2 名無しの半鬼
「こいつか? あぁ、五日前に山で拾ったんだよ」
「拾った!?」
思わず声を荒げる衣笠。
「冗談だよ」
わざとらしく、加賀美は肩を竦めて見せる。
「いや、あながち間違ってもいないのか……」
「?」
ぼそぼそと呟いた加賀美に、衣笠は小首を傾げる。
半鬼らしき少年は、その間気まずそうに目を伏せていた。
「話すと少し長くなるんだが……」
加賀美は、そう切り出した。
「何も……憶えていないの……?」
「はい……」
衣笠が問うと、半鬼の少年は弱々しく肯定した。
加賀美が語ったのはこの少年が今ここで店番をしている理由とその経緯についてだった。
五日前に加賀美が山でこの少年と出会ったのは本当らしい。その時は汚れて傷だらけの黒い衣を着ていたそうだ。
彼は気を失っていたらしく、目が覚めると山林の中にいたと言う。そして驚く事に、彼は気を失う以前の記憶が全く無かった。言語能力などには問題が無く、文字の読み書きもできたらしい。しかし、自身の名を含め、己の素性が分かり得るような情報は一切憶えていないと言うのだ。
事情を知った加賀美が彼を村へと連れて帰り、湯殿へ連れて行き、新たな衣を与えた。
少年がどこから来たのかすら分からないため、加賀美はひとまず彼を自身の家に泊めているそうだ。本来は店番をやらせるつもりなど無かったのだが、彼が自分から手伝いを申し出たらしい。
衣笠は暫しの間唸っていた。言語、思考能力には何ら異常が無いというのに、以前の記憶が完全に失せる事などあり得るのだろうか。ただ――。
「この近くの山で気を失っていたんだったら、八狩の住民なんじゃないの?」
妥当に考えればそうだろう。偶然遠方からこの辺の山に来ていたところで何かが起きて気を失った、とは考え難い。
「そこまで大きな村じゃないし、前から住んでいたんなら見た事くらいあるはずだと思うんだけどな。お前だって、こんな風変わりな奴を見た覚えは無いだろ?」
そう言われてみれば、確かにそうだ。衣笠も以前からこの村によく訪れているが、彼を見た事は無い。ここまで特異な見た目なのだ。一度見たら忘れるはずも無いのだが。
「それに、もう四日もこうして店に立ってるけど、誰もこいつを知っている風じゃないんだ。俺が思うに、こいつは少なくとも八狩の人間じゃあない」
「じゃあ、近くの村から来たの?」
「どうだろうなぁ。――坊主、お前はどう思う?」
加賀美が少年へ向けて問う。
「……分からないです、すみません」
「まぁ、そりゃあそうだよな」
半鬼の少年の回答は、加賀美の予想通りだったようだ。
現状、彼は加賀美の家に住まう事で問題無く生活を送っているらしいが、もし加賀美の存在が無かった場合どうなっていたかを考えると、こうして店の手伝いをしている現状は僥倖と言えるかもしれない。かと言って、いつまでもこのままでいる訳にはいくまい。気を失う以前の彼がどこにいて何をしていた者かは分からないが、今も彼を探している者がどこかにいるはずなのだ。彼がどこから来たのか、それを突き止めなければならない。
「明日にでも、近くの村へ足を運んでみたらどう? そこがその子のいた場所なら、見れば何か思い出すかもしれないし」
「成る程、悪くない案だな。ただ、明日は村で賭弓があるんだ。行くのはそれが終わってからだな」
衣笠の提案に、加賀美は笑みを湛えてそう答えた。
「え、もしかして出るの?」
賭弓とは、賞品を賭けて射術を競う弓の競技会のようなものだ。ここ八狩では年に一回決まって開かれている。
「まさか」
加賀美は笑ってかぶりを振った。
「出る訳無いだろう? 別に弓の腕前に自信がある訳じゃないしな。こんな小さな村じゃろくな催しなんて滅多に無いからな。村の奴は大抵見に来るよ。……むしろ、お前が出てみたらどうだ?」
今度は衣笠が苦笑する番だった。
「私は明日までここにいないの。さっさと鹿の肉でも買って弟子の元へ戻るんだから」
「そういやお前、普段はどこにいるんだ? いつもふらっと現れては気が付いたら帰ってるけどよ」
「内緒だよ」
誤魔化す意図もあって衣笠は猫撫で声で言ってみるが、付き合いの長い加賀美は彼女の年齢を知っている。顔が引き攣るのが見て取れた。
「分かったよ。お前がいると客が寄って来ないんだ。さっさと行ってくれ」
「なっ、自分から話し掛けた癖に」
些か癪に障ったが、衣笠としてもここでいつまでも油を売っている訳にはいかない。彼女は半鬼の少年へ視線を移すと、
「それじゃ、そろそろ私は行くとするよ。大変だと思うけど、彼の事は信用していいからね。次に会う時には何か思い出してる事を願ってるよ」
「はい、どうも……」
不安は拭えていない様子ではあったが、加賀美と打ち解けているところを見る限り、当面は大丈夫だろうと衣笠には思えた。
× × ×
目を開けた時、射し込んでいた木漏れ日で目が眩んだのを憶えている。
今より丁度五日前、確かに半鬼の少年は山奥の林の中で目が覚めた。自分が何故こんな場所にいるのか、自分がどこから来たのか、まるで思い出す事ができなかった。ただこの場所が琉月という地である事や魔術に関する知識など、基本的な事柄には理解が及んでいた。却ってそこが不可思議とも言える。
何はともあれ、今の少年は加賀美雪正という人間の商人に助けられてここにいる。彼には、感謝してもし切れない。
本日の商いは終了した。半鬼の少年と加賀美の二人は手早く露店を片付け、荷車を引いて加賀美の家へと戻った。
「お帰りなさい、二人共」
襷掛けに前垂れの姿で二人を迎えたのは、加賀美の妻である律花だ。
見た目には分からないだろうが、彼女は人間ではない。流れるような黄金の頭髪も、妖狐としては決して珍しくないのだ。腹部のあたりを見ればすぐに分かる事だが、彼女は現在子を身籠っている。優しげな目元が印象に残る、中々の麗人だった。
「あぁ、今日も疲れたよ」
大きく息を吐くと、加賀美は円卓の前に腰を下ろす。卓上には食事が並べられていた。
「君もお疲れ様」
「いえ、僕にできるのはこれくらいですから」
律花の労う言葉に、少年はかぶりを振る。行く当ても無いところを助けて貰った身としては、仕事の手伝いなど最低限の返礼だ。
しかし偶然ではあるが、今この時期に於ける少年の助力は渡りに船だったらしい。妊娠している妻がいれば、夫が可能な限り近くにいて支えようとするのは道理だろう。少年が店番を担うようになってから、加賀美は家にいる時間を多く取れていた。
「良くできた餓鬼だ」
加賀美が大仰に笑って見せる。
律花に促され、半鬼の少年も円卓に向かって腰を下ろした。食事の用意をしたのは勿論律花だ。子を宿して約五か月。まだそれくらいの余裕はあるらしい。
もうこの家での生活にも身体が慣れつつあるが、少年は自分がこの場にいる事を正直申し訳無く思っている。半年程前に婚姻したばかりの夫婦なのだ。食事の席に第三者がいるのは好ましくないのでは、と考えてしまうのだ。
少年は自身の両親についての記憶は一切無いが、加賀美が言うには彼は純血の鬼族ではないらしい。異種族同士の婚姻は良く思われたものではないが、彼ら夫婦も異なる種族にありながら結ばれたのだ。それは本当に互いを思っているからこそ成立するものであり、少年はむしろ褒め称えるべきものだと思う。
当人はと言えば、そんな少年の心配など気にする素振りも無く、食事が始まると半鬼の少年に向けて話し掛ける。その内容は、昼間に話題に上った件の催しについてだった。
「明日の賭弓、お前も見に行くだろう? 明日はそれが終わるまでは店を開いたって誰も来やしないからな」
「それじゃあ、やっぱり殆どのひとが見に行くんですか?」
確かに、昼間にもそんな事を言っていた。
少年が問い返すと、代わって答えたのは律花だった。
「年に一度の大きな催しだから、ね。時期は決まってる訳じゃないんだけど。この村は狩りを生業としているひとも多くて中々白熱した戦いが見れるから、皆逃すまいとして見に来るのよ」
「今年は誰が勝つだろうな」
加賀美が言うと、律花は然も楽しそうに応じる。
「立花さんのところの長兄じゃないかしら」
「あぁ、大いにあり得るな」
この日の夕餉も、小さいながらに三人で盛り上がった。こうやって食事にありつけている事を、少年は心からありがたいと思う。
そして彼は内心で、明日の賭弓への期待に胸を膨らませていた。