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鴛鴦の契り  作者: 笹川 歌
一章 愛縁奇縁
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すれ違う夜

 日が暮れるにつれて、稜迦はだんだんと自分の身体が緊張していくのが分かった。


 宗偉が荷物を全て邸の中まで運び入れてくれて、そして邸から去って行くと、稜迦は急に不安になったのだ。

 宗偉は本当に好い人だった。覚秦の言う通り誠実で稜迦も安心して話ができた。

 だが、カガイとはどうだろう? 初対面であれだけ震え上がって会話さえろくにできなかったのに、果たしてこれから一緒に住む事ができるのか? しかも、夫婦として。

 絶対に無理だ。と言う気持ちと、いや、大丈夫。と言う気持ちを行ったり来たりしていた。

 まず最初に、稜迦が今朝カガイに対して取ってしまった態度を謝らないといけない。殆ど目を合わせることができなかった。今度は怯えずに相手と接していかなくては……と思うのだが、そんなことがこんな自分にできるのか。なにより、カガイが怖い……。

 そんな風にウダウダと考えているとあっと言う間に夕方になって、夜の帳が落ちた。


 そわそわと夕餉の支度をしながら、いつカガイは邸に帰って来るのかと稜迦は気が気ではなかった。

 だが、夕餉が出来あがった後になってもカガイは一向に帰って来ない。


 覚秦は確かにカガイを夜に戻らすと言っていたが、予定が変わったのかもしれない。もしかしたら、もう今日は帰って来ないのかもしれない。


 心のどこかでほっとした稜迦だったか、外から馬の嘶きが聞こえてきたので飛び上がって驚いた。

 カガイが帰って来たのだと直感する。

 台所にいた稜迦は、ガタガタと震える身体を叱咤してゆっくりと玄関の方へと足を向けた。

 大丈夫、大丈夫だと自分に思い込ませ、小さく深呼吸をしながら稜迦は心臓の早さを落ち着かせそうとする。

 粗相をしてはならない、初対面であのような態度を取ってしまったのだ。きっとカガイは気を悪くしただろう。きちんと出迎えないといけない。

 稜迦は細かく震える指先を子擦り合わせながら、大きく息を吸った。


 しかし、玄関から表に出てもカガイの姿が見当たらない。

 すぐ横の馬小屋を見ると確かに馬がいて、鞍を外されて水を飲んでいた。

 出迎えるのがあまりにも遅かったのだと、その瞬間に気付いた稜迦は慌てて邸の中へと戻る。

 だが、カガイがどこにいるのか分からない。玄関から出て来たのにカガイとは鉢合わせなかった。


 少しの間、おろおろとしていた稜迦だったが、そういえばと今朝の事を思い出す。

 カガイは水場の離れにいるのではと考えて、急いでそちらに向かった。

 きっとカガイは中庭に通じる横道を通って行ったのだろう。

 稜迦はもうすでに落ち着いてはいなかった。頭は混乱しており、冷や汗が流れる。


 そんな稜迦が廊下の角を曲がろうとしたとき、いきなり目の前に大きな黒い影がぬっと現れた。小走りをしていた稜迦は驚いて後ろへと転びそうになる。

 衝撃に備えて反射的に目を瞑っていた稜迦だが、その身体を引っ張る強い力があった。

 稜迦が慌てて目を開けると、すぐ傍にカガイの身体が見える。稜迦は血の気が引いていくのを感じた。

 黒い影はカガイだった。その腕が稜迦の身体を支えていたのだ。

「……なにをしている」

 恐ろしい程の低い声が間近で聞こえて、稜迦は自分の身体が強張ったのが分かった。

 すぐにカガイは稜迦の身体を離したが、稜迦は身体の強張りを解く事ができない。

「申し……わけ……ありません……」

 震える声でそう言うのが精一杯だった。頭が真っ白になって次の言葉が出てこない。

「……あ、あ……の……」

 口を小さく開閉しながら、目線を下に落とす。

 そうするとカガイの足が見えた。なんて大きいのだろう。

 稜迦はもうそれだけで恐怖していた。

 相手は怒っているのだろうか。何も言ってこない。その事が稜迦の焦りを強くしてしまう。

 これでは今朝とまったく同じではないか、だけど、どうしたらいいのか頭が混乱して考えられない。

 稜迦が言葉を出せずにいると、カガイの足が踵を返して稜迦から離れて行く。

 稜迦は慌てて顔を上げ、自分を鼓舞して声を出した。

「あの……!」

 その声で数歩先にいたカガイは立ち止まり、顔だけ振り返って肩越しに稜迦を見る。そんなカガイの仕草にさえ怯えてしまうが、稜迦は何とか言葉を続けた。

「お、お出迎えができなくて、申し訳ございませんでした……お、おか、お帰りなさいませ……」

 カガイは動かないまま稜迦の言葉を聞いていた。目が前髪に隠れていて、その表情を読み取る事ができない。それが稜迦の不安をさらに煽る。

「あ……夕食の用意ができておりますが……召し上がられますか……?」

 稜迦はドクドクと鳴っている自分のうるさい心臓の音を聞きながら返事を待つ。そして、恐る恐る言った稜迦の言葉に返ってきたのは「あ……」とも「ん……」とも聞こえる低い唸り声のようなものだった。

 稜迦がその返事に戸惑っていると、カガイはどしどしと囲炉裏のある部屋へ歩いて行く。

 囲炉裏のある部屋は台所と隣接しているので、カガイがご飯を食べるのだと稜迦はやっと気付いた。

 稜迦はハァと小さく息を吐いて、急いでカガイの後を追いかけていった。



 稜迦はびくびくしながらカガイをちらりと見る。

 その目線の先で、カガイは稜迦の用意した夕餉をガツガツと音をたてて食べていた。

 男がいない家庭で育った稜迦は、このように食事をする人に慣れていなかったし、集落の青年たちもここまでがさつに食べる人は居なかったように思う。

 稜迦も一緒にご飯を食べていたが、恐怖で味が感じられない。それどころか、空腹を感じられなくて少しも箸が進まなかった。

 稜迦が半分も食べれない内に、カガイは鍋から汁物を三杯もおかわりしていた。

 多く作ったつもりだったのに鍋がカラになったのを見て、その食欲に驚き稜迦は目を丸くする。そんな時、不意にカガイが声を出した。

「……式を、したいか……?」

「え……?」

 突然声を掛けられて稜迦は箸から煮物を落としてしまう。

 最初、なんの事を訊かれているのか分からなかったが、それが結婚式の事だと稜迦は気付く。

「俺はどちらでもいい……もともと呼ぶ者もいない……いや、いない訳ではないが……お前はどうだ……?」

「わ、わたしは……」

 稜迦は急いで考えたが、すぐに答えは出た。こちらに家族も友人も居ないのだ。

「わ、わたしも……どちらでも構いません……」

 言った後、確かに胸が痛んだ。

 カガイは分かったと声を出して立ち上がる。稜迦はびくっと身体を震わせてしまった。

「……風呂に入る……」

 そう言って大きな足音をたてて去って行くカガイを見送りながら、稜迦はどうしようもなく悲しくなる。

 本当は式を挙げたかった。いや、憧れていたのだ。

 姉の結婚式も夏師の結婚式も集落の人が沢山集まって、本当に賑やかだった。なにより幸せそうな花嫁の姿を見て、稜迦もいつか自分もあのように笑えたらいいなとずっと願っていた。

 仮に、ここで稜迦が式を挙げたいとカガイに言ってみたらどうなるだろう?

 考えてすぐにやめた。自分が望むものにはきっとならない。

 世間では挙げるのが当たり前なのだが、式は儀式のようなものなので、挙げなくても自分たちが夫婦なのはもう変わらないのだろう。それにもう、今更だと思う。


 パチパチと音をたてる囲炉裏の火を見る。勿体ないと思いながらも、稜迦は食事の手を止めた。もう喉を通らなかった。


 しばらくして、稜迦が夕餉の後片付けをしていると、いつの間にか風呂から出たカガイが近付いて来ていた。

 髪が水気を帯びており、初めてその目が見える。

 見えたと同時に稜迦はまたしても怯えた。

 見えたカガイの目は黒目が小さく、目付きが鋭かった。きっと稜迦を見ているだけなのだろうが、ひどく睨まれているように感じる。

 稜迦がその場から動けずに震えていると、カガイが目の前に立つ。

「……お前も、風呂に入れ……」

「は、は、はい……」

 カガイは稜迦が返事をすると囲炉裏の方へと歩いて行く。今朝と同じで上に何も着ていないカガイの背中は、やはり傷痕だらけだった。

 その後ろ姿を見ながら稜迦は腰が抜けそうになるのをなんとか堪えて後片付けを急いだ。



「わあ……」

 躊躇いがちに足を踏み入れたお風呂場に、稜迦は小さな感嘆の声をあげた。

 モアッと白い湯気が立ち込めるその場所はなかなかに広い。

 なんて贅沢なんだろう。

 人一人が入っても悠々とある岩風呂に今から自分が浸かるのだ。心なしかわくわくしている。

 いつものように布で身体を擦り、桶があったので岩風呂からお湯をすくい、少しずつ身体にかける。

 ちょっと熱いお湯は身体の芯まで温まりそうだ。

 少しドキドキして足の爪先からお湯に浸かる。

 ゆっくりと身体を沈めていき肩までお湯に浸からすとハァと大きな息を吐いた。

「……気持ちいい」

 不思議と身体の力が抜けて、頭が落ち着いたように思える。

 今日一日が本当に長く感じられた。こんなにも長い時間、緊張していたのも初めてだった。

 カガイが帰ってくるまで考えていたことも、全部上手くできなかった。きっと稜迦に対しての印象は最悪だろう。

 カガイが元から無口な人なのか、それとも稜迦があんまりにも怯えるから気を悪くして言葉が少ないのか、分からない。稜迦もカガイ相手に言葉多く喋れないので会話がまったく続かないのだ。


 稜迦は俯いて水面に映る自分の顔を見つめた。

 トウシナは稜迦を美人と褒めてくれたが、稜迦自身はまったくそうとは思えない。

 水面に映る自分にぎこちなく笑った顔をしてみせた。そして、すぐにやめてバシャッと顔を拭う。

 なんだか、すぐに泣き出しそうな顔だった。



「あ……あの、お風呂、ありがとうございます……すごく、気持ちよかったです……」

 すっかり長風呂になってしまって、バタバタと囲炉裏の部屋までやって来た稜迦はカガイに声をかけた。

 囲炉裏の前で槍の手入れをしていたカガイは、顔だけを稜迦に向ける。

「……使っていなかったのか……?」

 一瞬きょとんとした稜迦だが、すぐに意味が分かって返事をする。

「あ、はい……あの……お伺いをしてから、と……思って……」

「訊かんでもいい……好きにしろ……」

 被せるように言われて稜迦は言葉に詰まる。

 俯いたまま立ちすくんでいると、カガイが声を出した。

「先に寝台に行け……俺も行く……」

 稜迦はまたきょとんとした顔になったが、カガイの言っている意味が分かり心臓が凍りつく。


 そこからの記憶が曖昧だった。

 はたして返事をしたのか、していないのか分からないまま、いつの間にか寝台にいてガタガタと震えていた。

 夫婦がやるべき事柄なのだ。稜迦だって知識が無い訳じゃない。覚悟だってあった。分かっていた事だった。なのに、今まで失念してしまっていた。


 待って、落ち着いて。大丈夫、でも、駄目、怖い、怖い、怖い! ……あの人が怖い。


 暗い部屋で自分の震える手を、泣きそうになりながら見る。すると、乱暴な足音が聞こえてきた。

 稜迦は固まる。震える事もできなくなった。

 寝室の扉を凝視していると、その扉を開けてカガイが入って来る。

 暗闇の中で目が合ったように思えた。

 そのまま近付いて来るカガイから稜迦は目を逸らせなかった。カガイが目の前まで来て稜迦の肩をトンと押す。

 すると、稜迦は簡単に後ろに倒れて、その上にカガイが覆い被さってくる。

 稜迦は息をするのも忘れて、本能的に上へ身体をずらして逃げようとしたが、その腰をカガイが掴んで引き戻した。

 稜迦はとっさに上げようとしていた悲鳴を、両手で口を押さえて飲み込んだ。


 駄目、駄目、駄目、耐えなければ。拒否してはいけない。終わってしまう。それだけはいけない。


 稜迦の頭の中でさまざまな事がぐるぐるとかけ廻った。

 母の事、姉たちの事、自分の中にあった結婚に対しての淡い希望。これからの事。

 街で見たあの女性の姿が最後に残る。あの人も自分と同じ鴛鴦之契によってこの地に嫁いで来たのだろうか。ひどくやつれていた。不憫に思う。でも、あの姿は、自分にだって起こりうる姿なのではないのか。カガイから愛想を尽かされたら、いずれは自分もあのような姿になるのだろうか。

 そう思うと、辛くて、今を決して拒んではいけないのにポロポロと涙が出てきた。

 

 稜迦のか細い泣き声に気付いて、カガイは手を止める。それでも稜迦は泣き止む事ができない。

 稜迦は焦り、両手で顔を覆い隠したが、自分の意思とは逆にどんどんと泣き声は大きくなってしまう。

「……も、もうし、……っうぅ……あり、ま、……っひ……くぅ……」

 手の隙間から流れ溢れる涙が止まらない。もう終わりだと稜迦は思った。

「ごめっ……ごめんなっ……さいっ……うぅ……ごめんなさい……ゆ、ゆる……し……っ」

 混乱した頭で稜迦は許しを乞うた。まるで幼い子供のように。

「……やめろ……」

 頭上でカガイの掠れた低い声が聞こえる。それがまるで獣の唸り声のように聞こえて、稜迦の身体は震え出した。

「ゆるし、て、くだ……っう……おね、おねがっ……」

 稜迦のその言葉で、カガイは稜迦から身体を離した。

 急に軽くなった身体に気付いて、稜迦は今だ涙が流れ落ちる目でカガイを見る。

 そうしたら、カガイの後ろ姿が見えた。寝室から出て行くところだった。

「……すまん……」

 小さな声でそう言ってカガイは部屋から出て行く。稜迦の方を見る事はなかった。

 稜迦はのろのろと身体を起こして、茫然としながらカガイが出て行った扉をしばらくの間、見続けた。


 その夜から、カガイが邸に戻らない日々が続く。


 

 

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