第十七話 The Worst Day Ever
ケルピー船が出航したのは、バーゼルの家からほど近い、小さな港だった。
島民ですら滅多に利用しない港らしく、人気がなく寂れている。到着時に利用した中央の港とは大違いだ。
具体的に何と言ったのかは聞こえなかったが、バーゼルから御者に「急ぎだ」ということは伝わったようだった。
「緊急時しか使わない、最速ルートがありやす。上手くいけば日没までにはベーヌスの港に着けまさァ。ただし、かなり揺れやすぜ!放り出されたら終了だ、しっかり掴まっててくだせェ!」
御者の言葉に、シディアは慌てて手すりを掴んだ。荷物を足の間に挟んで固定する。
向かい側でアリスはトランクを抱き抱えた。
三日月島が遠く見えなくなり、四方が海に囲まれた頃。
シディアは暇を持て余し、好奇心でうずうずしていた。
緊急事態だということだけは、わかる。
しかし具体的に何がそんなに緊急なのか、薬はどんな効能があるのか、そもそも誰のための薬なのか。何もわからないままだ。そして───。
「ブラッドナンバー、ねぇ」
たしかに血文字のようなページ番号は、異様な雰囲気を醸し出していた。
しかし、それだけだ。他は何の変哲もない、ただの古い本のいちページだというのに。
シディアは小箱を取り出し、しげしげと眺めた。
船の揺れが落ち着いているのを確認し、小箱の蓋に手をかける。
その手に、アリスの手が重なった。蓋を開けさせまいとしているのだ。
「えっと、わかんないけど……よくない物だって、気がする」
淡い紫の瞳に浮かぶ不安の色に、シディアはふぅ、と息を吐いた。
「そっか。アリスが言うなら、そうなんだろうな」
改めて小箱を見た、その時だった。またしても「見えた」のは。
血のように赤い、燃え盛る宝石のような魔力炉。
ケルベロス化したガーディアンの首にあった、三つのそれにとてもよく似ている。
ガーディアンがおかしくなったのは、このブラッドナンバーが原因なのだろうか。
いや、それ以上に───。シディアのこめかみを、嫌な汗が流れた。
これは本のページだ。例えそうではなかったとしても、古い紙切れにすぎない。
それが魔力炉を有しているという事実に、悪寒が止まらなかった。
(物だ。生き物じゃないんだぞ?物に魔力炉があるなんて……)
ブラッドナンバー───このページそのものが、生きているとでもいうのか。それこそあり得ないことだ。
シディアは小箱から目を逸らし、ポケットの奥に仕舞い込んだのだった。
*****
その日、ダリアは朝から気分が優れなかった。
逃れようのない倦怠感に襲われながらの執務は、周囲に超人扱いされるダリアでも簡単なことではない。
バーゼル作の、セフィドの薬を摂取してから、もうすぐ一年が経つ。
薬の効力が切れてきているのだろうが、少なくとも昨年までは「摂取から一年以上経った場合」にのみ、症状が現れていた。片手で数える程度ではあるが、何度か倒れてしまったのはその時だ。
書類からふと顔をあげると、視界の端に夫ジョセフの姿が映った。
ダリアにとっては鈍器にしか見えない分厚さの、小難しそうな本を読みながら、何やら懸命にメモを取っている。
普段のジョセフの仕事場は研究室だが、今日は執務室で過ごすと言って聞かなかった。どうやらダリアの顔色は相当酷いことになっているらしい。
休んでいていいんじゃないかとも諭されたが、気づいた者は心配するだろうし、変に噂が広まっても面倒だ。
ぼちぼち帰宅するであろうシディアとアリスを出迎えるのがベッドの上、という事態も避けたいところである。
まぁ、なんとかなるだろう。なんとかしよう。これまでもそうしてきたのだから。
ふーっと長く息を吐き、眉間を指で押さえたダリアの耳にノックの音が届いた。
───コンコンコン!コンコンコンコン!
素早く、いやに焦ったような叩き方である。ジョセフも手を止めドアのほうを見ている。胸の奥がざわめくのを感じた。
入室許可を告げると、ドアの隙間からメイドが青ざめた顔を出した。使用人の中で一番若い少女である。
「失礼いたしますダリア様、その、いま、騎士団の方がいらして……」
言い終わる前に、少女を押しのけんばかりの勢いで、鎧を纏った騎士が転がり込んで来た。
なるほどメイドが動揺するわけだ、とダリアは気を引き締めた。
騎士の鎧は泥と血に塗れていたのである。
「ダリア様!緊急事態です!それが……ッ!う……ゲホッ……も、申し訳……」
「良い。落ち着いて話せ」
咳き込む騎士を見て、メイドの少女は慌てて厨房へと走っていった。飲み水を取りに行ったのだろう。ベテランメイドたちが気を利かせて、湯やタオルなども持たせてくれると良いのだが。
ダリアは椅子から立ち上がり、騎士に近づいた。騎士は息を切らしながら、緊張の面持ちで言葉をつなぐ。
「わ、私は、イザベル隊の者です」
「副騎士団長イザベルの直属部隊だな。それで?何があった?」
「ケルピー船で海上の見回りをしていたところ、カ、魔王軍と思われる者の襲撃に遭い……イ……イザベル隊長が……ガハッ」
吐血。よく見ると鎧は汚れているだけでなく、損傷も激しい。焦げたような跡もある。
手で肩を支えてやると、騎士はダリアの目を真っ直ぐに見て、絞り出すように言った。
「イザベル副騎士団長が、攫われました……!」
それは衝撃の報告だった。
副騎士団長のイザベルといえば、剣はもちろん、銃や鞭などあらゆる武器の扱いに長けた物理攻撃のエキスパートとして知られる優秀な女騎士だ。さらに諜報任務も得意としている器用な人物である。
パワーや経験値はともかくとして、純粋な戦闘技術だけなら騎士団長カーマインにもひけを取らない。次期騎士団長にふさわしい!と若くして島民や騎士たちの人望を一身に集めている、島内の有名人でもある。
そしてダリアとジョセフにとっては、長女オリヴィアの友人としてもよくよく知るところであった。
誇り高いイザベルが、そう簡単に敵に屈するとはとても思えない。攫われたとなると、彼女を戦闘不能に陥らせるほどの強敵が現れたということになる。由々しき事態だ。
メイドの少女が、ベテランの使用人を数人連れ戻ってきた。ジョセフが呼んだらしい医者も駆け付けてきて、執務室の人口密度が一気に上がる。
床にタオルを敷きその場で処置を受けさせながら、ダリアは脳をフル回転させていた。
「そのままでいいから詳細を聞かせてくれ。イザベル以外の被害状況と、相手の規模は?」
「岸から離れた位置での戦闘だったため、陸への被害はありません。イザベル隊はほぼ壊滅状態です。残った全員でなんとか港へ辿り着きましたが、ここまで報告に走れそうだったのが私くらいでして……」
この時点でダリアはなにか違和感を感じたが、ひとまず港に治療できる者を向かわせるよう指示し、騎士に続きを促す。
「相手は……半妖と思しき男がひとりです。私は何が何やらわからないまま攻撃を受けたかたちでしたが、周囲の会話から状況を知りました。男は魔法を使っていたようです」
「半妖の、魔法を使う男……」
真っ先に浮かんだのは、良く知る人物の顔だった。しかし、彼は───。
まずは騎士団全体に連絡を、と使用人たちを走らせるダリアにまたしても報告が入ったのは、それからすぐのことだった。
ベーヌス島の南側───首都ベーヌスから見ると山を越えた森の中に、魔物の群れが突然現れたというのだ。結界の内側にどうやって入り込んだのかは知らないが、首都を目指し進行中と思われる。
報告と同時に指示を仰がれ、ダリアはようやく違和感の正体に気づいた。
「なぜ皆、今日に限って直接島主家に報告に来る?カーマインは───お前たちの上司である騎士団長はどうした?」
各持ち場から急ぎ報告に来た騎士たちは顔を見合わせ、口々に言った。
「団長は隣国での任務のため、今朝出立されました……だ、だよな?」
「はい。西の島に向かわれたと聞いています」
「ダリア様の命だと仰っていましたが……?」
まったくもって、身に覚えのない話だった。寝耳に水とはまさにこのことだ。
そうこうしているうちに、ダリアにとって最悪の報せが更に舞い込むことになる。
「ダリア様!大変です、ご息女が……オリヴィア様が!」
第十七話 The Worst Day Ever <終>




