第3章「湖の底」
♦︎♦︎♦︎朝の散策♦︎♦︎♦︎
翌朝、悠真は予定より早く目を覚ました。時計を見ると午前六時。葬儀の疲れで深く眠れると思っていたが、涼のことが気になって、結局浅い眠りしかとれなかった。
窓の外を見ると、朝霧が村全体を包んでいる。幻想的な風景だった。山々の輪郭がぼんやりと見え、湖面も薄い霧に覆われている。
悠真は着替えを済ませ、仏壇に朝の挨拶をした。そして簡単な朝食を作って食べた後、散歩に出ることにした。東京に帰る前に、もう一度この村の風景を目に焼き付けておきたかった。
玄関を出ると、朝の空気は澄んでいて冷たかった。深呼吸すると、肺の奥まで清々しい気持ちになる。都会の空気とは全く違う、純粋な空気だった。
悠真は特に目的地を決めず、足の向くまま歩き始めた。しかし気がつくと、湖の方向に向かっていた。一昨日の夜、あの青白い灯篭の光を見た場所だ。
朝の村は静寂に包まれている。まだ早い時間なので、人の姿はほとんど見えない。時々、遠くで鳥の鳴き声が聞こえるくらいだ。
歩きながら、悠真は昨日の出来事を振り返っていた。涼という存在の不可解さ。自分だけが彼を覚えていないという事実。そして村人たちの、あまりにも自然すぎる反応。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。
しかし朝の光の中では、昨夜の不安も幾分和らいで感じられた。きっと単純な記憶違いなのだろう。人間の記憶は完璧ではない。特に子供時代の記憶は、時間と共に変化していくものだ。
そう自分に言い聞かせながら、悠真は湖畔に向かった。
♦︎♦︎♦︎鏡のような湖面♦︎♦︎♦︎
狐池に着くと、朝霧がまだ湖面を覆っていた。しかし次第に霧が晴れ、鏡のような静かな水面が姿を現した。
湖は想像以上に美しかった。完全に静止した水面に、周囲の山々と空が完璧に映り込んでいる。まるで巨大な鏡が地面に置かれているかのようだった。
悠真は湖畔に立ち、その美しさに見とれていた。子供の頃にも何度も見た風景のはずなのに、今朝は特別に美しく感じられる。
水は透明度が高く、浅いところでは底まで見えた。小さな魚が泳いでいるのも見える。しかし湖の中央部分は深く、底は見えない。そこだけ水の色が濃い青になっている。
「深いところは、どこまで続いているんだろう」
悠真は独り言を言った。子供の頃、この湖の深さについて聞いたことがあるような気がするが、正確には覚えていない。
湖畔には小さなベンチがいくつか置かれている。悠真はその一つに座り、静かな湖面を眺めた。
朝の光が水面に反射して、きらきらと輝いている。風はほとんどなく、水面に小さな波紋一つない。完璧な静寂だった。
この静寂の中にいると、心が落ち着いてくる。東京での慌ただしい生活、求職活動のストレス、将来への不安——そういったものが遠くに感じられた。
しかし同時に、この静寂には何か不安を誘う要素もあった。あまりにも完璧すぎる静寂。あまりにも美しすぎる湖面。まるで作り物のような——
悠真は首を振った。ネガティブなことを考えてはいけない。この美しい風景を、素直に楽しむべきだ。
♦︎♦︎♦︎懐かしいシルエット♦︎♦︎♦︎
しばらく湖を眺めていると、対岸の方に人影が見えた。
最初は霧の見間違いかと思ったが、徐々にはっきりとしてきた。女性のようだった。湖畔のベンチに座り、こちらを向いている。
距離があるので詳細は分からないが、若い女性のようだった。長い髪をしていて、白い服を着ている。
悠真は興味を覚えた。この早朝に湖畔にいるということは、村の人だろうか。それとも観光客だろうか。
女性は動かずに座り続けている。まるで湖を見つめているかのように。その姿には、どこか神秘的な雰囲気があった。
悠真は立ち上がり、その女性の方向に歩いて行くことにした。湖の周囲には遊歩道があり、一周することができる。距離はそれほどでもない。
歩きながら、悠真は女性の後ろ姿を観察していた。細い肩、長い髪、白いワンピース——どこか見覚えのあるシルエットだった。
しかし誰なのかは思い出せない。村の人だろうか。それとも——
近づくにつれて、悠真の心臓の鼓動が速くなってきた。なぜだかは分からないが、この女性に会うことが運命的な何かのような気がしていた。
女性はまだ気づいていないようだった。湖面をじっと見つめている。その横顔が見えるところまで来た時、悠真は息を呑んだ。
見覚えがある。確実に見覚えがある。
しかし——それは不可能だった。
♦︎♦︎♦︎10年前の記憶♦︎♦︎♦︎
「結衣?」
悠真は思わず声を出していた。
女性が振り返る。そして——間違いなく、水野結衣だった。
しかし、それは不可能なはずだった。
結衣は10年前、この湖で溺死したのだから。
「悠真! 久しぶり!」
結衣は満面の笑顔で手を振った。まるで昨日会ったばかりかのように自然な反応だった。
悠真は混乱した。目の前にいるのは、確実に結衣だった。顔、声、仕草——すべてが15歳の頃の結衣そのものだった。いや、正確には15歳の頃と全く変わらない結衣だった。
「え、あの、結衣? 本当に結衣なの?」
「何言ってるの、当たり前じゃない」
結衣は不思議そうな表情を浮かべた。
「でも、君は——」
悠真は言葉に詰まった。「死んだはず」とは、とても言えなかった。
「私は何?」
「いや、何でもない」
悠真は頭を振った。きっと人違いなのだろう。結衣によく似た別人なのだ。
しかし、これほど似ている人がいるだろうか。顔だけでなく、声も仕草も、すべてが結衣そのものだった。
「ねえ、隣に座らない? 久しぶりに話がしたいな」
結衣はベンチを叩いて、悠真を誘った。
悠真は戸惑いながらも、ベンチに座った。結衣の隣に座ると、懐かしい匂いがした。石鹸のような、清潔な匂い。確かに結衣の匂いだった。
「東京での生活はどう? 大変でしょ?」
結衣は屈託のない笑顔で尋ねた。
「え? 東京のことを知ってるの?」
「もちろんよ。悠真が大学を卒業して、東京で働いてるって聞いてたもの」
結衣の答えは自然だった。しかし悠真には、彼女がそのような情報をどこで得たのかが分からなかった。
「誰から聞いたの?」
「村の人たちからよ。みんな、悠真のことを心配してるのよ」
結衣は当然というような表情で答えた。
悠真は混乱を深めた。結衣が生きているということ。そして彼女が自分の現状を知っているということ。すべてが理解できなかった。
## 変わらない彼女
「そういえば、おばあちゃんの葬儀、お疲れさまでした」
結衣が話題を変えた。
「知ってたの?」
「もちろん。村の皆で参列したわよ」
「でも、君の姿は見なかったけど——」
「ちょっと用事があって、直接お別れに行けなかったの。でも気持ちはお送りしたわ」
結衣の説明は自然だったが、悠真にはどうしても納得できなかった。
「結衣、君は今どこに住んでるの?」
「え? この村よ。ずっとここにいるじゃない」
結衣は不思議そうな表情を浮かべた。
「でも——」
悠真は言いかけて止めた。「10年前に死んだはず」という言葉は、あまりにも残酷すぎる。
「悠真、どうしたの? 変よ」
結衣が心配そうに顔を覗き込んだ。その距離の近さに、悠真はドキッとした。
「いや、ちょっと混乱してて」
「葬儀で疲れてるのね。無理もないわ」
結衣は優しく微笑んだ。その笑顔は、15歳の頃と全く変わらなかった。
天真爛漫で、人懐っこい笑顔。悠真が子供の頃、一番好きだった笑顔だった。
「ねえ、覚えてる? 中学の時、よくここで話をしたこと」
結衣が湖面を指差した。
「ここで?」
「そうよ。放課後、二人でよく来たじゃない」
悠真は記憶を辿ろうとした。確かに結衣とよく遊んだ記憶はある。しかし湖畔で話をした記憶は——
「君と最後に会ったのは——」
悠真は慎重に言葉を選んだ。
「最後? 何それ、変なこと言うのね」
結衣は笑った。
「私たちは最後なんて言葉とは無縁よ。だって、ずっと友達じゃない」
その言葉が、悠真の胸に重くのしかかった。確かに、15歳まではそうだった。悠真と結衣は幼馴染で、いつも一緒にいた。しかし——
♦︎♦︎♦︎湖での事故♦︎♦︎♦︎
「結衣、10年前のこと、覚えてる?」
悠真は勇気を出して尋ねた。
「10年前? 何のこと?」
結衣は本当に分からないという表情だった。
「この湖で——」
悠真は言葉に詰まった。どう説明すればいいのか分からなかった。
「湖で何があったの?」
「事故が——」
「事故?」
結衣の表情が曇った。
「どんな事故?」
悠真は深呼吸した。そして、思い切って口を開いた。
「君が溺れた事故だよ」
結衣は一瞬、困惑したような表情を見せた。しかしすぐに笑顔に戻った。
「何それ、冗談でしょ?」
「冗談じゃない。本当に——」
「私が溺れたって? そんなの覚えてないわよ」
結衣は首を振った。
「そもそも、私は泳ぎが得意だもの。溺れるなんてありえないわ」
確かに結衣は泳ぎが得意だった。しかし事故というのは、そういう人にも起こりうるものだ。
「でも、確かに事故があったんだ。君は救急車で運ばれて——」
「悠真、本当に大丈夫?」
結衣が心配そうに悠真の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど、変なことばかり言ってるわよ」
その手の温かさに、悠真は混乱した。死んだ人の手が、こんなに温かいはずがない。
「私はここにいるじゃない。生きてるじゃない」
結衣は当然というような口調で言った。
「触って」
結衣は悠真の手を取り、自分の頬に当てた。確かに温かく、柔らかかった。生きている人間の感触だった。
「ほら、ちゃんと生きてるでしょ?」
悠真は混乱した。自分の記憶が間違っているのだろうか。結衣の事故というのは、夢か何かだったのだろうか。
しかし、あの時の記憶ははっきりしている。救急車のサイレン、病院での医師の言葉、そして葬儀——
「悠真、もしかして悪い夢でも見たの?」
結衣が優しく声をかけた。
「夢?」
「そうよ。きっと疲れてるから、変な夢を見たのよ」
結衣の説明は合理的だった。しかし悠真には、どうしても納得できなかった。
## 涼との関係
「そういえば、涼くんと会ったでしょ?」
結衣が話題を変えた。
「え? ああ、白石涼ね」
「そうそう。彼、悠真のことをすごく心配してたわよ」
「心配?」
「昨日の葬儀の後、私に言ってたの。『悠真の様子がおかしい』って」
悠真は驚いた。涼と結衣が話をしているということ。そして涼が自分のことを心配しているということ。
「君と涼は、親しいの?」
「まあ、それなりにね。同じ村だし」
結衣の答えは曖昧だった。
「どれくらい親しいの?」
「なんで? 嫉妬?」
結衣がからかうように笑った。
「そういうわけじゃないけど——」
「涼くんはいい人よ。優しいし、気が利くし」
結衣の評価は高いようだった。
「でも、私にとって一番大切な人は悠真よ」
その言葉に、悠真の胸は温かくなった。同時に、切なくもなった。
もし結衣が本当に生きているなら、これほど嬉しいことはない。しかし現実には——
「ねえ、涼くんが言ってたけど、悠真って最近、湖をよく見てるんですって?」
結衣が意味深な質問をした。
「湖を?」
「そうよ。一人で湖畔に来て、じっと水面を見つめてるって」
その話は、昨日涼からも聞いた。しかし悠真には、そのような行動をした記憶がない。
「そんなことはないと思うけど——」
「でも涼くんが見たって言ってたわよ。一昨日の夜も」
一昨日の夜。確かに悠真は湖畔を散歩した。しかし涼に見られていたとは思わなかった。
「なんで湖を見つめてたの?」
「ただ散歩してただけだよ」
「そう? でも涼くんの話だと、すごく真剣な表情で見つめてたって」
結衣の話は気になった。涼は悠真の行動を監視しているのだろうか。
「気をつけた方がいいわよ」
結衣が急に真剣な表情になった。
「何を?」
「湖を見つめすぎると——」
結衣は言いかけて止めた。
「どうするって?」
「いえ、何でもない。ただの迷信よ」
結衣は笑顔に戻った。しかしその笑顔は、どこか作り物のように見えた。
♦︎♦︎♦︎別れの時♦︎♦︎♦︎
「そろそろ帰らなくちゃ」
結衣が立ち上がった。
「どこに帰るの?」
「家よ。朝ごはんの準備があるの」
「家って、どこの?」
「村の中よ。今度案内するわ」
結衣は曖昧に答えた。
「今度って、いつ?」
「すぐよ。悠真はまだ村にいるんでしょ?」
「うん、今日帰る予定だったけど——」
「延泊したら? せっかく帰ってきたんだから、もう少しゆっくりしていけばいいじゃない」
結衣の提案は魅力的だった。
「そうしようかな」
「決まりね。じゃあ、また会いましょう」
結衣は手を振りながら歩き去った。
悠真は彼女の後ろ姿を見送った。白いワンピースが朝の光に映えて美しかった。
しかし同時に、その後ろ姿はどこか幻想的でもあった。まるで現実のものではないような——
結衣の姿が見えなくなるまで、悠真は湖畔に立っていた。
♦︎♦︎♦︎現実への疑問♦︎♦︎♦︎
一人になると、悠真は改めて考え込んだ。
結衣は確実に死んだはずだった。10年前、この湖で溺死した。悠真はその事実を、はっきりと覚えている。
救急隊が到着した時、結衣はすでに意識不明だった。病院に運ばれたが、蘇生することはなかった。医師は「脳死状態」だと告げ、数日後に息を引き取った。
悠真はその葬儀にも参列した。小さな棺の中で眠る結衣の顔を、今でもはっきりと覚えている。
しかし今朝会った結衣は、間違いなく生きていた。温かく、柔らかく、笑顔を浮かべていた。
一体、何が起こっているのだろう?
自分の記憶が間違っているのか。それとも——
悠真は湖面を見つめた。鏡のように静かな水面に、自分の顔が映っている。しかしその表情は、ひどく困惑していた。
「おはようございます」
突然、声をかけられた。
振り返ると、涼が立っていた。爽やかな笑顔を浮かべて。
「おはよう」
悠真は挨拶を返した。
「早いんですね。散歩ですか?」
「ええ、まあ」
「湖は美しいでしょう? 特に朝は」
涼は湖面を眺めながら言った。
「そうですね」
「結衣さんとお会いしたでしょう?」
涼の質問に、悠真は驚いた。
「見てたんですか?」
「ええ、偶然見かけました。久しぶりの再会でしたね」
涼の表情は相変わらず爽やかだったが、その目には何か深いものが宿っているような気がした。
「涼さん、結衣のことをどう思いますか?」
悠真は試しに聞いてみた。
「どうって、いい子ですよ。昔から」
「昔から?」
「ええ。子供の頃からよく知ってます」
涼の答えは自然だった。
「彼女って、ずっとこの村にいたんですか?」
「もちろんです。どこにも行ってませんよ」
涼は当然というような口調で答えた。
しかし悠真には、その答えが真実だとは思えなかった。結衣は確実に死んだはずなのだから。
「悠真さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
涼が心配そうに声をかけた。
「ちょっと疲れてるだけです」
「そうですか。あまり無理をしない方がいいですよ」
涼は優しく微笑んだ。しかしその笑顔の奥に、何か隠されたものがあるような気がしてならなかった。
「それでは、また後で」
涼は軽く会釈して去って行った。
一人残された悠真は、湖面を見つめた。そこには相変わらず、困惑した自分の顔が映っていた。
しかし次の瞬間、水面に映った自分が、先に微笑んだような気がした。現実の自分より先に——
悠真は慌てて湖から目を逸らした。きっと見間違いだろう。
しかし心の奥では、この村で何か異常なことが起こっているのではないかという疑念が、確実に大きくなっていた。