第六十話 英雄の背中
ひらり、ひらり。
星空をバックに、ページはゆったりと地上へ近づいていく。
少し離れた位置からそれを見つけた少女は、戦鎚を片手に駆け出した。
「わわ、森に落ちたら見失っちゃうかも!あたし取ってくるね!」
「あー……あれがブラッドナンバーってやつ……ウチも、すぐ追いかける……」
「いいよいいよ、ネオンは休んでて!」
魔力はほぼ底をついているし、サメを相手に散々暴れて体力も限界が近い。
勝利の余韻から生まれる気力だけが、アリスの足を動かしていた。
「ブラッドナンバーちゃん、おいでおいで───あ、れ?」
着地点を陣取ったはずなのに、目的の物はいっこうにアリスの手に落ちてこない。
急に風向きでも変わったかしらと頭上を見上げ、少女は呟くように問いを投げた。
「……誰?」
樹木人形の暴走によりひび割れ、隆起した地面。
倒れかけながら、なんとか根で踏ん張っている可哀そうな大木の上に、その人物は腰掛けていた。
風で流れてきた雲が、月を覆い隠している今。わずかな星明りだけでは、シルエットからして成人女性であろう、以上の情報は得られない。
「ええ~、アリスちゃんってばもう忘れちゃったのぉ~?ボク寂しいなぁ」
人影が甘ったるい声を発する。この声、どこかで聞いたような───。
背後から近づく二人分の足音が聞こえ、名を呼ばれた。シディアとネオンが追いついてきたようだ。
「あら、みなさまお揃いで~。お探しの物はこちらですかぁ?」
女は指に挟んだ紙───ブラッドナンバーをぴらぴらと左右に振る。
ネオンと肩を組み、魔力不足の身体を支え合っていたシディアが、目を見開き人影を見上げた。
「その声───まさか、ティラミスか?」
「さっすがシディアくん、せいかーい♡」
女がくすりと笑う気配がした。
言われてみれば、あの夜聞いたティラミスの声とそっくりだ。
しかし、口調も雰囲気もなんだか別人のようで釈然としない。
以前対峙した時は、何もかもが定まっていない、存在自体が不安定な印象だったのに───。
アリスの無言の視線を受け取り、シディアは同意の意味を込めて頷いた。
言わんとすることはわかる。シディアから見ても、まるで別人だ。
なにより、ティラミスは人間だったはずだ。少なくともベーヌスの港で襲われた時、シディアは直感で彼女が人間だと確信していた。
それなのに、今の彼女が纏う気配は───半妖……いや、限りなく妖精に近い。
ネオンやシリウスとは似ても似つかない、この禍々しい魔力は───なんだ?
「んー、本当は混乱に乗じて、アンヘルって男を暗殺するように言われて来たのよねぇ。町のカリスマ的存在だけど、カペル教反対派を公言してるらしくてぇ。ほら、やっぱり魔王軍としては、信者は多いに越したことはないじゃない?」
月は隠れたまま。表情どころか、どんな武器を持っているかすら定かではない。
だらだらと話しているだけのように見えて、その手に持っているブラッドナンバーを取り返す隙は全く見当たらなかった。やはりティラミスの実力は生半可なものではないと再認識する。
味方は皆ボロボロだ。今ごろ子どもたちと合流し町へ向かっているであろうシリウスも、魔力切れで大犬の姿にすらなれない状況である。なんとしても戦闘は避けねばならない。
「で、楽な仕事だと思って町長の家に単身乗り込んだらぁ。義理の弟っていうのが強すぎるのなんのって。何あれ本当に人間なのぉ?やだぁー、怖すぎぃ」
すぐにロードリックのことだと理解し、胸を撫で下ろした。
海賊団を片づけて、アンヘルの護衛に間に合ったのだ。まさかティラミスが差し向けられるとは思ってもみなかったが、これでポートシーガルの未来は守られた。
「ボクとっても怖かったからぁ、隙を突いて逃げてきちゃったぁ。あ、どうやってあのバケモノの隙を作ったか……知りたい?」
雲が流れ、月が再び顔を出す。
シルエットでしかなかったティラミスが、月明かりの下にその姿を現した。
「ボクの素顔、見せてあげちゃったぁ。あは♡」
最悪だ。
素顔を初めて見た感想としては失礼極まりないだろうが、そう思わざるを得なかった。
───ベーヌス騎士団、副騎士団長イザベル。
ティラミスと名乗る女の顔は、かの女性と瓜二つだった。
服装は騎士からかけ離れているし、唇には濃い紅が引かれているが、きりっとした眉に鼻筋の通った、あの顔はたしかにイザベル副騎士団長のものだ。
直接話したことはほぼ無いに等しいが、シディアもアリスも幾度か姿は見ている。
ロードリックも首都に滞在していた頃、騎士団の施設で顔を合わせたと言っていた。歳が近く将来有望な少年少女ということで、大人たちが引き合わせたらしい。
互いに面識があったのだ。もちろん、後に副騎士団長になったことも、ロードリックは把握している。刺客に同じ顔を見せられて、動揺しないほうが無理というものだろう。
「というわけで、このページはもらいまぁす♡んー、あとシディアくんかアリスちゃん連れていけば、怖ぁ~い上司も暗殺失敗チャラにしてくれるかなぁ~。どう思う?」
シディアたちに緊張が走った。
その空気を愉しむように、双子にねっとりと視線を這わせながら、ティラミスは機嫌良く大木から飛び降りる。
しかし次の瞬間。彼女がまさに今の今まで腰掛けていた大木は、細切れにされ崩れ落ちることとなった。刃で切り刻まれたのである。
「暗殺を謀った不届き者が、次は戦利品を横取りしたうえに、人攫いときたか。やはり似ているのは姿だけだな。イザベル殿の風上にも置けないぞ、魔王軍」
なんという安心感だろう。支え合うネオンとともに、思わず膝から崩れ落ちそうになる。
息つく暇も与えず、両手に持った二振りの剣で敵を攻め立てるロードリックが、シディアの目にはあまりにも眩しく映った。
世界が認める救世主。皆が憧れる英雄。その具現がそこにあった。
彼はとっくに足を踏み入れているのだ、勇者ダリアや聖女オリヴィアの領域に。
同じように、自分もなれるだろうか。居るだけで希望を与える、そんな存在に───。
幾度目かの斬撃を避けきれず胸の下に切り傷を負ったティラミスは、一目散に森の奥へと駆け出した。先ほどロードリックをバケモノだと揶揄していただけあって、判断が早い。
彼が人間かどうか怪しい、という点はシディアも否定できないところだが。
尋常ではない速さですぐさま追いついたロードリックが、双刀を十字に切り結ぶ。
しかし鮮血が噴き出した直後。ティラミスは血痕だけを地に残し、忽然と姿を消したのであった。
何かに吸い込まれたようにも見えた、と悔しそうに語るロードリックに、シディアも唇を噛む。
「くそ、またゲートか」
魔王軍最強の魔法使い、グウェルバート。
ティラミスの言っていた「怖い上司」とやらがグウェルバートだとすると、ティラミス逃走用のゲートが仕掛けられていたとしても何らおかしくはない。
「まさか、本当に……ティラミスが、イザベル副団長だったなんて……」
アリスの悲痛を込めた呟きが、シディアの心に重く響いた。
あの夜、ティラミスと交戦したラファエルの報告から、その可能性は既に浮上していたのだ。
いくら顔を隠していても、日ごろから交流のある人間ならばわかってしまうものである。ラファエルほどの優秀な執事ならばなおさらだ。
何らかの方法で洗脳されているか、操られているのならまだ奪還できる可能性が十分にあった。ラファエルをはじめ、皆がそこに期待していた。
だが、あれはもう人間ではない。
イザベル副騎士団長は、ティラミスと名乗るヒトではない何かに身体を乗っ取られた。そう考えざるを得ない状況だった。
首都ベーヌスに帰ったら、母ダリアや騎士団長カーマインに報告しなくては。
姉オリヴィアの顔が浮かんだ。どういう方法か知らないが、ギャビンはあらゆる情報を収集している。きっと姉の耳にも、友であるイザベルの情報は遠からず入ることだろう。
(姉さん、悲しむだろうな)
大して力の入らない拳を、ぐっと握りしめた。
ブラッドナンバーを奪われたのは痛いが、ゲートで逃げた可能性が高い以上、ティラミスを追うことはできない。
ロードリックに、まさに物理的におんぶにだっこの状態で、シディアたちは帰路についた。
海賊バルバオラもいつの間にか姿を消していたのには驚いたが、もはや騒ぐ気力すらない。
コセはまだしも、バルバオラがあの怪我でまだ動けるとは。しかしティラミスがいたくらいだ。魔王軍の誰かが遺体を回収したのかもしれない。
どちらにせよ、いるかどうかもわからない賊を探せるほど元気な者は、ここにはいなかった。
───うん、今度こそ限界だ。
剣の師の逞しい背に揺られながら、シディアは意識を手放したのであった。
第六十話 英雄の背中 <終>




