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ほんの数時間前に血濡れた床は、タイル敷きとあって、綺麗に何事もなかったかのように、艶やかな輝きを取り戻していたが、中央に敷かれていた敷物だけは取り払われていた。
そんなことさえ、四人の公爵たちは気付いていない。
何しろ午前中に起こった寝耳に水の政変劇に、落ち着いていられるわけもなかった。しかも、カサルヴィオス公爵家が当主とその妹第一妃遺体が、帝都館に運び込まれた後、家族以外は謹慎と、館すべてを騎士が取り囲むという前代未聞の処置がなされたのだ。
それもディークリウドの手で。
いったいなにがどうなってこうなったのか。
慌てて駆け付けてみるも、騒然とする城内にあって、近衛騎士たちはキビキビと職務を全うし、公爵たちの不満に顔色一つ変えず、指示通りに控えの間に通した。
いつもなら、同じ部屋で待たされるのだが、いくら待ってもほかの公爵が現れないことも不思議だった。
まさか、いまこの瞬間にも、ほかの公爵と話をしているのではないかとさえ、疑いと不安に居ても立ってもいられなかった。
「お待たせしました」
近衛騎士に呼ばれて、慌てて部屋を飛び出すも、同じように焦った様子の顔馴染みを見れば、自分だけではなかったと安心が口元に笑みを浮かばせた。
そして、入室した謁見の間。
苛立ちをぶつけようとした相手はまだ姿を見せていなかった。
「わたしはディークリウド殿下が玉座についたと聞いたが」
ジュベール公爵が同じディークリウド派のラウムッサ公爵に話し掛けた。
「わしもそう聞き及んでおる」
ジュベール公爵より十歳も年上のラウムッサは上から目線でそう応じる。
それに対し、トルフウォール公爵アブダヴュース公爵は、メルヴィス派の旗印とも言えるカサルヴィオス公爵が亡くなったこともあって、なにも言い返せない。
だから話を変える。
「カルヴァン皇帝はどうなされたのだ」
口にしたトルフウォール公爵以外の公爵が口をへの字にして押し黙る。
次期後継者を何某に決めたと発表があり、お披露目があって後に、戴冠式を皇帝の手で執り行ない、新しい皇帝が立つというのが一般的な流れだ。
カルヴァンはまだ後継者を誰にするのかすら決めていなかった。
最有力候補のディークリウドは自室謹慎とされていた。
カサルヴィオス公爵の死が四人の公爵たちに与えた影響は恐怖以外のなにものでもなかった。
カルヴァンはともかく、まさかディークリウドがカサルヴィオス公爵の帝都と領地双方を、軍を用いて封鎖したのだ。
なにが原因でそうなったのか。
ここへ来たのは、それを知るためだった。
次は我が身かもしれない。
自分たちの力添え無しに皇帝となってしまったディークリウドに対して、ラウムッサ公爵もジュベール公爵も平静ではいられない。皇帝に推し上げた功績を以って、ディークリウドからあらゆる利権を得ようと画策していたのだ。だが、カサルヴィオス公爵に対する処置を見て、彼らの考えがいかに甘かったかを見せ付けられたいま、ここが彼らにとっても正念場だった。
「皇帝陛下の御成りである」
扉を開けた近衛騎士の厳粛な声にも、公爵たちは立ったままだ。
近衛騎士が更に叱りつけようとするのを止める声があった。
近衛騎士が二人先に入り、玉座の横に着き、それに続いて入ったディークリウドが玉座の前に立った。残る二人の近衛騎士が入って来た扉の左右を警護するように立った。
「こちらから連絡をする前に来るとはさすが公爵どのだな」
「何故、殿下がそこにいるのだ」
「なにから話そうか。父のまずは遺言からかな」
「遺言」
「亡くなった」
「殿下が」
ディークリウドは色を失くす公爵たちを無視して、ようやく玉座に座る。
「まあ、落ち着いて我が話を聞け」
ディークリウドのカルヴァンを彷彿とさせる静かなる威圧感に、公爵たちは息を呑んだ。
ディークリウドは寡黙な男だった。
彼らが挨拶しても無視するように返事をしたことすらない。会話も考えてみれば、成り立ったことすらなかった。
彼はメルヴィスが皇帝になれば良い。自分はその補佐に回る。出来れば、兄の跡を継いで総大将の地位に収まりたいというのが彼の唯一、彼らに示した希望だった。
ディークリウドは後継者争いにも興味がない姿勢を貫いて崩さなさかった。
タリスク王国侵攻までは。
帰国したディークリウドと接触しようにも、唯一手に入れたタリスク王国の領地で、彼は元領主の娘という令嬢を別荘に匿っていたのが露見して、自室謹慎となって、その真意を確かめることさえ出来ずにいた。
そして手をこまねいているうちに政変が起こった。
公爵たちはディークリウドという人物を見誤っていた己を呪った。
ディークリウドは公爵という立場をいかほどにも思っていないのが、泰然とした姿から容易に読み取れる。はったりではない。同様の一つも見えられない。心底から、自分たちは取るに足らないと、その目が口が言っている。
「まずは妃の話からすべきか。父にとって妃には大した序列はない、ということだった。第一妃と呼ばれていたマリルーエどのも、一人目の妃という認識しかなかったと。四人いる妃のただ一人という認識しか持っていなかったということだ」
「な、なんですと」
マリルーエがそうだったように、公爵たちは動揺を隠せない。
「後継者にしてもそうだ。一度も自分はメルヴィスが後継者候補に挙げたことも、後継者候補の一番目と言った覚えはないとな」
「……」
「い、いや、勝手ではない」
「父が皇帝であり、父の考えこそが、父の御代の法だ。慣例は通用しなかった、ということだ」
「……」
「では、カサルヴィオス公爵とマリルーエさまが亡くなったのは」
「父が処罰した。マリルーエの罪名は私への暗殺。謹慎初日に毒を盛られた」
「……」
然もありなんと、公爵たちに驚きはなく、その処罰は妥当と感じたようだ。
ディークリウドが次の言葉を発しないことにラウムッサ公爵が問う。
「どうかしましたか」
「いや。わりと大人しい反応に驚いている。鼻息も荒く問い詰められると予想していたのでな」
ディークリウドが人の悪い顔で、口の端を歪める。
公爵たちはたじろいだ。
呑まれている。
「カサルヴィオス公爵は、さきも言った父の考えに、自分たちの先はないと見たのか、あそこから父の暗殺を企て、返り討ちに遭った」
ディークリウドが左手を上げて、二顔部分にある廊下の窓一つを指差した。
公爵たちの視線がそこに向かい、釘付けになる。
「さて、おまえたちも、安心している場合ではないぞ」
「どういうことです」
「おまえたちは知っているはずだな。おまえたちが率先して戦を仕掛けたのは私も知るところだ。私とメルヴィスが何度口にしたか、もう耳が痛いぐらいに聞いているはずだな」
「……」
公爵たちはここはディークリウドの出方を見ようと、誰も発言するものはなかった。
「忘れたのか。おまえたちの交代も考えなければならないか」
「……」
ディークリウドの射殺されるかと思うほどの視線に、公爵たちは言葉を口にすることも敵わない。
ディークリウドは組んでいた足の上で両腕を交差させ、前屈みになる。
その動作一つでも目が離せない。
「伯爵領」
公爵たちの顔が青ざめる。
「特にメルヴィスが総大将になってから任じられた伯爵領に限って、税を上乗せしているな。自分たちの懐は痛まず、戦戦と言っていられるのも、伯爵領内の領民の血税あってのことと、知らないと思っていたか。おまえたちはその領主が来るまで私が仮の領主として、働いていたとは知らないようだな」
「……」
「取るに足らぬことと思われたか」
ディークリウドは楽しげに声を上げる。
「領主の選定が行われている間に、私がぼんやりしているとでも思ったか。戦後処理の一つには言語通貨の統一はもちろん、税率の換算まで含んでいる。報告には入れていないからな。知らないのも当然だ。甘かったな」
「な、何故、いまになって」
「ウルストゥール伯爵領の現在を申してみよ」
「ウルストゥール伯爵領?」
「ああ。ペイルゼン伯爵から先ほど報告があった。父に呼ばれて帝都に戻る際、かの領内を通って見れば、誰一人我が国の言葉を話せない。通貨も変更などされず、それまでのハルスベルグ王国の通貨で税を納め、お金が無くなった後には、物資などで納めさせていたという。それはペイルゼン伯爵に同行していた、私の騎士団の者が証明している」
「そ、それが」
「それが我らとどういう」
「いいや。私とメルヴィスが国が疲弊しているからと戦を思い留まるよう進言したことに対し、父がウルストゥールの現況も知らないくせに口ばかりと言ったのでな。確かに書面だけで、その後の様子を見なかった私たちにも責任がある。だが、私たちによりも、皇帝としてそれを二年も放っておいた罪は重い。そうは思わないか」
「……それで」
「お父上を罰せられたと」
「自分を殺す意気込みがなくては、皇帝にはなれんという、父の最終試験というところから。父は私とメルヴィスどちらかが、自分を殺して玉座を取るのを待っていたらしい。でなければ、おまえたちに振り回されて終わりだと。それが父の課題だ」
「それは殿下の都合の良い解釈では」
「都合の良い解釈で構わんさ。これは剣を交えた者同士にしか分からぬこと。その場にいた者にしか分からぬことだ。そして、私の都合のいい解釈かどうかは、ここにいる近衛騎士たちの姿が証明してくれる」
公爵たちはだらだらと嫌な汗を掻いていた。自分たちの意見はまったく通用しないことが、じわじわと身に染みて来る。先が見えない。この地位を保つことすら危うくなって来たのではと、感じるまでになっていた。
「これでカサルヴィオス兄妹の死。カサルヴィオス公爵家の封鎖。父の死についての疑問に、いや、私が皇帝となった経緯について理解して貰えただろうか」
「カサルヴィオス公爵家の今後は」
「帝都に加える」
「……」
「父の暗殺を企てた者たちだ。いつ爵位の復活を掲げるか知れん。故に、我が手で統治する。臆するわけではないが、それが内紛の火種となり、血が流れる恐れもある。恐れがあるなら、いまから断つ。異存はないだろうな」
ここで異を唱えようものなら、自分たちの領地も没収され兼ねない気迫に、公爵たちは同意する他に道はなかった。
何故、崖っぷちに追い込まれた気分にさせられるのか。
公爵たちは釈然としないまま、退去を命じられた。
「一つ言い忘れたことがある。今日中に大臣をすべて更迭する」
公爵たちは息が止まった。
眩暈を起こし掛けた者もいる。
「ウルストゥールのことを考えれば、当然の処置だな」
「法務大臣は」
「それを訊くか?」
「いいえ」
公爵たちは身震いしながら、首を左右に振る。
下手に突かれれば身が危うい。
ディークリウドは一緒に更迭しても良いと言っているように見えて、公爵たちは逃げるように去ろうとした。
「待て、もう一つ、言っておこう」
公爵たちは身を翻すのを止めて、恐々と次の言葉を待った。
「今日の午後に触れを出す。私の即位式と婚約式を一週間後に執り行う。急なことを故に、集まれる貴族だけで良い。結婚式の直後、皇帝皇妃の正式な戴冠式も執り行う。その時に主だった者を含め全員が集まれれば良い。日程は追って知らせる」
「陛下が婚約……ですか」
「それは例の」
「ペイルゼンの元領主の娘ジルフィーネだ。別荘に匿っていたことは事実だが、それ以外にも尾ひれはひれがついていたようだが、おまえたちはその噂を鵜呑みにすることはないだろうな」
「もちろんですとも」
「婚約披露式を楽しみにしておくが良い。妄想がただの妄想だったと納得もしよう」
今度こそ、ディークリウドは公爵たちの足を止めはしなかった。
謁見の間を出ると、誰からともなく大きく息を吐き出した。
誰の口からも溢れなかったが、死ぬ思いだった、生きた心地がしなかったという同義語が脳裏に浮かんでいた。
前回がジルフィーネの素の登場なら、次回はディークリウドの素でしょうか。さてさて、意外に押しの強かった(これも作者の知らなかったこと)どういう展開になることやら