第十九話 血塗られた儀式
「オジサン。ひとつ聞いてもいいかな?答えたくなかったら答えなくていいからさ」
シディアは御者の背後、身体が触れ合わない程度の距離に腰を下ろし、少々遠慮がちに訪ねた。
急ぎベーヌスに向かってケルピー船を走らせてくれている彼に、尋ねるようなことではないのだろう。
しかしなんとなく、次に船を降りたらしばらく会えないような、そんな気がした。
「坊ちゃんは知りたがりだねェ。“知る”ことに貪欲なのはいいことでさァ。オジサンで良ければ、なんでも答えますぜ」
「……何の罪を、犯したの?」
ぴくり。御者の肩が僅かに跳ねる。
シディアと御者の間だけ、時が止まったかのようだった。波の音も、ケルピーが海面を蹴る音も、変わらず耳に届いているのに。
ストレートすぎたかな、と思うも、回りくどい聞き方をしたところで、という気持ちもある。
答えてもらえずとも仕方ない、と口を開こうとしたシディアだったが、先に沈黙を破ったのは御者のほうだった。彼の左手首、銅色の腕輪が鈍い光を放つ。
「人を───」
御者は身体を少し捻り、背後にいるシディアに横顔を見せた。もっとも、相変わらず帽子を目深にかぶっているので、半分は隠れているのだが。
「実の娘を、殺したんでさァ」
今度はシディアの肩が跳ねる番だった。
純粋な好奇心でもあった。飄々とした、なおかつ好々爺オーラを振りまく───といっても年齢は四十代か五十代あたりだろうが───この男が、いったい何をしでかして罪人扱いされているのか、気になって仕方がなかったのである。
しかし、それ以上に、彼が犯した罪ならもっとずっと軽いものなのではないか、と期待していた自分もいた。
この数日間で何ともいえない親しみを覚えた彼が、そんな凶悪なわけがないと、シディアは確かめたかったのだ。
「さすがに重すぎやしたね、どうか忘れてくだせェ」
明るくそう言った男の顔は、やはりほとんど隠れて見えないけれど。
シディアの目には、なんとも寂しげに映ったのであった。
*****
判断を誤った。
イザベルがそう気づいた頃には、もう手遅れだった。
グウェルバートが祭壇に魔力を送り、ジュダスが本を片手に呪文のような言葉を紡ぎ始めると、にわかに祭壇下の床が黒い光を放つ。
(あれは……魔法陣!)
直接お目にかかるのは初めてだが、魔法書で見たことがある。
今や失われた魔法、または禁忌とされる魔法を行使する際に用いられるものだ。
現代の人間が扱おうとすれば、魔力が尽きて命を落としかねない代物だが、半妖の魔力量を持ってすれば造作もないということか。
魔法陣から祭壇へ、怪しげな魔力が流れ込んでいるのを感じる。
イザベルは魔力の流れを見るのに長けた瞳は持ち合わせていないが、それでも容易にわかるほどの魔力量だ。
「くそ……っ。眺めている場合じゃない」
結局、奴らが何を成すためにこの儀式を行っているのかはわからないままだ。
それでも今は、頭の奥で叫ぶ本能に従うべきだと思った。一刻も早く止めなければ、きっと取り返しのつかないことになる。
逸る心を静め、息を吸う。四肢に力を集中させ、床と手足を繋ぐ鎖を一気に引きちぎった。
千切れた鎖が周囲の木箱にぶつかり、いくつかの穴を空ける。
騎士団長カーマイン直伝のパワープレイ脱獄術が、まさか本当に役に立つとは。
かなりの体力を持っていかれたが、ローガンを抱えて走るくらいの力は辛うじて残っている。そのまま祭壇に突進する───はず、だったのだが。
(なん、だ……?力が入らな……)
やはり魔力を帯びた鎖を四本も引きちぎって、何も起こらないはずもなく。
瞬時に麻痺毒を疑ったが、どうやら違う。神経がやられている感覚はない。
ただ、全身が異常なまでに重たいのだ。
立っていられなくなり、傍らの木箱にもたれた。そのままズルズルとずり落ちるように床に伏す。
気力を振り絞り、なんとか視線だけは祭壇をとらえているものの、まともに動ける状態ではなかった。
ぐらぐらと揺れる視界の中で、儀式は続いている。
古代の記号や文字が複雑に絡み合い、祭壇を囲むように円形に描かれた魔法陣は、ジュダスがぶつぶつと唱え続ける呪文に応えるように輝きを増していく。
「ローガン……今、助けるから……」
もはや自らが発する言葉すら、夢うつつであった。
鉛のような身体を引き摺り、イザベルは床を這い進む。
魔法陣から広がった光が、祭壇に収束する。
祭壇が黒い光の壁に囲まれた、その時だった。
部屋のあちこちで木箱がガタガタと激しく揺れ、ひとりでに蓋が開いた。
赤黒い液体が木箱から溢れ出し、吸い寄せられるようにまっすぐ祭壇へと流れていく。
むせ返るような、血の臭い。
他の木箱に比べわずかに大きいその木箱たちの中身を、床に這いつくばっているイザベルが目にすることはできない。
だが直感でわかることがあった。
部屋に満ちるこの臭いは、獣のそれでも、魔物のそれでもない。
───人間の、血の臭いだ。
ジュダスは島の流通を取り仕切る立場にあった。
通常の物資に紛れて、死体入りの木箱を運び込んだのだろうか。
(こんなに大量に、いったいどこから?)
(窓がひとつも無かったのも納得だ。推測が正しければ、ここは地下なのだから)
(ああ、まず今は、ローガンを助けないと)
思考が安定しない。視界が揺れる。身体は思うように動かない。
イザベルにとって地獄のような時間が流れる中、祭壇に注がれた大量の血液は繭のごとくローガンの身体を包み隠した。
「おお……この気配……この魔力は!」
グウェルバートが歓喜の声をあげる。
ローガンの身体を覆っていた血の繭が、瞬く間に小さくなり消えていく。ローガンの身体に吸収されているように、イザベルの目には映った。
「な、なぜここにいる!?まあいい。お前も喜べ、儀式は成功だ!」
床を這い進むイザベルにようやく気付いたらしいジュダスが、興奮気味に言葉と唾を飛ばす。
「あの鎖に体力と魔力を吸われてまだ動けるとは、バケモノじみた精神力だ。副騎士団長の肩書きは伊達ではないらしい」
グウェルバートの言葉にも反応せず、男たちを無視してイザベルは必死で這い進む。
もはや、進む意味はないのかもしれない。とっくに手遅れなのだと、もう詰んでいるのだと、頭の奥で誰かが叫んでいる。それでも───諦めることだけはしたくない。
ついに祭壇まで辿り着いたイザベルは顔を上げ、弱々しく手を伸ばした。
彼女の瞳に映ったのは、祭壇に腰掛ける弟の姿。
組んだ脚に頬杖をつき落ち着き払ったようすのローガンは、普段の彼よりも随分と大人びて見えた。
「ローガン……?」
「ああ、ローガンとはこの器の名だな。……ふむ。貴様はその姉か」
絶望、とは。こういうことを言うのだろうとイザベルは思った。
弟の輝きに溢れた美しい瞳が片方、闇に呑まれてしまう瞬間を、姉は見たのである。
宝石のような金色の左目と、漆黒の闇を湛えた右目が、イザベルを見下ろす。
「ローガンじゃ、ない……お前は……誰だ……?」
「世か?ふーむ、世に名は無いのだが。うむ、しょうがない。そんなに知りたいのなら特別に名乗ってやろう。ありがたく聞くが良い」
ローガンの姿をした何かは、脚を組みなおしニヤリと笑った。
黒い光が孔雀のように、彼の背後に大きく羽を広げる。祭壇と合わさったそれは、さながら黒き玉座のようであった。
「世は、この世界の覇者。全てを手にする存在。あまねくモノの頂点に君臨する支配者である。お前たち人間はこう呼んでいるのだろう?───魔王、と」
第十九話 血塗られた儀式 <終>




