識を根底から揺るがしていた。
「一体、何が起こっているんだ?」
悠真は独り言を呟いた。
三つの可能性が考えられた。
一つ目は、自分の記憶が間違っているという可能性。結衣の死も、涼の不在も、すべて自分の勘違いや記憶の混乱だったという説。
二つ目は、村の人たち全員が何らかの理由で嘘をついているという可能性。しかしそれにしては、あまりにも完璧すぎる口裏合わせだった。
そして三つ目は——考えたくはないが、何か超自然的な現象が起こっているという可能性。
悠真は頭を振った。現代人として、非科学的なことを信じるのは抵抗があった。きっと合理的な説明があるはずだ。
しかし、どうしても説明のつかない事実があった。結衣の溺死については、悠真の記憶は鮮明だった。あれが夢や錯覚だったとは思えない。
「誰かに相談してみるべきかな」
悠真は村の人たちの顔を思い浮かべた。葬儀で会った人たちは皆、親切で誠実そうだった。しかし涼のことについて尋ねた時の反応を思い出すと、素直に相談できる気がしなかった。
それでも、この混乱を解決するためには、誰かの助けが必要だった。
悠真は村長の田中さんを思い浮かべた。七十代の温厚な老人で、村のことなら何でも知っているはずだ。子供の頃から悠真を知ってくれているし、相談してみる価値はあるだろう。
決心した悠真は、身支度を整えて家を出た。
♦︎♦︎♦︎村長の家♦︎♦︎♦︎
田中村長の家は、村の中心部にある立派な日本家屋だった。代々村長を務めてきた家系らしく、歴史を感じさせる建物だった。
門の前に立つと、手入れの行き届いた庭が見える。松の木や石灯篭が配置され、どことなく風格のある佇まいだった。
悠真は玄関のベルを鳴らした。
「はい」
しばらくして、田中村長本人が玄関に現れた。
「悠真くんじゃないか。どうしたんだい?」
「お忙しい中すみません。ちょっとお聞きしたいことがあって」
「そうか。上がってくれ」
田中村長は悠真を居間に案内した。古い家らしく、太い梁が見える立派な座敷だった。床の間には掛け軸が掛けられ、生け花が活けられている。
「お茶でも飲むかい?」
「お構いなく」
「いやいや、せっかく来てくれたんだから」
田中村長は奥さんに声をかけ、お茶の用意をしてもらった。悠真は正座して待った。
「それで、何の相談だい?」
田中村長が座布団に座りながら尋ねた。
「実は、記憶のことで困惑していまして」
悠真は慎重に言葉を選んだ。
「記憶?」
「はい。昔のことで、どうしても思い出せないことがあるんです」
「年を取ると、そういうこともあるもんだよ。君はまだ若いのに」
田中村長は笑った。
「白石涼さんという方がいますよね?」
悠真は単刀直入に聞いてみた。
「ああ、涼くんか。いい青年だよ」
「彼のことが、どうしても思い出せないんです」
田中村長の表情が少し曇った。
「思い出せない?」
「はい。同級生だったはずなのに、全く記憶にないんです」
田中村長はしばらく黙っていた。そして、深いため息をついた。
「悠真くん、君はこの村の伝承について、どの程度知っているかい?」
予想外の質問だった。
「伝承ですか?」
「そうだ。この水凪村には、古くから伝わる言い伝えがある」
田中村長の表情は急に真剣になった。
「お祖母さんから聞いたことはないかい?」
「少しは。湖を覗いてはいけないとか、灯篭を数えてはいけないとか」
「そうか。静さんも、やはり心配していたんだな」
田中村長は何かを思案するような表情を見せた。
「心配? 何をですか?」
「悠真くん、君の記憶の混乱は、もしかすると偶然ではないかもしれない」
その言葉に、悠真の背筋が寒くなった。
## 水凪村の成り立ち
お茶が運ばれてくると、田中村長は本格的に話を始めた。
「まずは、この村の成り立ちから話そう」
田中村長は湯呑みを手に取りながら言った。
「水凪村の歴史は古い。記録に残っているだけでも、江戸時代初期まで遡ることができる」
悠真は興味深く聞いていた。
「この村が特別なのは、狐池の存在だ。あの湖は、ただの湖ではない」
「ただの湖ではない?」
「そうだ。古くから、霊的な力を持つ場所とされてきた」
田中村長の口調は、まるで歴史を語る学者のようだった。
「江戸時代、この辺りは度重なる災害に見舞われていた。飢饉、疫病、戦乱——人々は苦しんでいた」
「それと湖が関係があるんですか?」
「ある時、村の古老が不思議な夢を見た。湖の中から美しい女性が現れて、こう告げたという。『この村を守るために、灯篭を作りなさい。一人に一つずつ、魂の灯を灯しなさい』と」
悠真は息を呑んだ。
「魂の灯?」
「そうだ。村人一人ひとりの魂に対応する灯篭を作り、湖畔に並べる。そうすれば、村に平安が訪れると告げられたんだ」
田中村長は湯呑みを置いた。
「実際にその通りにすると、災害は治まった。それ以来、この村では灯篭の伝承が続いているんだ」
「でも、それは単なる迷信では——」
「迷信かもしれない。しかし、事実として災害は減ったし、この村は何百年も平和を保ってきた」
田中村長の表情は真剣だった。
「そして、その伝承には厳しい決まりがある」
♦︎♦︎♦︎二つの禁忌♦︎♦︎♦︎
「どんな決まりですか?」
悠真は身を乗り出した。
「二つの禁忌がある」
田中村長は指を二本立てた。
「一つ目は、『灯篭の数を数えてはいけない』こと」
悠真は祖母の言葉を思い出した。
「二つ目は、『湖面に映る自分の姿を長時間見つめてはいけない』こと」
これも祖母が言っていた。
「なぜそんな決まりがあるんですか?」
「それは、湖の持つ特別な力と関係がある」
田中村長は立ち上がり、窓の外を見た。そこからは、狐池が見えた。
「あの湖は、この世界と『向こう側の世界』をつなぐ境界なんだ」
「向こう側の世界?」
「影の世界、鏡の世界、様々な呼び方がある。要するに、この現実世界と対になって存在する、もう一つの世界だ」
悠真には、その話がにわかには信じられなかった。
「湖面は巨大な鏡だ。そして鏡というものは、古来より異世界への入り口とされてきた」
田中村長は振り返った。
「灯篭の数を数えるということは、この世界に存在する魂の数を確認することになる。しかし、もし向こう側の世界から誰かがやってきていたら——」
「数が合わなくなる」
悠真は理解した。
「そうだ。そして湖面を長時間見つめるということは、向こう側の世界と接触することを意味する」
田中村長の説明は、非現実的だが論理的だった。
「接触すると、どうなるんですか?」
「入れ替わりが起こる」
田中村長の声は、ほとんど囁きに近かった。
「入れ替わり?」
「この世界の人間と、向こう側の世界の存在が、入れ替わってしまうんだ」
♦︎♦︎♦︎影の世界♦︎♦︎♦︎
田中村長は再び座り、詳しい説明を始めた。
「影の世界は、この現実世界の鏡像のような存在だ。そこには、この世界の人々に対応する『影』が住んでいる」
悠真は黙って聞いていた。
「影たちは、現実世界の人間の記憶や人格をコピーして生きている。しかし、彼らには本当の『生』はない」
「本当の生?」
「魂がないということだ。だから彼らは、常に何かが欠けている感覚を抱いている」
田中村長の話は、まるでファンタジー小説のようだった。
「そして、時として影たちは現実世界に憧れを抱く。本当の生を求めて、この世界にやってくることがある」
「それが入れ替わり?」
「そうだ。湖を通じて現実世界にやってきた影が、現実の人間と入れ替わる。そして現実の人間は、影の世界に取り残される」
悠真は背筋が寒くなった。
「でも、それは本当に起こることなんですか?」
田中村長は悠真を見つめた。
「悠真くん、君は涼くんのことを覚えていないと言ったね」
「はい」
「それから、他にも記憶にない人はいないかい?」
悠真は考えた。そして、結衣のことを思い出した。
「実は——」
悠真は結衣との再会について話そうとしたが、躊躇した。死んだはずの人に会ったなどと言えば、頭がおかしいと思われるかもしれない。
「実は?」
「いえ、何でもありません」
田中村長は悠真の表情を見つめていた。
「悠真くん、もし君が何か異常な体験をしているなら、隠さずに話してほしい」
その言葉に、悠真は勇気を出して決心した。
「実は、結衣に会ったんです」
「結衣? 水野結衣のことかい?」
「はい。今朝、湖畔で」
田中村長の表情が急に険しくなった。
「それは——いつのことだ?」
「今朝です。午前七時頃でしょうか」
田中村長は立ち上がった。
「悠真くん、君は大変なことになっているかもしれない」
♦︎♦︎♦︎過去の入れ替わり♦︎♦︎♦︎
「どういうことですか?」
悠真は不安になった。
「結衣は確かに十年前に亡くなった。あの湖で溺死したんだ」
田中村長の確認に、悠真は安堵した。自分の記憶は正しかったのだ。
「しかし、もし君が彼女に会ったとすれば——」
「彼女は影だということですか?」
「その可能性が高い」
田中村長は深刻な表情で頷いた。
「実は、この村では過去にも同様の事件が起こっている」
「同様の事件?」
「入れ替わりだ。明治時代、大正時代、昭和時代——数十年に一度の割合で、必ず起こっている」
田中村長は古い記録を取り出した。
「これは村に代々伝わる記録だ。表向きには公開していないが」
悠真は記録を見せてもらった。古い文字で書かれた文書には、確かに不可解な失踪事件や、死んだはずの人の目撃談が記録されていた。
「最後に起こったのは、昭和の終わり頃だった」
「どんな事件ですか?」
「村の若い女性が湖で溺死した。しかし数年後、彼女に会ったという証言が相次いだ」
悠真は身震いした。
「その女性は、結局どうなったんですか?」
「最終的には姿を消した。そして、彼女を目撃していた男性も行方不明になった」
田中村長の話は、悠真の状況と酷似していた。
「その男性は、入れ替わったということですか?」
「おそらくは。彼の『影』が村に残り、本人は影の世界に取り込まれたのだろう」
悠真は恐怖を感じた。もしそれが本当なら、自分も同じ運命を辿る可能性がある。
♦︎♦︎♦︎祖母の心配♦︎♦︎♦︎
「それで、おばあちゃんが心配していたんですね」
悠真は理解した。
「静さんは、この村の伝承を誰よりもよく知っていた。そして君のことを、特に心配していたんだ」
「僕のことを?」
「君は子供の頃から、湖に強い興味を示していた。静さんは、いつか君が禁忌を破るのではないかと恐れていたんだ」
田中村長は悲しそうな表情を見せた。
「だから、君が村を離れて東京に行った時、静さんはほっとしていた。『これで悠真は安全だ』と言っていたよ」
しかし、悠真は結局村に戻ってきてしまった。
「そして今、君の身に異変が起こっている」
「僕はどうすればいいんですか?」
悠真は村長に助けを求めた。
「まず、絶対にやってはいけないことがある」
田中村長は真剣な表情で言った。
「湖面を長時間見つめてはいけない。そして、結衣に心を許してはいけない」
「心を許す?」
「彼女がどれほど本物に見えても、それは影だ。本当の結衣ではない」
その言葉は、悠真の胸に痛く響いた。
「しかし、影も感情を持っている。そして、現実世界に留まりたいという強い願望を抱いている」
「それは危険なことなんですか?」
「非常に危険だ。影が現実世界に定着するためには、対応する現実の人間と完全に入れ替わる必要がある」
田中村長は悠真の目を見つめた。
「君は結衣の影の標的になっているかもしれない」
♦︎♦︎♦︎よそ者への警告♦︎♦︎♦︎
「標的?」
悠真は震え声で尋ねた。
「影が現実世界に留まるためには、強い感情的な結びつきを持つ人間が必要だ。結衣の影にとって、君はまさにその条件を満たしている」
田中村長の説明は恐ろしかった。
「それに、君はよそ者だからな」
「よそ者?」
「長い間村を離れていた人間は、村の守りから外れてしまう。そのため、影の世界からの影響を受けやすくなるんだ」
悠真は村を離れたことを後悔し始めた。
「涼くんについても同じだ。彼も影である可能性が高い」
「涼さんも?」
「君が彼を覚えていないのは、彼が現実には存在しなかったからだ。しかし、影の世界から現れて、村人たちの記憶を操作している」
田中村長の話は、SFのようでもあった。
「記憶の操作なんて、可能なんですか?」
「影には、その力がある。現実世界の人間の記憶に、自分の存在を挿入することができるんだ」
「でも、なぜ僕だけが影響を受けないんですか?」
「君がよそ者だからだ。長期間村を離れていたため、村の集合的な記憶から切り離されている」
田中村長は立ち上がった。
「だからこそ、君は特に注意しなければならない」
窓の外では、夕暮れが近づいていた。やがて、あの青白い灯篭の光が灯り始めるだろう。
「悠真くん、君に忠告しておく」
田中村長は振り返った。
「今夜は絶対に外出してはいけない。特に湖には近づくな」
「なぜですか?」
「今夜は新月だ。月の光がない夜は、影の世界との境界が最も薄くなる」
田中村長の表情は深刻だった。
「そして、もし結衣や涼に誘われても、絶対について行ってはいけない」
♦︎♦︎♦︎帰り道の決意♦︎♦︎♦︎
田中村長の家を出る時、空はすっかり暗くなっていた。
悠真は複雑な気持ちだった。村長の話が本当だとすれば、自分は非常に危険な状況にある。しかし、その話があまりにも非現実的で、簡単には信じがたかった。
それでも、これまでに起こった不可解な出来事を考えれば、何らかの超自然的な現象が起こっている可能性は否定できない。
歩きながら、悠真は今朝の結衣との会話を思い出していた。確かに彼女は結衣だった。顔も声も仕草も、すべてが記憶の中の結衣そのものだった。
しかし、もしそれが影だとすれば——
悠真は首を振った。感情的には、結衣が生きていてほしいという願いがある。しかし理性的には、田中村長の説明の方が辻褄が合っていた。
家に着く頃、村の灯篭が灯り始めていた。いつものように青白い光が、夜の闇を照らしている。
悠真はその光を見ながら思った。本当に、あの灯篭は村人の魂に対応しているのだろうか。そして、もし数が変わっているとすれば——
「数えてはいけない」
祖母の声が頭の中に響いた。
悠真は慌てて視線を逸らした。しかし、心の中には確実に疑問が残っていた。
家に入ると、悠真は戸締まりを確認した。田中村長の警告を思い出し、今夜は本当に外出しない方がいいだろう。
仏壇に線香を上げながら、悠真は祖母に語りかけた。
「おばあちゃん、僕はどうすればいいんでしょう?」
返事はない。しかし、線香の煙がゆらゆらと立ち上る様子を見ていると、祖母の存在を感じるような気がした。
その時、外から声が聞こえた。
「悠真、いる?」
結衣の声だった。
悠真は凍りついた。田中村長の警告が現実となって現れたのだ。
「悠真、お話ししない?」
声は玄関の方から聞こえてくる。
悠真は動けなかった。心では結衣に会いたいという気持ちがある。しかし理性では、彼女が危険な存在かもしれないということも理解していた。
「悠真? いないのかな?」
声は次第に遠ざかっていった。そして、やがて聞こえなくなった。
悠真は安堵のため息をついた。しかし同時に、深い孤独感にも襲われた。
この村で、一体誰を信じればいいのだろう?
窓の外では、青白い灯篭の光が静かに灯り続けていた。まるで何かを待っているかのように。