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「坊主。なにカッコつけて酒なんて飲んでんだあ」
突然、筋肉の塊のような腕が、首の後ろに回され、頬を赤らめた面長の男が臭い息を吐いた。
せっかくの酒が台無しだと、ディークリウドは眉を顰めた。
それでも、相手をすれば厄介になると無視を決め込んでいれば、男は襟首を掴んで、床に転がした。
「喧嘩してえんなら、他を当たれ。喜んで相手してくれそうなのが、うじゃっといんじゃねえか」
こんな酒場に二日もいれば、自然口も悪くなると言うものだ。
「腕を試してやろうって言ってんだよ」
「遠慮する」
「一丁前に下げてるもんはお飾りってか。なら、とっととおっかあの胸ん中に帰んな」
「まったく。どいつもそれ以外に思いつかねえのか」
「なんだと」
「悪いね」
ディークリウドは立ち上がって、カウンターに酒代を置く。
カウンターの向こうの親父はすぐにそれを受け取って引っ込める。この後に起こる惨事のための修理代は馬鹿にならない。毎日毎日物を壊され続けて、利益なんて物が残った試しがない。
ディークリウドは邪魔な男とは逆側を通って、とっとと店を出る。
案の定、お約束の「待ちやがれ」の言葉とともに、男が店の扉を壊す勢いで追って来た。
「そのクソ生意気な態度、後悔させてやる」
後ろから襲い掛かる刃を、ディークリウドは鞘のまま弾き返す。それも男よりも素早く。傭兵を生業にして来た男より短い中剣だが、威力は変わらない。
嘲っていた男がニヤリと口端を歪める。
「なめてんじゃねえぞ、小僧」
「傭兵のくせに、こんなところで油売って怪我してる場合じゃ、ねえんじゃねえのか?」
ディークリウドが男に対峙するや、周りが騒がしくなる。
「どっちに賭けるよ」
遠巻きに囲む野次馬の中で、薄汚れたもう元が白かったとは思えないシャツと、汚れた色と同じ茶色のズボンをはいた男が、被っていた帽子をひっくり返して声を張り上げる。
「小僧だ」
「俺もだ」
という声ばかり。
「それじゃあ、賭けにもならねえだろうよ」
帽子を持った男が肩をすぼめる。
二日で腕に自信のある男を五人も倒せば、賭け金欲しさに、そうなっても仕方がない。
「俺は俺に賭ける」
「応援はしてやるよ」
誰も止めろとは言わない。
ここで止めるなら、男がディークリウドに声を掛けた時点で止めている。
折角の楽しみをふいにするような愚か者はここにはいなかった。自分が傷つかなければ、他人の争い事ほど面白い物はない。それしか楽しみがないのがこの町の現状を物語っている。
「覚悟しておけよ、坊主」
男が構えると、ディークリウドも鞘を抜く。
どよめきが起こる。
「剣を抜いたぜ」
「手が剣してやれやー」
「見てやがれ」
外野の言葉に怒りを爆発させた男が、間合いを一気に詰める。
それをひらりと交わして、ディークリウドはその腹に柄を叩き込む。
あっさり膝をついて呻く男を見て、鞘を抜いたのは間違ったかと、ディークリウドはそこを後悔した。
本気で手加減しないと、賭け事にすらならないか。
この収益は町に納めるつもりだから、稼げないと困る。
しかし、本気で傭兵として来ている男たちは、先にディークリウドが言ったように体が資本だから、もうここで馬鹿をやろうとはしなくなった。
金を稼ぎに来たのに、負けてすっからかんにされては元も子もない。
そういう連中がいまや賭ける側に回っているのが、勝敗が分かりきっているから、もうディークリウドがあっさりと相手を叩きのめすことだけを楽しみにしている。
先ほどの男の攻撃で力量に差は歴然としていたのに。つい、見物人を楽しませてやろうと考えたのが馬鹿だった。
男はよろよろと立ち上がって口を拭う。
「頑張れ」
「意地を見せてやれ」
男への声援が高まる。
やれやれと、ディークリウドが肩をすぼめて見せれば、挑発に乗って、男が突進して来る。
ディークリウドはそれを剣で弾き、返す柄で、男の頬を打つ。
白目を剥いて倒れる男をディークリウドも野次馬も、弱過ぎると、呆れた眼差しを送った。
「ついでに、賭けに参加しねえ? 剣抜いちまったし」
ディークリウドが声を掛けても反応するもにはいない。
また明日か。
倒した男のように、新しくやって来る餌を待つことにして、ディークリウドは寝床に引き上げた。
一週間で酒に酔っての乱暴は無くなった。
下町の人間はディークリウドは一度消えたと言ったが、城に着替えを取りに戻っていただけだった。翌日には、目に付けていた空き家を警備兵の駐在所に決めて、自らがそこの住人になったのだ。
小汚く、治安の悪い下町に来たがる貴族が誰もいなかったからだ。
レオン•ロードレル子爵以外は。
意外に上下に区別を付けないところを見て、話しているうちに馬が合い、下町で寝泊まりしていた間も付き合った奇特な人間だった。ディークリウドが喧嘩を吹っかけられるや、打ち合わせもしていないにも関わらず、賭け事にしたのはこの男だった。
そのせいで、性でも、名でもなく、『賭けの兄ちゃん』と呼ばれて親しまれた。
退役して、家で療養生活を送るようになるまでは。
ディークリウドが下町の警備に当たった頃から、胡散臭い連中を相手にすることが増えた。
それは傭兵でもなければ、酒に酔った勢いでの喧嘩でもばなければ、強盗や空き巣でもない。明らかに町にいる人間の目に付かないように襲って来る。
それを悉く返り討ちにしていたある夜。
熱を出した子供を抱えた母親がちょうど、暗殺者と戦っているところに鉢合わせしてしまったのだ。暗殺者はもちろん、口封じに親子に襲い掛かった。ディークリウドがそれを封じた背後で呻き声が上がって、自分の失態に気が付いた。
意識を親子に奪われたところを突かれた。
それをレオンが防ぎ、同時に横からの剣で脇腹を切り裂かれたところだった。
ディークリウドは親子を背後に庇い、レオンが剣で受け止めている相手を追いやり、声を上げた。
「子供が熱を出した。医者を呼べ」
暗殺者たちは姿を見られるのを恐れ、ディークリウドの読み通り、その場から消えた。
ディークリウドは叩き起こされ、レオンの血に立ち竦む住人たちを叱咤して、親子を医者の元に連れて行かせた。レオンは立場上後回しにした。傷が深く、傷口を押さえても出血が止まらない。
子供は家族に任せて来たと、医者が駆けつけてくれたお陰で、レオンは九死に一生を得た。
そのことが切っ掛けで、町中に暗殺者のことが知れ渡ってしまった。
ディークリウドは言わなかったが、誰もがカサルヴィオス公爵によるものだと確信していたようだった。ディークリウドが次期後継者の有力株と目されて、対抗するようにメルヴィスを推す派閥が立ち上がり、その旗印となったのが公爵であり、メルヴィスの母の兄という立場でもあったからだ。
その日を境に、下町の者たちは異常なほどに、カサルヴィオス公爵に対して敵意を秘めるようになったのだった。
そして、ジルフィーネに昔話をしている際、つい零したマグナという名の女性の言葉。
あの公爵家を断絶して大丈夫なのか。
彼らは皇帝をも暗殺しようとする連中だから、公爵を潰しても、同じ派閥にいる公爵がディークリウドを襲うのではないかと懸念したのだ。
ディークリウドはカサルヴィオス公爵の死を以って、この町で起きた事件は封印したかった。
ディークリウドの顔色を見て、マグナを始め下町の者は今後それを口にはしないと、暗黙のうちに了承した。
あのぎこちない会話をジルフィーネはどう受け取っただろうか。
ディークリウドはため息をついて、目を開けた。
それが気になって、あんな昔の夢を見たのかと納得する。
レオンは傷の手当てをする間、ディークリウドの守りとして弟のアルバスを寄越した。下町の警備兵を雇う予算を計上し、翌年に募集を掛け、鍛えて、実際に後を任せるまでの二年を、アルバスと二人だけで過ごした。
レオンは結局傷が元で、復帰は叶わず、それを機に家督を継ぐために、父親の補佐に回った。今もまだ現役バリバリの父親の横で苦い顔を浮かばせている。
婚約披露宴の招待状を一通増やさなければいけないと、ディークリウドはそのために体を起こした。
仕度を整えて、城の東側に向かう。
そちらの棟の一階には晩餐会や舞踏会などが行われるホールがあり、三階には主に招待客の休憩や泊まり客のための食堂に使われる小部屋が、四階以上には宿泊者用の部屋がある。
ジルフィーネの部屋もその一角にある。
ディークリウドが足を向けたのは彼女の部屋ではなく、その下の階にある食堂に模様替えした小部屋だ。
ジルフィーネの姿はまだ無く、窓から外を覗く。
季節の花々に彩られた花壇と緑豊かな芝生を迷路のように植え込みが巡っている。上から見ないと分からない姿を、二十七年経って初めて知った自分に、ディークリウドは呆れた。もちろん、二十七年間ずっとこの形ではないだろうが、勿体無いことをしたと後悔した。
ディークリウドは舞踏会の間に庭に出たことはなかった。一人で庭にでも出れば必ず放っておいては貰えない思えたからだ。さすがにアルバスを連れて男二人で散策しても面白いわけがない。だったら、部屋に引き上げた方がいい。
これからは相手がいるから、庭に下りてみるのもいいかと、ディークリウドは密かに計画した。
窓を開けて、朝の清々しい空気を吸い込んでいると、ノックがする。
「失礼します。おはようございます。お連れ致しました」
侍従長のエルガリーがいつものように黒の燕尾服に同色のスラックスをシャキッと決めて、扉を押さえてジルフィーネを招いた。
「おはようございます」
今日の服は昨日アリューシャと選んだうちの一着だ。自分の物という意識からは昨日よく見た着慣れないような素振りは見られず、ディークリウドは安心した。
「昨日は疲れなかったか?」
「お湯にゆっくり浸からせていただいたので」
「それは良かった」
ディークリウドとジルフィーネは向かい合うように席に着く。
テーブルは八人掛けようの大きさだが、それを広い辺にそれぞれ一人で、優雅に使っているが、食器がすでに設置されてるので、広過ぎるとは感じない。
お互いの距離が程よくあればいい。
左右の広さなど、食事中には目に入りはしないものだ。
侍従が入って来て、二人のグラスに水を注いで、部屋の一角にあるサイドテーブルに置き、自分もその脇に控える。
「今日のジルフィーネさまのご予定ですが、ご昼食までの時間にダンスのレッスンをして頂きます」
「はい」
「教師は弟とその婚約者のベアリクス•サズラン伯爵令嬢だ。マハルディーンには残って貰うことになってしまったからな」
ジルフィーネは昨日の昼食でのやり取りを思い出し、クスリと笑みを零す。
「エルガリー。やはり、てきとうな教師を探しておいてくれ」
「問題でも」
「あるから言っている」
「承知致しました」
ディークリウドの苦み走った表情と、それでも涼しそうな顔ままのエルガリーとを見比べて、ジルフィーネは目を細める。そして、相談したいことがあったのを思い出して、尋ねてみる。
「陛下。じつは他にもしっかり言葉を覚えたいのと、文字を覚えたいのと、貴族の方々で知っておかないといけない方々はいらっしゃいますかね」
「貴族は……」
ディークリウドは両腕を組んで唸る。
確かに必要といえば必要だろう。
なにも知らずにあの中に飛び込めと言うのは酷だろう。
「後で宰相をしているランシードに用意させる。言葉と文字はエルガリー、頼む」
「承知しました」
エルガリーが手帳に書き込む。
「それから、ついでにですね。地理や歴史も覚えたいのですが。これはおいおいにでもお願い出来ないでしょうか」
「貴女から申し出て貰えてありがたい」
「そのようなことは」
恥ずかしそうにジルフィーネは俯く。
「予定の続きですが」
エルガリーが一息置いて、報告を続けた。
「お昼過ぎから仕立て屋などが集まり、婚約披露式、結婚式、戴冠式のためのご衣装をお決め頂きます。また、陛下におかれましても、お二人の背のバランスを見たいとの要望がございますし、陛下もご衣装を決めなくてなりませんから、そのおつもりでいてください」
「だいたいデザインは決まっているのだろう」
面倒臭そうに言うと、エルガリーの片眉がピクリと跳ね上がった。
「分かった」
ディークリウドは白旗を挙げた。