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ノックがして、訪れたのはメリスリッテだった。
「ご無事でしたか」
ジルフィーネは窓際の椅子を立って駆け寄り、心底心配してくれる様子に立ち竦む相手の手を構わず握り締める。
「お茶をお持ちしますわ」
お辞儀をして去ろうとするジルフィーネ付きの侍女になったセシルに、ジルフィーネがお願いをする。
「待って。メリスリッテさまはお食事はまだでしょう。一緒にどうか確認して貰えるかしら」
「いえ、私はすぐに」
断るメリスリッテを無視して、ジルフィーネは目配せで強引にセシルを向かわせる。
メリスリッテの手を引いて、ソファに誘い向かい合って座る。
「メリスリッテさま。私、勢いで、その、指輪を頂いてしまったの」
「え、勢い……?」
「断るつもりだったのです。いえ、実際、断ったんですけど」
「陛下のことはお嫌いではないでしょう」
「え、と」
ジルフィーネは首を傾げる。
「貴女らしくもないわ。嫌だったら、きちんときっぱり断るでしょう。相手が皇帝だから断れないとはさすがに思えないわ」
鋭いところを突かれて、ジルフィーネは冷や汗をダラダラと流す。
「此の期に及んでなにをジタバタしているのかしら」
「不安でならないのですわ」
ジルフィーネは震えだす手をこすり合わせる。
「陛下はこのような私で良いとおっしゃってくださいました。あの時は……」
いえ、とジルフィーネは声のトーンを落とす。
「私、死のうと思ってました」
「!」
メリスリッテは初めて本人の口から出た言葉に息を呑む。散々周りから聞いていたことだったが、彼女は目の敵にして来たから、有り得ないと否定して来た。
「ここに着いたらすべてが終わる。そう思って来たので、突然、昨日なんですけど。陛下に自分を犠牲にするなと言われてしまって。私、陛下を信じているつもりで、私が命を賭けてお守りするんだとか、おこがましいことを考えていたことに恥ずかしくなったりもしたのですが。でも、死ぬつもりでいたのに、この先どう生きようかと思ったら、途方に暮れてしまって。ペイルゼンにも帰れないですし」
「どうして」
「別荘を使わせて頂くわけにもいきませんし、街に住むと言っても許しては貰えないでしょうし」
「いいじゃない。別荘に住めば。誰も文句は言わないわ」
「そこが問題なのです。断ったしても、陛下はいつまでも私の心配ばかりしてくれそうで」
「……惚気……なの?」
「惚気?」
「陛下が貴女のことばり気にしてくれるだろうって自信満々で言うから」
「や、だって、そんな気迫で迫……」
ジルフィーネは言えば言うだけ泥沼にはまっていくことに気が付いて、真っ赤に染めた頬を両手に包む。
メリスリッテは呆れて言葉も失う。
そんな時にセシルがお茶を持って帰って来た。
ジルフィーネは何ごともなかったように、澄ました顔で、セシルを迎える。
食事の件が了承されたと報告しながら、テーブルに二人分のお茶を出して、セシルが退室すると、ジルフィーネはふっと緊張を解いたのが、メリスリッテにも分かった。
「結局は押しに負けて指輪を受け取ってしまったと言うわけでしょ」
メリスリッテは結論付けると、ジルフィーネはまた顔から炎を吹き上げる。
「なにが問題なの。嫌ではないのでしょう。喜ぶべきところじゃないの」
「本当に、喜んでもいいのでしょうか」
「陛下も貴女も望んでいるのでしょう」
「陛下を信じていると言いながら、やっぱり不安なのです。どこの馬の骨とも分からないような娘で、後ろ盾もないのですよ」
「後ろ盾もなにも、きっと父なら喜んで親代わりを買って出るし、きっとそういう話をなさってると思うわ。陛下が父と話があるって引っ張って行かれましたもの」
「やはり、後ろ盾があった方がいいのでしょうか。ご迷惑になりまりません」
「いま言ったでしょう。父は大喜びよ」
「メリスリッテさまは?」
問われて、メリスリッテはうっと目を反らす。
「後ろ盾どうこうではなくて、こうしてご相談に乗って頂けると嬉しいのですが」
「なに言ってるの」
メリスリッテは驚いた勢いで立ち上がりそうになる。
「こうやってなんでもお話出来るのはメリスリッテさまだけですもの」
「貴女のことを噂に流したのは」
「それは陛下が問題ないとおっしゃられたではありませんか」
にっこりと女神のように微笑むジルフィーネに、メリスリッテは頭痛を覚える。
「貴女って、人にはどこまでも優しいくせに、どうして自分のことには厳しいの。普通逆じゃないの」
「メリスリッテさまも思われたのではない? 私のどこを取っても令嬢らしところなんてありませんでしょう。カサルヴィオス家にいた時にも思いましたもの。私はこちらでも浮いてしまう」
「浮い者同士でいいのではないの。陛下も、得意な方ではないのですから」
「……」
ディークリウドがもてないと言うのが今一つ、ジルフィーネには理解出来ないことだった。ディークリウドに縁談が舞い込み始めたのは、後継者に名が上がったせいで、それまで誰一人ダンスの申し込みすら無かったと聞いている。ジルフィーネにとっては会った瞬間から、ディークリウドは優しい存在だったのだから、それも仕方がないことだった。
「陛下はまだどなたとも踊られたことがないのでしょう」
「だからこそではない。陛下に選ばれたのは自分だけと胸を張っていればいいのだわ」
メリスリッテはじとりと前のめりになって、ジルフィーネに言う。
「いつも腹の据わった貴女が、なにを物怖じしているのかしら」
「でも、でも、ですね。それはもう落ち着かなくて」
あの後、自分の世話をする侍女頭と侍女二人を紹介して貰い、早速、湯殿に案内され、服もディークリウドの指示で嫁に行ったアリューシャのクローゼットに残っている中から似合いそうなのを借りて来たと言って、それを着させて貰っている。
「そういえば、陛下とお会いになったことって」
「私が別荘に移る数日の間でも、二、三度。別荘で一度でしょうか」
「それだけで結婚を決められるって、なにが決め手だったの」
「……」
ジルフィーネは魚のように口をパクパクさせて、意味にならない単語だけを零す。
「ここまで話したのだからいいじゃない」
メリスリッテに話したことで気持ちも落ち着いた。これからもメリスリッテには側にいて支えて欲しい存在だ。
「素敵……ですし。お優しいし、誠実ですし」
「ぱっと見た瞬間この人いいって思ったの」
「そ、そんな一瞬では。やっぱり話さないと分からないですし」
ジルフィーネは思い出した。ペイルゼンの教会で髪を切った朝、自分の姿が見えないと、ディークリウドが探しに来てくれたことがあった。その迎えの馬車で、ディークリウドを前に思ったのは、会話が出来ないのが苦しいという思いだった。それがきっかけで、ウォンバルト語を必死に勉強したのだった。
その時点で恋心があったと言うなら、これは一目惚れというのだろうか。
「ね、その指輪って結婚指輪?」
「え、はい。陛下が結婚式に交わすのは国の紋章入りと決まっているから、婚約指輪にはこちらをと」
「ピッタリ?」
ジルフィーネが左手を差し出して見せた指輪が、違和感なく薬指にはまっているのを、メリスリッテは目敏く気付いた。
「いえ、多少ぶかぶかですわ」
「でも、これって、既製品ではないから、用意されてたってことよね」
「ええ」
「陛下も隅に置けないわね」
関心しきりにメリスリッテに見つめられて、ジルフィーネは居たたまれなさを感じた。
セシルが食事の準備が整ったと、案内されて行った先の部屋には、ザイールとディークリウドの姿が既にあって、ジルフィーネは回れ右をして帰りたくなった。
ディークリウドが当然のように席を立って迎えに来てくれて、当然のように隣の席を引いて座らせてくれるから、穴があったら埋まりたい気分になった。
「ご婚約おめでとうございます」
ディークリウドが席に落ち着くのを待って、ザイールが祝いの言葉を掛けた。
「ありがとうございます」
ジルフィーネは顔さえ上げられなくなっていた。
「私にもやっと分かったことがあるんです」
メリスリッテが唐突に言った。
「ジルフィーネさま。ずっと思い詰めてらしたのですね。声のトーンも違うし、笑顔もまったく違うし。ご自分では気付かれていなかったのでしょうけれど、周りが心配するのも分かりましたわ」
「そんなに酷かったですか?」
ジルフィーネは青くなるが、隣りのご仁には訊けない。
相手が顔を窺って来ても、目を反らしてしまう。
「それを言ったら、私もかしら」
「やけに嬉しそうですね」
「メリスリッテさまがいてくださって、ほんとに心強いのですもの」
「貴女にはほんとに敵わないわ」
「どちらか姉が分からない会話だな」
「当然ですわ。こちらでは右も左も分からないのですもの」
しゅんと肩を落とすジルフィーネの発言に、三人は衝撃を受けた。ジルフィーネは自分の意思を貫いて生きているような、芯の強い娘だとばかり思っていた。だが、それは大きな間違いだった。
ジルフィーネは父の代わりとして常に民のことを先に考えて来た。領主並みに大きな責任を一人で背負っていたのだ。その重荷を誰にも預けられずに。そして重荷を感じさせさえしなかった。
帝都に向かう間であっても、メルヴィスやディークリウド助けるためだと、ずっと気を張っていたに違いない。
「先ほども話したが、ラルフラング隊は今日付けで、我が騎士団から抜け、貴女の近衛騎士団となった。制服はまだだが、支度が整ったら、貴女の部屋の警護始めることになっている」
「帰って来たばかりですのに」
「交代での警護だ。貴女も知らない顔が外にあるよりはいいだろう。困ったことがあれば、なんでも言えばいい。メリスリッテどのにも来て貰えばいい」
「よろしいんですか」
メリスリッテの話題になって、ジルフィーネは恥ずかしさも忘れて、ディークリウドに期待の篭った輝くような笑顔を向けた。
「メリスリッテいいかな」
「勿論ですわ」
ディークリウド初めて言葉を掛けられ、メリスリッテは顔をほころばせた。
「ありがとう、メリスリッテさま」
澄まして畏まっているだけがジルフィーネでがありません。知らず、そうなっていただけです。(作者も知らなかった)
これからは素のジルフィーネがたくさん登場します。お楽しみに。