3 懐疑
記憶喪失の半鬼は、弓術に関しては素人も同然だ。恐らくそれは記憶が失われたのが原因ではなく、元より弓を扱う機会が無かったのだと思われる。
そんな少年でも、今目の前で繰り広げられている展開の異常性には感付いていた。
矢が番えられる。弓が引き絞られてから放たれるまでの時間が、他の射手と比べて異様に短い。それは本来狙いを定めるために要する時間であり、そこをお座なりにしてしまうと正確に的を射抜くのは飛躍的に難しくなる。にも関わらず――、
手本と言って差し支え無い程綺麗な軌道を描き、矢はまたしても的の中央を捉えた。
周囲から上がっていた歓声は、既にどよめきに変わりつつある。
少年の隣に立っていた加賀美も、初めの方こそ感心といった様子で賞賛の声を上げていたが、今では矢が的を射るたびに感嘆の溜め息を漏らすのみに留まっている。
二十の矢を射て、未だ中央以外に矢が飛んだ事は一度も無い。
放った矢が総じて的のど真ん中を射抜くこの射手は、驚く事に少年とも然して年の変わらない人間の少女だった。
加賀美が言うには、彼女は八狩の者ではないらしい。確かに、見てくれからしてこの辺りの人間とは一線を画している。
黒と緋が配色された鮮やかな衣を纏うのは、半鬼の少年より少しばかり高い背丈を持つ健康的な肢体だった。肩口のあたりで切り揃えられた頭髪は、極めて黒に近い深紅の色をしている。影となっている内は黒にしか見えないが、日に照らせば真っ赤に輝く、そんな色合いを持っていた。肌の質感や顔つきからしてやはりまだ相当に若いはずなのだが、彼女が総身に纏う雰囲気は何故か酷く大人びていた。
都人、と表現するのも何か違う気がする。彼女自身しか持ち得ない独特な空気を漂わせる、極めて特異な風貌の少女だ。
彼女は構えからして他の射手とは違っていた。勿論、立ち方が大きく異なるなどという事は無い。ただ、彼女は少しも力んでいなかった。矢を番えてから放つまでの動作がその身に叩き込まれているのか、二十の回数を重ねても毎度同じに見える程、乱れとは無縁の構えだった。
「こりゃあ駄目だ。話にならねぇ」
隣で加賀美が独りごちた。
× × ×
案の定、此度の賭弓は村外からの来訪者の圧勝で決着した。
勝者へ褒美を与える段となり、八狩の村長の前に件の少女が立った。
少女が褒美を受け取ると、周りからは歓声が上がった。少年はてっきり、いきなりやって来たよそ者が優勝するのは住民からすると面白くない展開だと踏んでいたが、住民達はすっかり彼女の技術に感動し、皆揃って賞賛の声を上げていた。
殊更喜んだ様子も無い少女。情緒に欠ける少女の態度を見て、何となく少年が目を離せないでいると、不意に彼女と目が合った。
賭弓も閉会となり、ただ見物に来ていただけの者達は皆それぞれ帰っていく。
「私達も戻りましょうか」
共に来ていた律花の呼び掛けに応じようとしたその時、深紅の髪を持つ少女が少年の方へと近付いて来た。その目が明らかに自分を捉えていたものだから、半鬼の少年はかなり焦った。執拗に見ていた所為で相手を不快にさせてしまったのだろうか。
半鬼の少年が内心ふためいている内に、少女はすぐ近くまで歩み寄っていた。そこで足を止めた少女は、真っ直ぐに少年を見据える。
「少し、時間を頂けるかしら」
印象に違わず、彼女は落ち着いた声色をしていた。
「……はい?」
不意の事に思わず問い返してしまう少年に、だが彼女は揺るがない。
「時間はあるかと訊いたのよ」
目を瞬いているのは少年だけではなく、加賀美夫妻も同じだった。
痺れを切らしたのか、彼女は強引に少年の腕を引いて場所を移そうとする。
「え!? あの……」
狼狽する少年に向けてではなく、隣にいた夫妻に向けて少女は言う。
「申し訳無いけれど、少しの間だけ彼を借りるわよ。すぐに解放するから安心して頂戴」
「あ、あぁ……分かった」
首を縦に振る加賀美。
そこは頷かないで欲しかった。少年は正直、不安で仕方が無かった。
× × ×
「ここなら問題無いわね」
「あの……何でこんな場所に?」
少年が連れられて来たのは、人目に付かない建物の裏だった。不吉な想像が嫌でも捗る。いざという時の逃走手順を確認するべく、少年の頭が活発に働く。
だが少女が口にしたのは、そんな予想を全く以て裏切る話だった。
「手短に告げるのだけれど――早急にこの村を離れなさい」
言葉の意味は分かったが、意図が微塵も解せなかった。しかしこの少女が持つ独特な雰囲気の所為か、とても戯言とは思えなかった。
「どういう事ですか……?」
「貴方、八狩の者じゃないわよね。ここへ来たのはいつかしら――いえ、今は不要な情報ね。とにかく、ここは危険よ。可能なら今日中に立ち去って貰いたいの」
「危険って――」
「詳しい事は話せないわ」
少年の問いを遮るように、彼女が言葉を続ける。
「人間でない者は特に、ね。唐突に言われて困惑するのは無理もないでしょうけれど、分かって頂戴」
「人間じゃない方は僕以外にもいます。その方達はどうするつもりなんですか?」
この段階で、少年は彼女の事を深く疑っていた。いきなり村へ訪れて賭弓で優勝したかと思えば、村が危険だと言って住民を村から追いやるつもりなのか。この人間、意図がまるで読めない。そも、彼女は何が目的でこんな僻地に単身で訪れたのか。
「無論、安全を確保するために動くつもりよ。貴方は元よりこの村に住んでいた訳ではないようだったから、ここを出て戻るよう促したまで」
「でも僕、自分がどこから来たのか分からないですよ」
少女は眉根を寄せた。
「どういう事? ……与太話に付き合っている暇は無いのだけれど」
「違いますよ。僕、五日程前に目が覚めたんですけど、それ以前の記憶が無いんです」
「…………」
彼女は胡乱げな目付きになる。
「えっと……嘘じゃない、ですよ……?」
「いえ、別に疑っている訳ではないけれど……本当に一切憶えていないの? 仮にそうなら、こうも問題無く話せるとは思えないわね」
然もありなん。確かに少年は気を失うより前の事を全く以て思い出せない。つまりは完全に失われた記憶なのだ。ならばそれ以前に得た知識などは全て失せていなければおかしいのだが、少年は言葉も分かれば文字も読める。
「確かにそうですね……。でも、行くべき場所が無いのは事実です。それに、僕は村を出て行く訳にはいきません。この村には恩人がいます。その方を置いて逃げる事はできませんから」
それは少年の建前だった。少年は胸の内で既に、この少女は信ずるに足らない存在だと判断を下している。彼女の言っている事はあまりにも具体性を欠いているし、唐突に過ぎる。いきなり村にやって来たよそ者が「この村は危険だから出て行け」などとほらを吹いたところで、素直に従う者はいないだろう。思うに――、
(何が目的かは分からないけど、この人は舌先三寸で住民を村から追いやろうとしている……)
「本気で言っているの?」
彼女は眉を顰める。
「……もしかして、私が信じられないの? 確かにこの場で詳しい内容は伝えられないけれど、八狩にいると間違い無く貴方の身にも危険が及ぶわよ」
訴えるような面持ちで少女は語る。その必死さが、いかにも怪しく映る。
「大丈夫ですよ。危ないと思ったらすぐ逃げますから」
適当な調子で応じ、少年は振り返って歩き出す。
「待ちなさい!」
背後から掛かる制止の声に、少年は無視を決め込んだ。