不朽体
朝、目を覚ました私が日課にしているのはカーテンを開けることと、彼にあいさつすることだ。
「おはようダーリン。なんか昨日はなかなか寝付けなくてさ」
安楽椅子に腰かけた彼からの返事はない。当然だ。死んでいるのだから。睡眠薬を多量接種して以来、彼の瞼が開いたことはない。私はキッチンに立つと鼻歌交じりに朝ご飯を作る。
「今日はねぇ、目玉焼きと、トーストと、レタスとトマトのサラダ。目玉焼きとサラダをトーストの上にのせて食べるんだ♪」
彼は窓際で私の料理する姿を凝視していた。
「ふふふっ、だーめ。これは私のごはんなんだから」
どこか恨めしそうな彼を見て私は笑う。家庭的な沈黙、料理する音だけが、私と彼の間に横たわる。
「ほら、できたよ」
目玉焼きとトーストの乗ったプレート、サラダの入ったボウル、マグカップになみなみと注がれたブラックコーヒー。素敵な朝食がテーブルの上に並べられた。
「うん、おいしそう。いただきます」
両手を合わせると私はトーストを手に取り、サラダを乗せ、その上に目玉焼きを乗せる。
「素敵なELTサンドの完成!まあ、サンドウィッチじゃないんだだけどね」
食欲をそそる香りにつられて私はトーストにかじりついた。シャキシャキとしたサラダ、温かい目玉焼き、香ばしいトースト。文句のない素敵な朝食だった。
「ごちそうさま」
手を合わせて食材に感謝する。
「さて、片づけなくちゃね」
プレートとボウルを手に持って再び台所に向かう。
「そういえば昨日ね、警察さんが私に話しかけてきたんだ。なんでも空き巣が近くで起きたんだって。うちにはテレビがないからそういった情報はやっぱり新聞じゃないとわかんないや」
彼がじっと私を見つめる。
「やだなぁ。私が愛してるのは君だけ……だ……よ……もう、恥ずかしいな。今の忘れて、いい?」
顔が熱いのが自分でもわかる。それを彼に見られたくなくて私はうつむいて食器を洗っていた。あぁ、今日はほんとに素敵な日。そう思わないと今すぐにでも床をのたうち回りそうだった。
「うん。これで終わり」
なるべく涼しい顔を装いながら私は食器を水切り棚に置いた。うん、大丈夫。意識なんてしてない。確かに彼の事は大好きだけど。
「新聞、取ってくるね」
私は声が上ずらないように気を付けながら彼に声をかけた。玄関から戻ってきてなるべく彼と目を合わせないように席に座ると新聞を広げた。さっきの一件がまだ私をドキドキさせていた。新聞の大見出しには、件の事件について書かれた記事が載っていた。
「……ふむふむ。犯人さん、まだ捕まってないんだって」
彼にも事件の全貌が分かるように読み上げる。彼はどこか難しそうにそれを聞いていた。
「あーあ、せっかくなら今日は近くのお店でお茶でもしたかったんだけど、これじゃだめかもしれないね」
予定がつぶれてしまったことは残念だ。でもそれだけ彼と一緒にいられると考えれば、悪くはないのかもしれない。
「んー、音楽でもかけよっか。ちょっと待っててね」
私は書斎に行くため、新聞を置いて立ち上がった。
「ん?何かけるかは内緒だよ?楽しみに待ってて」
書斎にて、古びたレコードジャケットに指を走らせる。
「お、あったあった」
目的のレコードを見つけて、棚から引っこ抜く。それからもう一つ。くるりと振り返ってこの音楽に合う本はないか探す。少しの間考えていたが結局『シェイクスピア全集』をつかんで私はリビングに戻った。
「ごめんね、待たせちゃった?」
壁を見ると一五分ほどかかっていたことを時計が示していた。
「あっちゃー、ずいぶん待たせちゃったんだ。ごめんなさい」
机に『シェイクスピア全集』を置くと蓄音機の鎮座する壁際に向かい、レコードをセットする。少し緊張しながら私はゆっくりと針を落とした。やがて蓄音機が音楽を奏で始め、私はほっと息をついて彼の近くにあるソファに腰かけた。
「ジムノペティっていうの。私のお気に入りなんだ……って何回も言ってるからさすがに覚えてるよね?」
ちらりと彼の方を見ながらいう。彼は微笑んだままだった。
「……あはは、ごめんね。さすがに何回も言えば覚えちゃうか。でも、これ聞くと落ち着くの」
穏やかな音楽の中、私は本を開く。シェイクスピアの作品は舞台にもなるだけあってレコードもあるが、私は本のほうが好きだ。文章は時として、音楽よりも心を動かすことがある。シェイクスピアの職業上、どこか舞台の上のようなセリフが出てくることはあるけれど。それでも文章の中にある登場人物たちの思いはいつも私を感動させてくれる。リビングには音楽と、ページをめくる音だけが聞こえていた。
「ねぇ、そういえばさ」
二時間ほどかけて一話目の『ロミオとジュリエット』を読み終え、私は彼の方に顔を向けた。
「イギリスの人が書いたにしては『ロミジュリ』ってずいぶんと『もののあはれ』って感じがしない?」
そもそもヨーロッパの物語はハッピーエンドが多い。とうぜん、そっちの方が人々の人々に受けたからだ。そんな中でどうしてシェイクスピアは悲恋物語を作ろうと思ったのだろう。
「もしかしたらシェイクスピアの前世は平安時代のお貴族様だったりね。ふふふ」
彼は何も答えない。
「まあいいや、それはそれで面白そうだけど……くあぁ」
そこであくびが出てしまった。彼にゆるんだところを見せてしまった。若干気恥ずかしさを感じながら本をテーブルに置いて大きく伸びをした。
「ごめん、少し寝てもいい?やっぱり昨日寝付けなかったからかなぁ。これでも昨日はいつも通り寝ようとしたんだよ?」
私は立ち上がると彼の額にそっとキスした。
「おやすみ、ダーリン。ホントはもっと君と素直に愛し合いたかったんだけど……あぁーやっぱ今のなし!ほんとに!おやすみ!」
気持ちを抑えて私は寝室に駆け込むとベッドに飛び込んだ。
「もう……ほんとに冗談が通じないんだから」
クッションに抱き着いて、私は目を閉じた。
「んもう……だーめ、ふふふ……くあぁ」
小さなあくびと共に私は目を覚ました。壁にかかった時計は私が五時間もの間眠っていたことを示していた。お昼ご飯を、と言い張れる時間はとっくに過ぎている。
「ずいぶん寝ちゃったなぁ……」
重たい瞼をこすりながら私はベッドから抜け出した。リビングは薄暗く何やら風の音が聞こえる。
「ん?ちゃんと戸締りはしたと思うんだけど……」
不思議に思いながら私はパチン、とリビングの電気をつけた。
「……ッ!?」
部屋は荒らされていた。窓には小さく割れた穴。タンスは開けられ、レコードプレイヤーはひっくり返されている。私と彼の空間は見るも無残な状況になっていた。
「ッ!ダーリン!大丈夫?」
私は安楽椅子に駆け寄った。彼の上半身はひじ掛けの上にもたれかかっている。慌てて彼を元のように座りなおさせた。
今朝、彼に聞かせた事件がふと脳裏をよぎった。空き巣被害。どうやら私たちが今回は被害にあってしまったらしい。
「……」
見られてしまった、か。私は背筋に冷たいものが伝うのを感じた。確かに、知らないうちに家に入られていたのは恐怖だ。でも、それ以上に私と彼の生活を見られてしまったことの方が恐怖だった。薄氷の上に築かれた、私たちの大切な生活。
「……ごめんね、ダーリン。君と一緒に、暮らせないかもしれないや……」
震える声で私は言った。彼は答えない。沈黙したままだった。彼が私を許しているのかどうかさえ分からなかった。
「ごめんね……君の事を気づいてあげられなくて……本当にごめんなさい……」
彼の膝に顔を埋めて私は泣いた。
チャイムの音が、私たちの家に鳴り響いた。




