9
眠れない。
人生で初めてのことだった。
腹やら頭やら歯の痛みで眠れないことは多々あるが、緊張して眠れないという経験は未だかつてないことだった。
それも明日、いやもう今日になっているだろうか、婚約式が間近に迫っているからだった。
参加する貴族の名前はランシードに作って貰った名簿で確認してある。数が多過ぎて覚え切れず、子息令嬢は親が誰かで判断しようと諦めていた。その親の方は、マハルディーンとベアトリクスに特徴を聞いたが、あまり参考にはならなかった。そのため、誰がどの公爵と親しいとか、後継者争いでメルヴィスとディークリウドのどちらを推していたかなどの情報を覚えることにした。
ディークリウドが皇帝に即位するとしても、力付くで手に入れたもので、メルヴィス側だった者たちの動向に不安が残る今は、まだ派閥を認識する必要性があると感じたのだ。
顔と名前は一致しなくとも、紹介される方の身だ。
背景を覚えることが重要に思えた。
そしてジルフィーネは初めて、大臣職にあった者全員が罷免され、翌日には新しい大臣が任命されていたことを知った。
もちろん、政治的な面を知らされる立場にないことは承知しているが、カサルヴィオス公爵家を取り潰したり、ウルストゥール伯爵を投獄したりと、それだけでも大仕事に違いないのに、平行してそのような人事まで行っていたとは驚きだった。
もう一つ知らされていないことがあった。
前皇帝のカルヴァンの葬儀が秘密裏に行われたと、名簿を受け取った際に聞いた。
それはジルフィーネの衣装を決めるため、仕立て屋や宝石屋が城に来ていた時だ。
あの時間、帝都の王墓内で、司祭の立会いのもと、ディークリウド一人が参列して埋葬されたということだった。
それが終わった足で、喪服を着替え、ディークリウドはホールに来たのだ。
マハルディーンもそれについて口にしなかったし、一緒にドレスの色合いやデザインを考えてくれていたアリューシャとアルビオーネからも、なにも感じ取れなかった。
二人が楽しみにしていたのを知って、後から報告するつもりだったのかもしれない。そういう気遣いをする人だから。
それでも自分にも教えて欲しいと思うジルフィーネだった。
ジルフィーネもある意味当事者であるのに。
一緒に戦ってくれと言ったのはディークリウドなのに。
あの時初めてカルヴァンの皇帝としての想い、父としての想いをジルフィーネは読み取った。ディークリウドもメルヴィスもそうだったらしい。そうであればなおのこと、教えて欲しかったし、話さなくてもいいから一緒についていたかった。後者は立場上無理だから仕方ない。ならば……。堂々巡りだった。
いつか話してくれるだろうか。
父親に対することなら、尚更男性は口にはしないか。
ジルフィーネは切なくなる胸をそっと両手で押さえる。
そうと思えば、こちらもひっそりとやらせて貰えばいい。
ジルフィーネ中で閃いたことがあった。
結婚して皇妃となったら、ランシードにお願いして、カルヴァンの墓を訪れようと。その前にディークリウドが教えてくれたら、嬉しいと思うが、望みは薄いと感じた。
そもそも考えてみれば、お互いに会って話したのは片手で数えられる程度。
それで結婚を決めてしまうなどあり得ない。
自分にそんなことが起こるとは予想もしていなかった。
十九年間、誰一人、そう思える相手に出会えなかったのだ。
想いが宿っていることには気付いていた。
成就するわけがないと思っていたから、いっそ死んでしまおうと思っていたのだ。叶わない想いを抱え続けて、優しくされるのは辛い。
一人だけ生き残って、もう後ろ盾すらないのに、ディークリウドだけではなく、周りに大事にされるのも心苦しい。
それは盗賊に襲われたことで感じたことだった。
自分を殺そうと思ったのもそれが切っ掛けだ。
ディークリウドに告白されて、自暴自棄になっていた自分に後悔したが後の祭りだ。自分でしでかしてしまったから、苦しくても応えるわけにはいかなかった。
なのに、背中を向けられたら、手が伸びていた。
一人で生きて行くのが辛かったからかもしれない。
気が付いたら、ディークリウドを引き止めていた。
自分がこんなにも弱い人間だったのかと思い知った。
二十歳になってどこからも縁談が持ち込まれなかったら、縁を切って一人で生きると豪語していたけれど、それは家族が健在だったからこそ言えたことだと、初めて気が付いた。
ディークリウドが告白してくれなかったら、今頃自分はどうしていただろうと思うとそら恐ろしくなる。
ディークリウドが朝と夜は必ず一緒に食事を摂ってくれることが凄くありがたかった。
対して自分はディークリウドになにか出来ているだろうか。
「婚約式の夜は北の部屋に来て欲しい」
城の者は王族の居住区を『北の住まい』と表現する。だから、北の部屋とは、王族の居住区にある部屋を言う。つまりは、自分の部屋と暗に言っているのだ。
指輪をはめた後から、ディークリウドは甘えてくれる。
それで安心していた。
必要とされていると。
でも、それは勘違いだった。
その後、エルガリーが言ったのだ。
婚約式の行われたその夜から部屋を王族の居住区に移すと。
ただ文字通り部屋を移動するだけの意味と知って、衣装を相談していたあの日、廊下に出て囁かれた言葉に狼狽えた自分が、恥ずかしくなったことを覚えている。いや、思い出すたび、穴があったら入りたくなるほど恥ずかしさに身悶えするジルフィーネだった。
気持ちを切り替えるように、ジルフィーネはベッドから出た。
無理に寝ようとするから、おかしな方向に思考が行くのだ。
眠れないなら、眠くなるまで起きていればいい。
ベッドサイドのテーブルに置かれている水差しの水を、コップに注いで飲んで、気持ちを鎮める。
告白されて、まだ一週間しか経っていないのだから。
まだ一週間しか。
自分だとて、ディークリウドに触れるのに抵抗が、いや、勇気がいるというのに。
マハルディーンとベアトリクスの指導で、一日前になってやっとディークリウドと合同のダンスの練習ということになったのだ。二人に見られているだけだというのに、気恥ずかしさが先に立って、顔を上げられなかったし、まともに顔も合わせられなかった。
これでは駄目だと、ディークリウドが夕方に時間を作ってくれて、またダンスの練習となった。
初日に戻ってステップより、姿勢と、ちゃんと相手を見る、笑顔を作ることを徹底された。
相変わらず、ディークリウドの方は人の悪い笑顔だったが。
あの余裕が憎たらしい。
あの態度を崩さない限り、ディークリウドは心を開いてくれないと思った。あの余裕の態度が消えた時、自分がやっと対等の位置に立った時に違いない。いまは楽しいオモチャぐらいにしか見て貰えていない。だから、自分が成長しなくてはいけないと、ジルフィーネは考えた。
それにはダンスで、照れずにディークリウドを見つめ返すぐらいのことはしなくては。
堂々と間違いなくステップを踏んでこそ、対等に近付ける。
ジルフィーネは奮起して、クローゼットから靴を取り出して履く。
姿見を見ながら、セシルに見て貰っているようにポーズを決める。
最初に踊る曲は決まっていた。
その曲を思い出しながら、足を踏み出す。
一人で練習する分にはステップも姿勢も問題ないようだった。
やはり問題は……。
考え過ぎだろうか。
意識し過ぎ。
その言葉にジルフィーネは真っ青になる。
傍から見たら、この歳で異性を意識し過ぎてあたふたしてるなんて、何者と思われる。披露宴に参加する令嬢たちの多くは外見と爵位や名声で相手を選ぶ傾向がある。
そんな中で一人で舞い上がる自分の姿を思い浮かべれば、マハルディーンやベアトリクスにはどう映っただろう。ジルフィーネは頭を抱えずにはいられなかった。
ジルフィーネはいたたまれずに布団に潜り込んだ。
それがショックで、逆に眠れなくなって、とうとう辺りが明るくなってしまった。
再び気持ちを切り替えようと、ベッドから出て、ソファに身を移す。
雑念を払おうと、参加者名簿を手に取る。
眠くはないのに目が文字を追うだけで、頭には入って来ない。
ジルフィーネは背もたれに身を預け、天井に向かってほうと息を吐いた。
それから、目を閉じる。
「おはようございます」
静かに扉が開く。
目を開けると、部屋は朝陽で明るくなっていた。
少しは眠れたようだと、ジルフィーネは安堵した。流石に一睡もしないで今日一日乗り切れるか不安だった。
「眠れなかったですか?」
セシルが主の姿がベッドではなく、ソファにあったことに複雑な顔を見せた。
「いつ眠れたのか記憶にないけれど、少しは寝れたようだから大丈夫よ」
ジルフィーネは手に持ったままだった、ラシードが作ってくれた今日の出席者名簿をテーブルに置く。
「もう少しお休みになられますか?」
「ありがとう。でも、また練習があるの。だから、起きるわ」
セシルは心配しながら、水を張った盥をテーブルに置く。
ジルフィーネは軽く顔を洗い、差し出してくれた布で水分を丁寧に取る。
セシルが化粧品やブラシなどの用意が整えたところで、いつものようにドレッサーの椅子に座る。
「自分がこんなに緊張するだなんて思わなかったわ」
実はセシルもだった。
だから、もう少しジルフィーネの様子に気を配っておけば良かったと悔いている。眠気を誘うお茶や、香を焚くことも出来たはずだった。
「気が回らなくて申し訳ありません」
「あら、セシルが謝ることではないわ」
「ですが、本日から北の住まいですね」
「セシルにも大変な思いをさせてしまったわね」
皇城勤めの侍女たちは、王族の住居から近い場所に専用の小さな建物がある。セシルは毎朝そこから来て、ジルフィーネがベッドに入ってからそこまで帰るのだ。城内は安心といって、うら若き娘を夜遅くに返すのは心配だったのだ。夜は廊下のロウソクの数も減らされるのだ。
「ジルフィーネさま付きの侍女に抜擢されたのですもの。大変だなんて思ったことは一度もありませんわ。同僚には羨ましがられてるんですよ」
着替えの手伝いにいつも来てくれる顔が違うのは、クジで決めたらしいと聞いていた。
「こんなに歓迎して貰えるとは思わなかったから嬉しいわ」
「この城に勤めている者は皆んな、ジルフィーネさまの味方ですわ」
「私なにもまだしていないのに?」
「どういうわけか、貴族のお嬢さま方は高飛車な方が多くていらして。私たちは王族のお姫さまを見習ったらどうかしらと、いつも思っているんですよ」
「セシルだって貴族のお嬢さまではないの」
セシルは子爵家の娘で、城には行儀見習いで来ているのだ。
「私どもより上の上流階級のお嬢さまですわ」
「そこはどこの国でも変わらないものなのかもしれないわね」
「ジルフィーネさまには陛下がいらっしゃいますから」
「……」
ジルフィーネはつい頬を赤く染める。
意識しない意識しない。
ジルフィーネは化粧をして貰い、髪も短いから耳元から上の方だけをまとめて貰いながら、呪文のようにずっと念じ続けた。
「お食事は摂れそうですか」
ジルフィーネは誤解させたと思い、表情を緩める。
「いつも通りで構わないわ」
少なくして貰ったら、ディークリウドに要らぬ心配をさせてしまうと思ったが、服を着替えながら、残したら料理人に申し訳ないと思い直して、パンとスープだけに変えて貰うように頼んだ。
案の定。
「具合でも悪いのか」
とディークリウドに心配される。
「珍しく緊張してしまって」
「緊張しないわけにはいかないだろうな」
「ええ。なんとかなります」
ジルフィーネは誤魔化し笑いをする。
ディークリウドはなにか言いたそうにしたが、結局言葉が見付からなかったようで、料理を口に運んだ。
「陛下は午前中お付き合い頂いても大丈夫なのですか?」
「ああ。もちろん」
ジルフィーネは心の内で今度こそと気合いを入れる。
「その前に私の方でも、付き合って貰いたいことがあるのだが」
奥歯に物が挟まったような物言いを不思議に思いつつも、二つ返事で頷いたジルフィーネが食後に連れて行かれたのは、王族の居住区だった。
考えてみれば、ディークリウドの兄妹には挨拶を済ませたが、大事な母親に会っていないことに気が付いた。
城内で過ごす普段着で構わないだろうか。
ジルフィーネは急に自分の格好が気になった。ディークリウドに確かめようと思ったが、構わないと言われるだろう気がして、問題があれば、先にセシルの言ってそれなりの服を用意させたはずだと思うから、口にするのを止めたのだった。
結果、止めて正解だった。
王族の住居区はそれぞれの妃ごとに二階吹き抜けになっていて、玄関を入って、正面に二階に続く階段があり、玄関ホールをぐるりと巡る廊下に沿って、部屋の扉があった。そこが家族の部屋になっている。
一階部分には応接間や近衛、侍女の待機部屋がある。
その応接間にジルフィーネは通された。
部屋の家具は壁際に追いやられ、中央にはリボンの巻かれた箱やら包みやらが山積みになっていた。
「左が貴女宛の婚約祝いの品だ」
なんとなく二つに分かれて見えたのは、ディークリウド宛と自分宛とに意図的に区分けされていたからだと、ジルフィーネは納得した。
「本来ならすぐに貴女に渡すべきなのだが、貴女に嫌がらせのつもりで贈られた物もあるかもしれないと、先に中身を調べさせて貰った」
「お気遣いなく。私を心配してくださってありがとうございます」
ジルフィーネが心からのお礼を口にすると、ディークリウドはまだ躊躇うような物言いで続ける。
「なかには口にするような物もある。毒味の検査をさせているが、出来れば、処分させて欲しい」
これにはジルフィーネも目を瞠った。
ディークリウドは反感を買うのを覚悟している様子で、ジルフィーネの表情を窺っている。
ディークリウドが徹底して行いたい気持ちも理解出来る。
カルヴァンはマリルーエが何度となく、ディークリウドを暗殺しようと目論んでいたと言っていた。謹慎処分中でさえ。
「謹慎されていた時にも毒が盛られたと、陛下が、前の」
「父上の言うように油断はしていたが、すぐに吐き出したから、大層なことにはならなかった。だが、耐性のない貴女では少しの量でも命に関わる」
言葉を選びながら話す内容に、実際には命も危ぶまれるぐらいの苦しさや辛さを味わっただろうと想像出来て、ジルフィーネは空恐ろしさを覚えた。
「すまん。今日話すべきではなかったな」
青くなったジルフィーネを、ディークリウドは正面から抱き締めて、あやすように腕を摩る。
「違います」
切なさに、ジルフィーネは声を震わせた。
「簡単に仰らないでください。毒を飲んで、軽く済むはずがありませんわ。言葉をどうか濁さないでください。正直に話して貰えた方が安心します。なにも教えて貰えないのは辛いです」
「それはアルビオーネにも言われた。毒でやられた時には風邪だと誤魔化していたのだが、謹慎中のあれは、アルビオーネが食事を運んでくれていたから驚かせた」
「毒の勉強もしたいです」
「知識をつけるためなら許す」
その言い回しに、ジルフィーネは他に駄目出しされるような内容があっただろうかと眉を顰める。
「知識以外になにかあります?」
問い詰めてみれば、ディークリウドの体がビクッと震えた。
「内緒は禁止です。教えてください」
「毒の耐性をつけたいとか言われるかと思ってな」
「毒の耐性ですか」
「それは絶対に許可できないからな」
「なんでです?」
「……子に影響が出る」
「……」
ジルフィーネは理解して体中から火を吐く。
ドキドキと胸を高鳴らせながらも、毒に過敏になったのは、そのせいだったのかと合点した。
「尚更、知識をつけないといけませんね」
「焦らなくていい。出来なくても、マハルかあるいはあそこのところから養子に貰えばいい」
「陛下は一人で抱え込みがちですから、少しは愚痴ってください」
「愚痴……か。分かった」
ディークリウドが噴き出すように笑った。
「なにが面白いのです」
「嬉しいから笑った」
ありがとうと、唇を重ねられて、今はまだ心の内を無理に聞き出そうとしなくても良いかと、ジルフィーネは思った。