「好きなの? 空蝉あさぎ」
呆然とした。
7月22日。一週間前の雑談枠。僕はちょうどその日、早くに寝てしまったから、配信をリアルタイムで見ることはできなかった。
雑談枠、というのは基本的に、あまり深くは聞かない方だった。普段見るときは、何かしら別の作業をしていることが多いし、僕が好きなのは声質の方だったから、内容は別にどうでもよかった。
しかし、作業をしていなかったらどうだろうか。そりゃ、母国語だ。ある程度ちゃんと聞いていれば、意味はだいたい入ってくる。
アパートの隣人。”今朝”、ゴミ捨て、下着。
7月22日、僕も全く同じ体験をしている。アパートの隣人――クラスメイトの彼女と。
「確かめなくちゃ……」
僕は無意識にそうつぶやいていた。
彼女が「空蝉あさぎ」なのか。いいや。そんなことはありえない。
偶然だ。別に、日本中にアパートはあるし、午前九時ごろ、隣人とばったり会った人もいるし、そして菓子折りを持って隣人を訪れた人がいないはずがないのだ。だって1億人がこの狭い島国に住んでいるんだぞ。
ましてや一介の高校生がVtuberなんてやれるはずない。金、設備、責任、その他諸々の事情があるのだ。そうだ。
安心しろ。あの子はあさぎじゃない。僕の空蝉あさぎじゃない。違う、違うよ。僕が好きな空蝉あさぎは――いいや、僕は別に、本気で好きなわけじゃない。
「気に入ってるだけだ。好きなわけじゃない。そうだ、そうだ……」
深呼吸すると、だいぶ落ち着いてきた。
彼女は空蝉あさぎじゃないし、空蝉あさぎは僕の好きな人じゃない――このフィルターを壊すわけにはいかないのだ。
ピンポン、とチャイムが鳴った。誰だ? 宅配でも頼んだだろうか。
ドアを開けると、そこにいたのは隣人の――そう、クラスメイトだ。そう。
「ごめん、いきなり……えと、いま、暇かな」
「え? ああ、うん。暇っちゃ暇だけど」
良かった。普通に話せている。――考えるのはよそう。彼女はただのクラスメイトで、ただの隣人だ。
「その、いきなりで悪いんだけど、わたし数学が苦手でね、その、転校してきたばっかりで教えてもらえるような友達もいないし、塾も行ってなくて……」
「……それで?」
「あのね、ちょっと教えてほしいなっていうか。せっかく隣に住んでるわけだし」
……いや、友達がいないっていうのは嘘だろ。絶対いるに決まっている。女で可愛くて性格も良い。学校での生活も見ている限りでは、敵が増えそうな過ごし方もしていない。休み時間はかなり活発に話しているのを僕は見ていたぞ。
なんのつもりだ。
「……僕でいいなら、教えるけど」
「ほんと!? よかった……じゃ、じゃあ、ちょっと待っててね」
彼女は自分の部屋からノートと参考書を持ってきた。
「どこ?」
「え……あ、その……上がってもいい、かな」
確かに、夏に玄関先にいてもらい続けるのも酷か。
「いいよ」
と僕は言って、彼女を部屋に上げた。
ものがなさすぎるせいで、掃除の必要がない殺風景な部屋。あるのはパソコン、数冊の参考書や教科書が収められた本棚、布団、背の低いテーブルくらいか。
人に見せて困るようなものでもない。僕が部屋に上げる分には問題ないが。
彼女は構わないんだろうか。というか、わざわざ僕の部屋に来る必要もなかったのでは? 参考書を渡して、ここの問題が分からないと言ってくれれば、僕みたいな男の部屋に入る必要もない。僕はそれなりに分かりやすい注釈を入れて解答を作り、ポストにでも投函してやればいい。
「お茶とかいる?」
「あ、ありがとう!」
彼女が何を考えているのか、僕にはさっぱり分からない。それがひどく怖い。
内心ではきっと馬鹿にしているに違いない。女が部屋に入ってきただけで焦ってやんの、とか。どこかにカメラとか隠してないだろうな。頼むよ、僕は平穏に暮らしたいだけなんだ。
「……あれ?」
お茶の入ったコップをテーブルに出してやった時、彼女がふいに間の抜けた声を出した。本棚の一点、空蝉あさぎのアクキーを指差して。
「好きなの? 空蝉あさぎ」
心臓が跳ねた。
どうしてその話を蒸し返すんだ。さっきそれは結論づけたばっかりなのに。しかも、よりにもよってお前が。
「……ああ、まあ。知ってるの?」
ああ、落ち着けよ。彼女は空蝉あさぎじゃない。きっと……そう、お仲間だ。それか、どこかで僕が空蝉あさぎを見てるって情報を仕入れて、からかってるだけだ。この質問の答えでそれがわかる。




