第十四話 雷神
アリスは特殊な力を持っている。
抑制している理性のタガを外した時に限り、あれは解放されるのである。
……というのが父ジョセフの仮説だが、アリス本人も同意見だと言っていた。あとは本人の感覚に任せるしかない。
ゆらり。
アリスは戦鎚を杖代わりに立ち上がった。
普段は人並み程度の魔力が、何倍にも膨れ上がっていく。
彼女の纏う空気は、いつもの無邪気な少女ではなく。戦士のそれとも違っている。
猛る獅子の間合いに足を踏み入れてしまったような感覚に、冷や汗が出る。重力に押さえつけられている状況でなければ、盛大に身震いしていただろうとシディアは思った。
───そして、数秒と待たずしてあれは降臨した。
ガーディアンの三つの頭が、揃って警戒の表情を見せ、アリスに向き直る。
立ち上がるのも一苦労だったはずのアリスが、扉の前から一瞬で姿を消したのはその直後だった。
シディアの目には消えたようにしか見えなかったが、次の瞬間、狼の苦痛の叫びが周囲に響き渡った。
アリスの戦鎚が、ガーディアンの腹に真下からめり込んでいるのが見える。戦鎚全体が腹の毛に埋まらんばかりの勢いだ。
一度着地したかと思うと、目にも留まらぬ速さで二撃目、三撃目……と叩き込んでいく。
いつの間にか、重力場は消えていた。
ガーディアンは今、それどころではないダメージを負っているということだろう。
自由になった身体を起こすことも、折れた肩や腕の痛みすら忘れ、シディアはごくりと唾を飲み込んだ。
───雷神。
魔法書のみならず、ありとあらゆる本を読み漁って、シディアがあれにつけた名だ。
全身を覆う桃色の魔力に、稲妻のごときスピード。
そして何より、あまりにも冷徹で無慈悲な戦闘スタイル。
あれはアリスであってアリスではない、とシディアは思う。
別の存在が妹の身体に宿っているのでは、という仮説までは立てたが、なにせまともに目にするのはまだ二回目だ。考察するためのデータなど、ほぼ無いに等しい。
物心がついたばかりの頃。
島主家の使用人で、子連れで出勤している者がいた。ダリアがそれを歓迎していたからだ。
子どもは二人姉弟。双子より少し歳上の少女と、双子と同い歳の少年だった。
島主家の中庭で、四人はよく遊んだ。
シディアは基本、ひとり木陰で本を読んでいたけれど。駆け回る三人の楽しそうな声が聞こえてくる、その穏やかな時間が好きだった。
しかしある日、事件は起こってしまった。
きっかけは些細なことだったように思う。
少年とアリスの喧嘩は決して珍しいことではなかったが、この日は取っ組み合いまで発展してしまった。
馬乗りになった少年を止めるべく、少女が近づいたその時。アリスの様子が明らかにおかしくなったのだ。
少年が宙を舞う様子を、シディアは今でも鮮烈に記憶している。
地面に叩きつけられた少年を心配し、慌てて立ち上がったシディアの目に飛び込んできたのは、アリスが少女を組み敷き、首を締めあげている光景だった。
何が何だかわからなかった。今思えば、すぐ大人に助けを求めるべきだったのだろう。
中庭には窓がいくつも面しているし、さらにこの日は休日だった。叫べばすぐに誰か来てくれたはずだ。
いくら雷神が強いといっても、実際に動いているのは幼児期のアリスの肉体である。
勇者である母ダリアや、当時から天才少女騎士として持て囃されていた姉オリヴィアに、武力で勝てるはずもない。
しかし幼いシディアに、その判断はできなかった。
アリスを止めなくちゃ。早く止めなくちゃ。そんな考えが頭を支配していたのである。
苦しそうにジタバタともがく少女の首を、アリスは真顔でさらに締め上げようとしている。
シディアが駆け寄っても、アリスは一瞥もくれず、手を緩めようともしない。
「やめろ!やめろよアリス!し……死んじゃったらどうするんだよ!」
必死だった。無我夢中で、アリスに抱き着いた。
未だに理論などわからないが、それでも、感覚はハッキリと覚えている。
アリスの中の何かをシディアの魔力が掴んだのだ。
よくわからないまま手応えだけを感じ、あとはひたすら祈るように心の中で叫び続けた。
止まれ、止まれ、止まれ。
こんなのアリスじゃない。アリスを返せ!もとのアリスに戻してよ!
その後のことは、よく覚えていない。
わかっているのは、たまたま通りかかった姉オリヴィアが異常事態を察知し、倒れていた全員を介抱しつつ、大人を呼んでくれたこと。
幼い姉弟は、オリヴィアの介抱により一命を取り留めたこと。
彼らの母である使用人は、ダリアからの謝罪を受け入れ、幼いアリスの罪は問わないとしたこと。
オリヴィアの咄嗟の機転により、限られた人間にしか事件を知らせずに済んだこと。
未だにトップシークレットとして扱われているこの出来事は、父ジョセフの研究メモ以外には、どこにも記録されていないこと。
そして───姉弟の怯えた視線が、アリスの心に深く深く、消えない傷を残したこと。
アリスの中に、あの日の記憶はぼんやりとしかないらしい。
自分だけど自分じゃなくて、制御できなかったことだけは覚えているのだとか。
彼らを傷つけてしまったことを、アリスはずっと悔やんできた。自身をコントロールできなくなるのを恐れ、力を秘めてきた。
もう、あんな怯えた目は見たくないのだと。あれを使わずに、強くなってみせるのだと。
ある意味、アリスの鍛錬のモチベーションは、あの事件から生まれたと言えるのかもしれない。
それでも、あんな事件起こらないほうが良かったに決まっている。
だから片っ端から調べに調べた。父の研究者としての意見も聞きつつ、自分なりの考察も重ねた。
全ては、雷神を降臨させたくない、その一心で。
妹に二度とあんな思いをさせないために。
「それなのに。使わせたくなかったのに……っ」
悔しい。シディアは右の拳を握り、唇を噛んだ。
涙でうっすらと滲む視界の中で、戦闘は続く。
雷神はガーディアンの顔の前まで飛び上がると、桃色の戦鎚を片手でくるりと回した。
瞬時に戦鎚が、鋭い刃を携えた戦斧へと変形する。支配人が付与してくれた効果だ。
そして桃色の戦斧を両手で持ち直し、真横に大きく一閃。
六つの赤い瞳から同時に鮮血が噴き出し、ガーディアンはたまらず悲鳴に近い叫びをあげる。
「まだ倒れないか。頑丈な犬だ」
アリスの口で、アリスの声で、雷神が呟いた。
その血の通わない冷たさが、シディアの背筋をぞわりと撫でるように這う。
「く……首の後ろがおそらく弱点だ。三つの頭にそれぞれひとつずつ魔力炉がある」
気圧されながらも、なんとか声を絞り出した。
雷神が、初めてシディアを見る。表情ひとつ変えず「そうか」と呟くと、おもむろに壁に向かって歩き出した。
苦しみながらも倒れまいとする狼の血飛沫が雨のように降る中を、気怠そうにゆっくりと。
歩いた先には、鉄製の巨大な斧。ガーディアンが巨大化する前に、自ら投げ捨てた戦斧だ。靴先でちょいと突いて宙に浮かせると、あっという間に雷神の手に収まった。
右手には桃色の戦斧。左手にはガーディアンの戦斧。
両手の戦斧に自らの魔力を帯びさせた雷神は、予備動作も見せず飛び上がった。
雷属性と思われる魔力がバチバチと音を立てる。
「───閃光」
静かで冷たい声だった。
稲妻のごとき速さで、巨大狼の三つの首を同時に切り落としたその姿は、勇ましくも恐ろしく。
血の雨の中で佇む背中は───まさしく、神であった。
第十四話 雷神 <終>




