1 灰色の半鬼
志筑龍馬は俗に言うならず者だ。盗みに殺しに強姦、何にだって手を染めてきた。
ここ琉月の地で最も泰平と謳われる卯竜国の王都『碧水』では、彼のような存在は極めて珍しい。彼は殆ど単身で王都の裏通りを支配していると言っても過言ではないのだ。
しかし王宮付近のこの場所では、衛士の見回りもあるし、彼らの実力も精鋭のそれに違いない。
ならば何故、彼は我が物顔でこの王宮付近の地を脅かしていられるのだろうか。
彼の実力が本物だからだ。理由ならこれだけで事足りる。
全種族中唯一体内で魔力を生成できる人間だが、術式を介してその力を変換し、繰る事のできる者となるとその数は限られる。三人いれば内二人は無能力と言っていい。その程度の割合だ。
それは生まれ付いての才覚の差とも言える。魔術を繰る事のできる者に師事して会得するのが常人だが、中には誰からも教わる事無く術を発動させる者もいる。――無論、教わったところで才の無い者には不可能な技術だ。
そして、志筑龍馬は魔術が使えた。
その実力の程は、彼が望めば王直属の親衛になる事だって可能なくらい秀でている。
勿論、『魔術』と一口に言っても、それが戦闘に応用できるものとは限らない。だが彼は、一つの身にありながら様々な系統の魔術を使いこなせる。彼の戦闘者としての魔術の実力は、王宮所属の衛士程度が四、五人まとめてかかってきたところで傷一つ負わせるのが関の山といったところだ。
鬼族だろうが妖狐だろうが、相手が魔術の使い手だろうと。気に入らない者は皆無慈悲にねじ伏せてきた。
そんな彼は、今とてつもなく不機嫌だった。
朝っぱらから魔術を扱う衛士を二人相手取ったのだが、その内一方に不意を衝かれ、浅いながらも傷を負ってしまった。――その後相手を金輪際刀の持てない姿にしてやったのは彼にとって当然の事であり、鬱憤を晴らすには至らない。
彼には実力に見合った矜持があった。
たった二人の衛士に遅れを取ったのが、どうしても許せなかった。
つい先刻の事だ。思い出すだけで腸が煮えくり返る。
故に。
裏通りに迷い込んだ小柄な少年を見咎めた時に、彼の口元が歪んだのは言うまでもないだろう。
よく見るとその少年の頭髪から、白い角が二本見えている。つまりは、鬼族だ。
しかし少年の体躯は、鬼のものにしては妙に小さかった。対象と距離があるからそう見えているという訳ではない。明らかに、人間の少年と同程度しかない。
さらに不可思議なのはその頭髪だ。淡い色である事が多い鬼族の頭髪に対し、少年のそれは暗灰色だった。そこから覗く二つの角も、改めて見るとやや小振りだ。
(まさか、半鬼か?)
人間と鬼の混血。その可能性が考えられた。それは確かに稀な存在だ。だが――。
(とんだ雑魚に出くわしちまったな)
その存在は、希少性を除けば何の価値も無いと言っていい程、無力極まりないものだ。
そも、魔力の生成能力は純血の人間にしか宿らない。その上鬼族の特徴である高い身体能力、そして霊子操作能力が、純血の鬼と比べ半減しているのだ。
魔術の素養の無い人間相手ならまだしも、それを除けば、半鬼は最弱級の存在だ。
だが、関係無い。
今の龍馬からすれば、完膚無きまでに叩き潰せる対象がいればそれで問題は解決する。
思わず、笑みがこぼれる。
弱者だろうが容赦はしない。今は先刻の戦いで蓄えた怒りを、ただ放出するのみだ。
十間はあったであろう距離を、龍馬は一瞬にして詰め寄った。
魔力による身体能力の強化だ。初歩的な魔術ではあるが、今の彼のように鬼をも凌駕する脚力を得るにはそれなりの才能と鍛錬が必要となる。
腰に帯びた長刀を引き抜き、袈裟懸けに斬りかかる。
強化した腕力で振り下ろされた長大な刃は、小柄な半鬼の身体を真っ二つに切り裂く――はずだった。
「……は?」
避けられた。そう確信したと同時、左の方から地面を擦るような音が聞こえる。
今し方目の前にいたはずの半鬼が、そこにいた。
彼は何もその移動速度に驚いた訳ではない。半鬼と言えど、只人を凌駕する身体能力を有しているのは確かな事だ。加えて純血の鬼には劣るが、霊子を操って補助をしたのだとすれば、これくらいの速度は出せても不思議ではない。
そこではない。彼が驚いているのは、完全に不意打ちだった今の斬撃にこの少年が反応した事だ。仮にこちらの存在に気付いていたとしても、まさか唐突に斬りかかってくるとは思っていないはずだ。鬼ですら出せない速度で実行したこちらの攻撃を避ける事など、不可能なのだ。
――ならば、何故。
× × ×
安曇涼奈は未だ寝床を出られずにいた。別段理由がある訳ではない。今日はまだ布団の温もりの中に身を置いていたかったというだけの話だ。普段より気温の低い朝にはよくある事だと涼奈は思う。
ただ、強いて理由を挙げるとするなら――。
あの夢を見たのはいつ以来だっただろうか。前回を覚えていない程久しかったという事だけは確かなのだが。
四年前のある日から見るようになった悪夢の所為で、今朝の涼奈はやや落ち込んでいるのだった。
「――――おい」
一年は遡らないにしても、やや忘れ掛けていた程だ。時間を掛けて慣らしてきたはずの悪夢も、これだけの期間を置いて見ると流石に応える。
「おい、安曇!」
寝具に包まれていた涼奈の身体が跳ね上がった。
慌てて状況を確認しようと身体を動かそうとしても、仰向けの体勢のまま身動きが取れない。が、視線を巡らせるまでもなく、その原因は目の前にあった。――いや、『いた』と言う方が適切か。
(まずい……)
上官の睥睨は、殆ど真上から降り注いでいる。涼奈に馬乗りになる形で腰を下ろす彼女の表情は、不機嫌そのものと言ってよかった。
道理で腹部が妙に生暖かかった訳だ、などと納得している余裕は微塵も無い。
些か布団に拘い過ぎたか。
間宮凛。それが彼女の名だ。
高く結い上げた黒の長髪。僅かに日に焼けた小麦色の肌。造りの細かい上質な藍色の衣を身に纏い、切れ長の眼に高い上背を持つ、いかにも気の強そうな女性だ。
実際、その印象は間違っていない。涼奈が彼女の下に付いてからもう少しで二月。少年にはそれが分かっている。
声も出せずに身を震わせる少年に向けて、凛は低い声で問いかける。
「いつまで寝ているつもりだ? 己が職務も忘れたのか?」
「すみません! 直ちに――」
「これ以上、私を待たせるなよ」
涼奈の言葉を遮るように告げ、彼女は部屋を出て行った。
残された少年に、悠長に上官の不機嫌の原因を探っている暇など無い。
涼奈は早急に身支度を始める。とは言っても、この不格好な寝巻姿から着替えるだけだ。着慣れた薄灰色の衣に袖を通し、萌黄色の帯を締める。
足早に自室を後にした涼奈は、廊下を歩く他の者に聞き取られぬよう小さく嘆息した。
これから不機嫌な上官が待つ執務室へ向かう事を考えると、気が滅入らない方がどうかしている。
涼奈がこの王宮に来たのは一月半程前だ。
無論、彼がこの王宮で正式に雇われている訳ではない。第一、辺境の村にいた十五歳の少年が唐突に王宮で働ける道理が無い。
村にいた頃、涼奈は訳あって村長の屋敷に身を置いていた。同じく屋敷に務めていた凛の弟である間宮改が、幼少の頃からろくに村を出た事も無い涼奈に都の暮らしを経験させようと思ったのが事の始まりだ。
現在、ここ卯竜の王宮に於ける涼奈の任は、王宮所属の文官である間宮凛の補佐である。
これで大体の察しは付くだろうが、詰まる所、弟である改が姉の凛に頼んで涼奈を今の立場に付かせたのだ。
いきなりの事で困惑はしたが、涼奈を最も驚かせたのは改の姉が王宮所属の文官だという事実だった。
平民である姉が血の滲むような努力を重ねて今の地位に付いたのか、もしくは田舎の村で用心棒などをやっているあの弟が、実は恵まれた血筋の生まれだったのか。涼奈は後者ではないかと睨んでいる。
取り敢えず、涼奈に言い渡された任期は二月だ。あと半月足らずでひとまずは村へ戻れる。その時改に言うための文句は今の内に考えておこう。あんたの姉が誰かの下に付いている様子が全く想像できない、と。
廊下を歩く涼奈には、擦れ違う者達が自分を見ても驚かない事がとても感慨深く感じられる。とうとう自分もこの場所に馴染んできたのだと。
王宮という場所の性質上、内部にいるのはその殆どが人間だ。見た目は人間と何ら変わり無い妖狐ならまだしも、鬼族が歩いていたら浮いてしまうのは避けられない。
加えて彼は、ただの鬼族ではない。人と鬼の混血、所謂半鬼だ。
鬼というのは大きな体躯を有しているのが特徴の一つだ。しかし涼奈は、鬼族どころか人間の基準で見ても些か背が低い。彼にも半分は鬼の血が流れているのだから、純血の人間よりかは恵まれていてもおかしくないのだが……。彼は体格に関してはほとほと恵まれなかったらしい。
加えて、淡い色である事が多い鬼族の毛色に対し、涼奈の頭髪は暗い灰色だ。その頭部に見える二つの白い角も、純血の鬼のものに比べると少々小振りである。
そんな特異な外見の所為もあり、王宮に来た当初は邸内を歩くだけで好奇の眼差しを向けられていたが、ようやく認められつつあるようだ。
目的地である上官の執務室の前まで来た涼奈は、一度深呼吸してから襖に手を掛けた。中には不機嫌な上官がいる事だろう。
案に違わず、襖を開けた少年は中にいた上官に鋭く睨まれた。開ける中途で既に睨まれていたような感じすらある。
「遅いな」
「すみません……」
「いいからこっちへ来い」
早朝の日が窓から射し込み、室内を明るく照らしている。畳の上を歩くと、日の当たっている箇所が僅かに温かくて心地良かった。
凛は窓を背に文机に向かい、紙の束を整理している。彼女の官職は書記官だ。王宮では主に文書の作成や整理を任としている。
「これから私は客人の相手をしに階下まで出向かなければならない。――書記官である私がだ」
凛は嘆息と共にかぶりを振って見せる。
成る程、と涼奈は思った。
上官の機嫌の悪さは恐らくこれが原因だろう。客人の対応など、本来の彼女の職務から逸脱している。
「相手方が來遠から来た調査隊らしくてな。本来であれば国王殿が相手しなければならないところなのだが、今は別件で手が離せないらしい」
涼奈は苦笑した。然しもの『泰平の国卯竜』の国王も、噂に聞くよりかは多忙らしい。
「來遠の人が何故ここに?」
「調査というのが、我が国の保有する鉱山にある魔力結晶の残量についてらしい。国としても確実に把握しておきたい情報だ。故にわざわざ來遠の調査員を呼び寄せた。その類の技術で來遠の右に並ぶ国は無いだろうからな」
然もありなん。魔力結晶の保有量は国家級の問題だ。――空となった結晶に人間の生成する魔力を充填する技術もある今の時代では、かつて程の重要性は失せているかもしれないが。
そんな国家級の調査を依頼するとあっては、來遠の術者以外に選択の余地は無いだろう。
そも、魔力はその並外れた多様性と無限の用途から、かつてより最も効率的な資源とされてきた。実際、琉月の文明の発展は魔力と共にあったと言っていいだろう。
二百年程前、長きに渡る種族間の闘争が人間の勝利で終結して以来、琉月全土の国々で魔力技術の研究が盛んとなった。
その際に、他国を寄せ付けない圧倒的な発展速度を誇ったのが來遠なのだ。理由として、『元より有能な術者を多く内包していたのでは』などと言われているが、真相は分からない。とにかく、魔力技術の面で群を抜いて優れた国家である事は間違い無い。
故に、此度の調査は來遠の術者に依頼した、という事だろう。
「そういう訳で、調査の間暫くはここに滞在するらしい。今日中に客室へ招き入れ、調査対象の鉱山についても説明をしなければならんのだ」
「じゃあ、これから向かわれるんですね」
納得して涼奈が言うと、上官は首肯を返した。
涼奈は内心ほっとしていた。どうやら今日は上官と行動を共にする必要は無いらしい。
「あぁ。だから、これを持って付いて来い」
彼女が顎で示したのは、文机の上に置かれた大量の紙束だった。