神はコーラを飲み干せと宣うた
授業中、教師にバレずにコーラを飲み干すこと。
たったこれだけのことで憧れの彼女と付き合うことができるってんなら、そりゃあ挑戦するしかない。
手には、授業前に買ってきた一本の缶コーラ。
席について授業開始のベルを待ちながら、昨日の放課後に告白した彼女に視線を送る。
彼女は天使のような微笑みで静かに頷いてくれた。
いや、この例えは彼女に失礼だ。天使ごときで彼女の美しさを形容しようなんて間違っている。そうさ、そうだ。神だ。神々しいまでの彼女のオーラは万人を惹きつけてやまない。
俺自身も、その神に魅せられた一人だ。
他にも光源に群がる蛾のように老若男女問わず彼女の魅力にやられた有象無象が集まっているのを俺は知っている。
けれど、違うんだ。俺は、違う。
憧れをアコガレだけで終わらせずに行動に移せる男が俺だ。ただ遠巻きに見て騒いでいるだけの意気地なし連中とは違う。
だから、告白した。彼女も、それを好意で受け取ってくれた。
つまりこれは試練だ。
彼女が『待っていました。授業中に教師に見つからずにコーラを飲める者との距離を私は縮めるでしょう』と神託めいた発言をした事も、その微笑みが限りなく神のそれに近いアルカイックな何かだったことも含めて、授業中にコーラを飲むことは彼女との関係を進めるために必要な儀式なんだ。間違いない。
聖戦の始まりを告げるベルが鳴り、ヒゲと脂肪をたっぷりとたくわえた社会科教員がいつものようにテキストを小脇に抱え教室に入ってきた。ガラガラと立てつけの悪いドアを鳴らして、ふうと一つ息を吐く。
そんな社会科教師を尻目に、俺は気づいた。気づいてしまった。
ああ、嗚呼!
なんということだろう。試練に苦難はつきものだと言うが、例に漏れずさっそく俺の身にもそれが降りかかった。
コーラのプルタブを開けていなかった!
これでは戦いを始める以前の問題だ。裸一貫、丸腰で戦地に立つ愚か者だ。どんなに静かに開けたところで、子気味の良い『かしゅうっ』という音が響き渡ってしまうことは避けられない。
どうする、この時間にコーラを飲むことは諦めて次の時間にするか。戦略的撤退こそ、今の俺が採れる最善の道じゃないか? 三十六計、コーラ放置に如かず!
そうとも、そうだとも。不利な状況で無理をすれば全てをなくしてしまうもんだ。
「――くん、我道くん。立ちなさい」
「……ッ!?」
なんだ、どうした社会科教師! 俺はまだコーラを開けてすらいないんだぞ! 疑わしきは罰せず、がこの国の刑原則ではなかったか!
「どうしましたか。答えてください」
……なるほど、単純に質問を答えるように当てられたのか。
質問も効いていないのに分かるはずがないじゃないか。俺は今コーラを飲むことに集中しているんだ。人間、一つの所に己を懸けるのがカッコイイとテレビでも言ってたぞ。一所懸命、そう、一所懸命だ。
「授業は集中してくださいねぇ……。1815年、フランスと連合国軍の――」
「あ、ワーテルローの戦いすか」
「まったく、君は能力があるのに真面目さが足りない。その通り。座ってよろしい」
能力がある? 当たり前だろう。俺が彼女と釣り合う男になるためにどれほど努力をしたと思っている。知力も体力も時の運も全てを兼ね備えてこそ彼女の隣にふさわしいんだ。
イギリス・オランダ連合国なんぞに負けたナポレオンの――
はっ、そうか。
そうだ。
戦いに次がある保証はどこにもないじゃないか。ワーテルローの戦いも、これが最後の戦いだとはナポレオンの野郎も思ってなかったはずだ。
そうだ。次の時間などと甘えたことを言う者に彼女の加護は降りない。
となれば、やはりプルタブを開けて俺はコーラを飲むべきなんだ。微かに、開けていないはずのコーラの匂いがしてくる。これは俺がコーラにも愛されている証拠に他ならない!
さらに、幸いにも、今俺は立っている。コーラは机の中だ。椅子を引いて座る時に、同時に取り出して開ければ椅子を引いた時の音で誤魔化せるに違いない。
できるか?
……いや、できるかできないかじゃない。やるんだ。やるのが、俺だ。
右手を机に滑り入れると同時に左手で椅子を大げさに引く!
コーラが見えないように机の下に右手を移動させながら椅子を戻す!
ガタガタと鳴る中で、机の下、見えてはいないが確かに感触はあった。俺の右手がタブを起こした感触だ。
そして誰もこちらに不審な目を向けない。でっぷり社会科教師も黒板に向き直って板書を進めている。
よし、打ち克った!
俺は第一の試練に勝った!
教師が背を向けている隙にまずは一口。
爽やかな炭酸が口の中に広がる。ああ、これが達成の味だ。
「……ぉぃ」
隣の席の飯合がひっそりと話しかけてきた。
俺がコーラを飲んでいることに何か文句でもあるのだろうか。これは聖なる戦いだから邪魔をしてくれるな。
彼は何か言おうとしたが教師がこちらへ向き直ったので慌てて前を向いてしまった。
だが、視線は前を向いたまま静かに何かを差し出してきた。
手紙か? 今時、授業中に手紙を回すなんて古典的なことは誰もしていないぞ。それに文句を受け入れないでもないから、休憩時間にでも言ってくれればよいのに。
この時間だけは背水のコーラで臨む俺を黙って見ていてくれ。
だが違った。
手紙かと思われたそれを開いてみると一本のストローがそこにはあった。
ストローには細かく『God doesn’t require us to succeed; he only requires that you try.』
と流暢な文で書かれていた。小さくて読みにくかったが確かにそう書かれていた。
――神は、あなたたちに成功を望んでいない。ただ、挑戦することを望んでいる。
マザーテレサの言葉だったはずだ。
飯合、お前……応援してくれるのか、俺の征く道を……
机の下、変わらず前を向いたままの彼がぐっと親指を立てた。
ああ、友よ。俺はその心意気に応えなければならない。具体的には友情の証でコーラを飲み干すのだ。
これを使えば、顔を上げて缶を傾けずともよい。
あまりにもスムーズにコーラを飲み干すことができる。
ありがとう。ありがとう、友よ。
けれど決して油断はしない。それが俺だ。
コーラの道を往くものは最後の一口を以て道半ばと心得よ、と言い伝えられているように、ストローでこれを飲む時には最後に吸い上げる音が鳴るのも事実だ。
ずごご、とみっともない音を立てずにスマートに飲むには時間と集中を要する。
問題は、すでに授業終了の時間が近いことだ。
ちまちま、音が鳴らないように圧に気を付けて飲んでいたのでは終了のゴングが鳴り響いてしまう。
唐突に。
飯合が、高々とその手を屹立させた。
見事なまでにピンと主張されたその右手は誰しもの注意を引き、そして社会科教師含めて誰もが言葉を失った。
「ど、どうしましたか、飯合くん」
「トイレに。ボクはトイレに行ってきます」
優雅に、そして落ち着いた声で友は宣言した。挨拶のように、それが当然であるかのように。
「し、しかし、あと数分ほどで授業は――」
「漏れると! 言っているのです!! ボクは!」
空気を震わせるほどの、気を張った一声に、教室内はざわつくことすらも許されず、教師はただこくこくと頷くばかりだった。
優雅に立ち上がり、飯合は一瞬だけこちらを見てウインクして見せた。
お前、お前ってヤツは……!
自己を犠牲にしてまで俺の道を助けてくれるのか……!
飯合の歩みに衆目が集まり、立てつけの悪いドアを彼が開けるその音に合わせて、最後の一口を飲み干す。
友よ、お前は間違いなく、俺の救世主だった。
あとは、授業終了のベルを待てばいい。うすらざわついたこの教室の空気も、授業が終われば何事もなかったかのように平穏に戻っていくだろう。
そして俺の勝利は静かに達成されるのだ。
「ぐぇぇぇっぷ」
皆の視線が、一斉にこちらに集まる。
まさか、こんなことが。こんなことがあっていいのか。
コーラとげっぷは表裏一体。片方が存在する時、またもう片方も存在することは世の摂理だがこれほどまでに何の予兆もなく俺の喉を振るわせてくれるものなのか。
俺自身、自らの腹から出た音だと一瞬気が付かなかった。
終わってしまうのか。
すべて、すべてここまでだというのか。
「我道くん、今のは……」
「そ、その、つまり、あの――」
「わたくしの飼い蛙ですわ、先生」
神が、いや、彼女が鞄の中からおもむろに両手では収まらないほどのウシガエルを取り出して机にそっと乗せた。
喉をぷくりと膨らませたそいつは、まるでコーラを飲んだ後のげっぷのような音を高らかに一つさせた。
そして、終業のベルが鳴る。
ざわつきと混乱の中で、社会科教師は
「え、えー、では授業を終わります」
と言ってそそくさと出ていった。
君子は危うきには近寄りたくないものだ。全校生徒はおろか近隣住民一帯からの人気を一身に集める彼女がカエルを持ち出したその事実に、情報処理が追いつかなかったのだろう。
俺は感動していた。
彼女は、俺を助けてくれたのだ。仏から垂らされた一筋の蜘蛛の糸が如きウシガエルと、彼女の機転に。
これは、彼女も俺との距離を縮めるにやぶさかではないのだろうと、確信していた。
その、はずだった。
○ ○ ○
放課後。
俺は彼女に呼び出されて、使われていない教室に赴いた。
色々あったが、授業中に、教師にバレずにコーラを飲み切ったんだ。彼女とのめくるめくバラ色の学園生活が始まるに違いない。
そう信じ切っていた俺は、何も彼女のことが分かっていないアホだった。
はやる心を押さえてその教室の戸を開ければ、そこにいたのは彼女と――飯合だった。
「やあ、我道。一の門、コーラ戦のクリアおめでとう」
「飯合……? これは、どういう……」
疑問への答えが示されることなく、一人、二人と教室に人が集まってくる。
なんだ。これは一体どういうことなんだ。みんな、同じクラスの奴らじゃないか。
そして、彼女以外に都合8名が集まった所で彼女は宣言した。
「誰一人、欠けることなくコーラを飲み干したこと、私は嬉しく思います」
全員が一斉に片膝をついて首を垂れる。飯合にぐいと手を引かれて俺もその場にうずくまった。
「明日は放課後、火鍋を行います。最初に堕ちた者以外と、私は距離を縮めるでしょう」
あの笑みだ。神々しいあの笑みで、彼女はそう言って、静かに教室を去っていった。
しばらく、誰も身じろぎ一つしなかったが、ついに飯合が立ち上がって俺の手を取った。
「まさか、彼女がキミを助けるなんてね。ずいぶん気に入られているみたいだけれど、ボクは負けないよ」
「ま、まさか飯合、お前もコーラを……」
「もちろん。彼女の今日の神託は授業中にコーラを飲む事だったからね。教室内で、とは言われていなかったから、トイレに行くフリをして飲んできたのさ」
「ほ、他のみんなも……?」
頷きのみが返ってくる。
そうか、俺がプルタブを開ける前にコーラの匂いがしたのは、みんなも飲んでいたからだったのか……!
つまり、俺たちは同志であり、ライバルであるらしい。
彼女の光に集まってきた蛾のような面々。俺も一匹の虫に過ぎなかったようだ。
彼女と親密な仲になるためには、まだまだ試練を乗り越える必要があるらしい。
コーラの試練を潜り抜けた者たちは、やはり彼女の見目で騒ぐだけの一般人とは顔つきが違う。
だが、やってみせる。相手にとって不足はない。
俺は必ず神たる彼女と親密なお付き合いをしてみせる!
――俺の戦いは、まだこれからだ!!