3(水曜日 午前二時三分)
くそっ! 何でこんな事になった?
生田銅次郎は悪態を吐きながら、真っ暗な廊下を闇雲に走りまわる。
くそっ! どうしてだ? ついさっきまではいい感じだった。まさか、向こうから迫って来てくれるとは思わなかったが、そこはそれ、今回の異常事態が引き起こしたラッキー程度にしか考えなかった。
「しかし、あれは一体……」
廊下を逃げるのだが体が思うように動かない。蜜の中を進んでいるかのように、ねっとりとした空気が体を覆っているようにも感じる。
「くそっ!」
音がする。
音が聞こえてくる。
人の神経を逆撫でするような腹立たしい音が。
「どういうつもりだ?」
頭が霞んでうまく物を考えられない。思考に霧がかかっている。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。あの音から離れなければならない。逃げなけれなならないということだ。
素早く足を出そうとしたが、もつれて派手に転倒してしまう。
「ぐっ」
ただでさえ朦朧としていた意識が倒れ込んだ衝撃でさらに危うくなる。
ついさっきの幸福感がよみがえってくる。同時にひどく不愉快な恐怖も頭をもたげた。
夜中に突然叩き起こされた時は不機嫌になったものだが、部屋の外に立っている彼女を見た瞬間そんなイライラはきれいさっぱり吹き飛んだ。
モノにしようと狙っていた、もとい妄想していた彼女が目の前に立っている。夢を見ているのかと思ったものだ。
「生田先生……少々お話が……」
「こ、こんな時間に……?」
生田は内心の動揺と歓喜と期待を悟られないようにしっかりとしゃべった。少なくとも彼の主観では。
「……ええ。申し訳ありません」
彼女は上の空でお礼を言った。
「廊下ではなんだから、こっちに」
さり気ない仕草――彼の主観においてのみ――で廊下に立つ女性の肩を抱く。
もしかすると拒絶されるのではないか、と危惧していただけに彼女がすんなりと誘いに乗り、促がされるまま自分の部屋に入ってきたことは彼にとって僥倖だった。
生田は興奮していて気がつかなかったが、彼に肩を抱かれている女性はひどく虚ろな表情をしていた。まるで、人形のような。
「それで……どういう話を?」
女性に椅子を勧めながら生田は問う。彼女は勧められるままに椅子に腰掛けたが、口を開かずに黙ったままだった。
落ち着け、今はまだ我慢しなければ……。下手をうって、これ程のチャンスを逃すわけにはいかない。ここを逃せば彼女をモノにする機会は永遠に失われてしまう。
生田は自分に言い聞かせる。傍から見れば魂胆見え見えの滑稽な努力だったが、彼自身はいたって真剣だった。
彼女は話があるとは言ったものの、何も語らずにだんまりを決め込んでいる。生田もそれに合わせて沈黙を保った。
本心では今すぐ彼女に飛びかかって押し倒してしまいたいが、まだ何があるかわからないという恐れ、本能に身を任せると身の破滅を招くのではないか、という恐怖が彼の頭の片隅にあった。
しばらく、生田の忍耐力が試される時間が続いた。辛抱強く我慢を重ねたがもう限界だ、と生田が行動を起こそうとしたとき、急に彼女が立ち上がり、彼の腰かけていたベッドの隣に腰かけてきた。
あまりに突然の出来事に言葉を失って硬直する。さっきまであれこれ妄想していたが、展開が急すぎて現実についていけない。
「お、おい……」
そこで彼女が生田の体に腕を回した。
生田の頭の中が真っ白になり、理性が弾け飛ぶ。
なりふり構わず彼女を抱きかかえて、覆いかぶさる。
彼女の顔を至近距離から見つめる。彼は興奮のあまり過呼吸かと思うような激しい息遣いで彼女にむしゃぶりつく。
「ハァハァ……」
これからが本番、彼が起きあがって服に手をかけた瞬間、生田の耳に不快な音が響いた。
なんだ? これからだって時に、一体何だというんだ?
生田は彼女に跨ったまま、辺りを見まわす。
何の前触れもなく首筋にチクリとした痛みが走った。
「つっ!」
思わず首を押さえる。痛みは訪れた時と同じように急速に引いていった。
「何だったんだ……」
白けた気分でなんとなしに、首にやった手を見た。
「っ!」
目の前にかざした手はヌラヌラと赤く光っていた。
驚きのあまり興奮が吹き飛んだ。驚愕に顔を歪める彼の手首を、下敷きになったままの彼女が掴む。生田の手首に指が食い込む程に力強く。
「痛っ! 放せ!」
乱暴に腕を振り払おうとしたが、食い込んだ彼女の指は離れなかった。
「おいっ!」
彼女を見下ろすとニマニマと嫌らしく笑っている。生田は気が付いていなかったが、さっきまでの虚ろな表情からは想像も出来ないほど、それを言うなら普段の彼女からは想像出来ないほどに邪悪な笑みだった。生田はひっと息を飲んだ。
男の――それも生徒たちにゴリラとあだ名をつけられるほどにガタイのいい――生田が全力で振り払いにかかる。しかし、彼女の指は微動だにしなかった。
遅まきながら、異常な事態だと気づいた彼が必死で暴れ始める。
「放せと――」
ポキッ。
軽い、ごくごく軽い音がした。瞬きするほどに時間のあと、手首に火のついたような痛みが生田を襲った。
「ぐあっ!」
頭の奥で火花が散った。痛みと手を離さない恐怖感から思わず彼女の顔面を殴りつける。何度も何度も、回を重ねるごとに力を込めて。
それでも彼女は嫌な笑みを崩さない。頬を赤く腫らし、鼻血を流しながらもニマニマと笑い続ける。
生田は彼女の指を力づくで剥がしていく。
やっとの思いで拘束を解いて、ベッドから転げ落ちるようにして彼女から距離を取る。
「何だってんだ……」
ベッドの上で倒れていた彼女は操り人形のように不気味に起き上がった。例の笑みを浮かべたまま。
「ハッハッ!」
何が何だか、状況のわからない彼の耳に不愉快な音が聞こえてくる。彼女を振り払うのに必死で聞こえていなかっただけかもしれない。
もしかすると幻聴か? さっきから頭がうまく働かない気がするのだ。理由はわからないがフラフラもしている。血を見た所為か?
朦朧とする頭を振りながら意識をはっきりさせようとする生田にベッドの上の彼女が声をかける。
「ま、待って下さいよ……生田せんせぇ……どうしたんですかぁ?」
彼女が赤く腫れあがった顔で笑う。
生田は彼女の笑みから、不快な音から逃げるように部屋を飛び出た。
暗い廊下で倒れ込んだまま、ぼんやりとついさっきあったことを回想する。
今になっても何がどうなったのか、さっぱりわからない。
頭は晴れるどころか、さらに靄がかかったようにぼんやりとしている。
さっき出血していた首がムズムズする。
廊下に伏したまま、生田は呟く。
「……寒い」
静かな廊下の暗がりから、あの音が聞こえてきた。
「に、逃げなければ……」
もうなぜ、あの音から逃げなければならないのかもわからない。
しかし、彼の体は正体不明の恐怖に突き動かされ、ろくに動かない体を引きずって立ち上がる。壁に手を付き、足を引きずってゆっくりと逃げる。
「はぁ……はぁ……」
彼は手頃な部屋の中に倒れ込んだ。鍵がかかっていない、無人の部屋だ。扉に寄りかかりながら震える手で部屋の鍵をかけた。霞みつつある眼で窓の鍵を確認する。暗くてわかりにくいが彼の眼には閉まっているように見えた。
ほぅ……と安堵のため息をついた。
これであの音から逃れることができた。もうあの音に怯える必要はない。俺はこれで安全だ。しかし、彼女のことは惜しかった。いや、よかったのか?
霧のかかった頭に脈絡のない思考が流れていく。
聞こえた。
音が。
あの音が。
人の神経を逆撫でするあの音が。
「く……そ……」
彼は悪態をついたが、その声はあまりに小さく彼の耳に届いたかすら怪しかった。
音は生田の隠れている部屋の前で一旦止まり、すぐにまた聞こえ始めた。
はっ! 無駄だ。鍵はしっかりかかっている。誰もここには入ってくることなど、できはしない。
音が大きくなった。
な、なぜだ? 鍵は外されていなし、扉は開いてもいないぞ?
生田は恐慌をきたし、這うように扉から距離を取ろうとした。
迫ってくる音から逃げる。それだけを願って生田は手足を動かした。それでも音は急速に近づいてくる。
「や、やめろ、どこかに、行け……。俺に近づくな」
音が止んだ。
やったぞ。俺はあの音から逃げきったのだ! もう音は聞こえない! 俺は逃げきったんだ! ざまぁみろ!
生田は気がついていないが、彼はすでに一歩も、一メートルすら動いていない。生田は壁にもたれかかったまま、同じ場所で手足を震わせていただけだった。
俺は勝った。奴らに勝ったんだ!
恍惚とした表情で自分の体を見下ろした生田の顔が凍りつく。
〝音″と目が合った。
音と目を合わせたまま、彼の意識は闇に呑まれていく。
彼は恐怖の叫びを上げようとしたが、すでにその力は残っていなかった。