幾度目かの災禍の果てで
涼奈がこの夢を見るときは、決まって視点が低かった。
だから幾度となく見たこの夢の主は、幼少期の人間なのだろうと推していた。勿論、それが幼少期の涼奈などでないことは明らかだ。このような記憶は、涼奈が経験してきた人生のどこを取ろうとも存在しない。
煉獄。それ以外にこの情景を形容出来る言葉を、持ち合わせてはいなかった。
そこは恐らく、つい先刻まで村だった場所。今となっては燃え盛る業火に見舞われて、黒煙が延々と立ち上っている。
天をつかんばかりの巨大な火柱が夜空を焦がし、村全体はおよそ夜とは思えぬ程の明るさを呈していた。これがただ村に火を放っただけでないことは、容易に想像がつく。
実際、この火の量はありえない。あってはならない。――なにがしかの超常的な力が加わっていなければの話ではあるが。
その地獄の様相とは少し離れた――それでも熱気が伝わるほどで、さして距離は無い――村の外れにある湖から、涼奈はその光景を見ていた。
視界に入れただけで目が焼け爛れてしまいそうな紅蓮の炎の波が、村を覆い尽くしているのだ。当然民家は見えないし、人を視認することも出来ない。それでも涼奈がここを村だと解するに至ったのは、声が聞こえていたからだ。
老若男女、様々な質の声が飛び交っているが、その声が示すものは二種類に分けられる。
一方は恐慌、もう一方は嗜虐。対極である二つの声音が、絶え間無く聞こえていた。
鬼だ――誰かが言った。
助けを乞うばかりの声も、怨嗟を滲ませた声も、ただ断末魔の絶望を露にした声も、全て涼奈の耳に届いた。
肉を断つような音が聞こえた。悲鳴は無かった。ぐちゃりと、重い物が僅かに水音を伴って跳ねたような音が続く。次いで聞こえたのは笑い声。嗜虐に満ちた、聞く者を不快にさせる笑声である。
先と同じく、肉を断つ鈍い音が響いた。
周りでは紅蓮の壁が火の粉を散らして燃え盛っていたが、その音は確かに涼奈の鼓膜を叩いた。直後――
ぼとりと、炎の壁を抜けて飛来した物が、涼奈の足下に転がった。――それは人間の頭部だった。
毎回涼奈はこの段になって、これが夢だと気付く。
いつもと同じだ。何も変わりはしないのだ。もう何度目か数えるのも止めてしまったほどなのだから。
当然、最初に見たときは驚いた。初めそれが何なのか認識出来ず、気付いたときにはひどく狼狽した。――今となっては眉一つ動かないが。
それでも、初めてこの夢を見たときから変わらないこともある。
涼奈の足下に転がった頭部は、壮年の男性のものだった。目を剥き口を大きく開け、断末魔の様相を呈したまま固まっていた。
この者の顔を見ると、何故か名状しがたい悲しみに駆られる。そして、次いで沸き起こるのは怒り。見知った男性の顔ではない。それは確かなことなのに、どうしてここまで胸が締め付けられるのか、毎度のことながら理解には至らなかった。
涼奈は後ろを振り返る。そして湖の中央にある小さな島に、社があるのを捉えた。その中央の島までは、赤い橋が架かっている。
その橋を渡ろうとして歩を進めた直後、視界が切り替わる。これもいつもの通りだ。
ほんの一刹那の間に、今し方夜空をついて燃え盛っていた炎は消えた。
この鉄臭さと湿っぽさは、何度回を重ねても変わることはないようだ。日の光など一切射さない、外気も遮断された空間。この場所の陰湿な空気だけはどうしても体が慣れてくれない。
どの辺りがと問われると返答に窮するが、どこか家畜小屋のような雰囲気を感じた。――無論、その比喩に当てはめて言うなら、家畜であるのは『自分達』の方だ。
涼奈は手枷で拘束され、壁に背を預けるようにして座っている。正面を見れば格子がかけられていた。自分が監禁されていると認めるのにはそれで事足りる。横を見遣ると女が一人倒れていた。手を戒められたまま、壁にもたれかかって微動だにしない。さして近い距離ではなかったが、よく見ずとも事切れているのは明らかだった。
部屋を見渡してみれば死骸だらけだった。全て人間のものである。広さは八畳程だろうか。転がる骸の数は容易に十を数えられ、明らかに空間の狭さに見合っていない。
やはりそうだろう。自分達は家畜で、この狭い空間にまとめて放り込まれたのだ。
女の咽び泣く声が聞こえた。
いや、実際には今になって聞こえたわけではない。元々聞こえていたし見えてもいた。それでも故意に聞かぬように、視界に入れぬようにしていた。そこにあるのが何なのか。涼奈は知っているからだ。
格子の外だ。仮に両手の戒めが無かろうと手の届かぬ所で、この夢において涼奈が最も恐れるものが展開されている。
女の肢体が切断されていた。その断面から、夥しい量の血が流れている。残っているのは右腕のみだったが、その右手の形がおかしい。指を二本だけ残し、他は全て無かった。その傷跡を見るに、切断というより引き千切ったと言う方が適切か。
その周りに群がり嗜虐に満ちた哄笑を響かせているのは、三体の男の鬼だった。言うまでもなく、やったのはこの鬼達だ。
猟奇的な残虐性。鬼が元来持つ性合はこの一言に集約されるらしい。
鬼族というのは、人間には想像も出来ぬ猟奇性を内に秘めていると、聞いたことがある。鬼という存在が加虐性の具現であると論じる者もいるそうだ。どちらも涼奈には解し難い話だったが、この夢を見てもなお「分からない」などと言葉を繰れるほど、涼奈も人情を欠いてはいない。
眼は片方が潰されていた。恐怖を与えるためか、片一方は残すつもりのようだ。腕を一本残したのも似たような理由だろう。四肢を断って一切の行動を取れぬようにしてもいいはずだ。そこを腕一本残したのは、この後逃げる機会を与え、切断された指先の痛みに堪えながら片腕で這いずるのを見て楽しむ予定でもあるからか。
殺して――。
彼女の声だ。蚊の鳴くような、極限まで掠れた声だった。直後に聞こえるのは嘲るような笑声。鬼達のものだ。
彼女の傷だらけの身体に、鬼の一人が液体をかけた。
狭く暗い閉鎖空間に、女の悲鳴が木霊した。恐らく鬼がかけたのはなにがしかの強力な酸だ。女の顔が、身体が、みるみるうちに爛れ落ちていく。
この女とて、やはり涼奈の知る者ではない。しかし腹の底から沸いてくる黒い感情は、確かな憎悪だ。
このような光景を見せられれば、誰でも鬼に対する嫌悪は抱くだろう。憎く思って然るべきかもしれない。だが今涼奈の頭にあるのは、そういった嫌悪感からくるものではない。明確な怒りを伴う感情。そこに居る三体の鬼を八つ裂きにして掃き溜めにぶち込まなければ晴れることのない憎しみだった。
ただあくまでも、ここにいるのは傍観者だ。自分は何も成せない。仮に両手の拘束が無かろうと、三体の鬼から彼女を救うことなど、叶うはずもない。
ならば早く醒めてくれと、そう願う以外に術を持たぬ傍観者。
胸の内にあるのは、飲まれそうな程大きな無力感。この無力感は恒常的で、夢の最後は決まってこの感覚に支配される。
どうか早く醒めてくれと、切に願う。
夢の幕引きを知らせるような、鬼の哄笑が轟いた。