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「あの、今朝のことは学校の人には他言無用でお願いします」

 今日から長いようで短い夏休みが始まる。一ヶ月。僕は塾に行っていないから暇な方だろうが、それでも一応、受験生らしい生活をするつもりだ。

 いざ学校がなくなってみると、いつもは学校なんて行きたくないな、と思っていても、形容し難い喪失感がある。小学校の時から、この感覚を忘れたことはなかった。

 

「……なんか、どっか行ってみるか」

 受験生 #とは。まあ、別に構わないだろう。あとで困るのは僕だし、人に迷惑をかけるのでなければ好き勝手していい、といった哲学者もいたはずだ。

 制服を包んでクリーニングに出す用意をし、夏用の地味な半袖半ズボンに着替えると、僕はアパートの扉を開けた。

 ガチャリ、とドアノブを回す音が、二重に聞こえた。音のほうに目線をやる。

「「……あ」」

 

 夢見がちな人間なら、この瞬間を運命だ、とかのたまっていたんだろうか。

 隣の部屋の彼女――つまり学校では僕の隣の席の彼女――と、なんとまあ最悪なタイミングでかち合ってしまった。

 彼女のほうは、ゴミ捨てにいくところだったらしい。ひどく薄着だった。ランニングシャツと短パン。知人に見られていいものではないだろう。僕はすぐに目をそらし、小さな声で

「ごめん」

 と一言謝って、足早に階段を降りた(僕と彼女の部屋は2階にあるのだ)。


 心臓に悪い。これが吹聴されたりしたらたまったもんじゃない。いくら他人に無関心なクラスメイトでも、隣人女子の肌色を見たとかいう噂に尾ひれがつけばあっという間に社会的死。屈辱を耐え忍びながら僅かな高校生活を過ごすことになる。それだけはごめんだ。後で菓子折りでも持って謝罪に行くか……。


 近場のクリーニング屋に制服全部を預けたあと、僕は電車に乗って軽く遠出した。実家帰りも考えたが、初日でそれというのも沽券に関わるというやつで、結局、神奈川に住んでいた時によく遊びにいったみなとみらいに辿り着いていた。


 はい。

 みなとみらいって一人で行くところじゃない。いつも一人だったけど。

 マックで無駄にお金つかって帰ってきただけ。なんとも虚しい遠出だった。このまま帰るのも悔しいが、帰る以外に選択肢がないのも事実。


 なんだかんだ言って、外に出ていたのは三時間くらいだった。帰宅すると同時に、隣人のことを思い出す。そうだそうだ、お詫びの品でも持っていかねば。

 何がいいんだろう、淑女に無礼を詫びる時のお菓子って。今までそんなことで謝罪したことないから分からないけど、コンビニに売ってるようなものじゃきっとだめだよな。

「わたしの裸はそんなに安くないですけど」とか言われたら弁解できん。……いや、裸見たわけじゃないしな。

 

 結局、駅前のスーパーまで出向き、高そうな和菓子を購入することにした。高そうなのは見た目だけで、お値段は五百円と良心的。彼女も一人暮らしだから、量はこれで十分だろう。冷凍で保存できるとも書いてあるし、アレルギー表示もなるべく少ないものにしてみた。これで無駄ないちゃもんをつけられることもあるまい。


 初めて、自分の部屋のとなりのドアの前に立っている。「202」。僕の部屋が「201」だから、ここで間違ってないよな。


 意を決して、インターホンを押す。

 しばらく待ってみたが、応答はなかった。寝ている……のだろうか。でもまだ昼だ。

 もう一度押すと、またしばらくたってから、今度は返事があった。


『はーい』

「あ、すいません。隣の201号室の……」


 とそこまで言うと、インターホンの向こう側から『えっ!? あ、はい! ちょ、ちょっとまって……』と慌てた様子の声がして、それからたっぷり三十秒ほど沈黙があった。

 ようやく開いたドアから、こんどは結構ちゃんとした格好で、彼女が顔を出した。


「ご、ごめん、おまたせ……ど、どうしたの?」

「えー、あ、その、今朝は……その、悪いことしたな、と思って、それで」


 うまく口が回らない。頭の中の原稿では、今朝は大変失礼しました、こちらお詫びのお菓子です、これで勘弁してください、とスラスラ並べ立ててさっさとずらかるつもりだったのに。

 現実はそううまくいかない。おずおずとお菓子の箱を差し出すと、彼女の方は困惑した面持ちで、「えっ? あ、……うん、ありがと」とだけ言った。


 僕は居たたまれなくなって、

「あの、今朝のことは学校の人には他言無用でお願いします」

 と早口で言って、逃げるように自室に戻った。

 ……火に油どころかガソリンと爆薬を注いでしまったかもしれない。素直に謝罪だけすればよかった。


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