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鴛鴦の契り  作者: 笹川 歌
一章 愛縁奇縁
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朱国にて

 そして、さらに数日を重ねて稜迦はとうとう朱国の都へと到着した。

 その都の名は儒郭(じゅかく

 稜迦が馬車の窓からこっそりと見た街並みは、人々の喧騒と活気に溢れていた。

 それから程無くして都の中心部から外れた、竹林を背に建てられている邸に稜迦が乗っていた馬車は停まる。


「足元にお気をつけ下さいませ」

 稜迦の身の回りの世話の為に、黎国から共に来た女中が言葉をかけて稜迦に手を添える。

 稜迦は、「はい」と緊張しながら答え、恐る恐る馬車から外へと出た。


 稜迦は自分が嫁ぐ相手のことを、身分ある者としか聞いていない。

 黄桓はこの婚礼を政策と言っていた。黎国の公主様のような方が関わっているぐらいなのだから、きっとその政策に見合う役職を持った方なのだろう。

 都に邸が在るならば、自分の夫となる人は宮中に勤める役人であろうか、と稜迦は考えていた。

 そしてそう思うのと同時に、このような形とはいえど、そんな人物相手に今まで市井で暮らしてきた稜迦が嫁いで来て、不愉快に思われはしないかと不安と恐怖で胸がいっぱいだった。

 貴族のような礼儀も何も知らない稜迦に、夫となる人物はどのような印象を受けるだろうか。

 呆れられ、嫌われなければいいと思う。

 

 緊張で身体が震えていたが、稜迦は頭から被っている薄い面紗越しに前を見て、その邸へと足を踏み入れた。


 ガヤガヤと人の声が稜迦の耳に聞こえてきて、稜迦の身体が一層固くなったとき、一人の若い男と黎国から共に来た従者の男が、何やら狼狽した様子で話をしているのが見えた。

 この従者の男は確か、稜迦が都に着いた事を先立って伝えに出ていたと記憶している。

 訝しく稜迦は二人を見ていたが、それに若い男が気付くと、あっと声を出して何処かへと走って行った。

 もしかすると先程の若い男が自分の夫となる人だろうかと思っていた稜迦は、どうやら検討違いだと気付く。だが、この慌ただしい様子はどうしたことだろうと不安になり、従者の男に声をかけた。

「あの……何かあったのでしょうか?」

 声をかけられた従者はばつの悪そうな顔をして、口をもごもごと動かしただけで何も答えようとはしなかった。

 それで余計に不安になり、稜迦もおろおろとしだした頃、強い足音で此方に向かってくる男が見えた。その後ろには先程の若い男も焦っている様子で付いて来ている。


 稜迦は思わず後退った。

 その男は見るからに若くは無かったのだが、その身体から放たれている圧は並々ならぬ印象を稜迦は受けた。これが威厳と言うものかと。

 稜迦は目の前まで来たその男を震えながら見上げる。

 男は稜迦の怯えに気付いたのか、まなじりに皺を寄せて優しく稜迦へと笑み、深々と礼をしながら声を出した。

「遠路はるばるようこそお出でくださった。私は青丹(せいたんと申す。お疲れで無いだろうか? どうぞ邸にてお身体を休めて頂きたい」


 青丹と名乗った男の言葉に稜迦はほっと身体の力を抜いた。きっとこの人が自分の夫になる人だろう。稜迦は少し安堵した。

 最初の印象と違い、何とも柔和そうな人だと稜迦は思った。決して若くは見えないが、今まで妻をめとった事は無かったのだろうか。それとも自分はこの人の後添いであろうか。と考えたところで稜迦は我に返った。

 この優しそうな人の妻になるのだ、歳が離れていようと良いではないか。それよりも、まだ此方から挨拶をしていないことに気付き、焦りながら稜迦が口を開こうとしたとき青丹が先に言葉を出した。

「そして、お詫びを申し上げたい。言いにくいのだが……この邸の主、貴女の夫なる男はまだ帰って来ていないのです」

 稜迦は口を開いたままポカンとした。青丹は続ける。

「貴女の夫となる人物は、私めの部下にて一軍を預かる将なのですが、つい先日任務を終え帰還後、行方が判らなくなり……いや、もともと放浪癖がある男でしてな……無事なのは確実なのですが、どこにいるか判らない状態でして、人を使って探しているのですが、なかなか……」

 稜迦は呆然としたまま、夫となる人だと誤解していた男の言葉を、「はぁ……」と何とも気の抜けた声で答えながら聞き続けた。



 ◇



 それからまた数日後。

 太陽がちょうど中天に差し掛かるころ、あちらこちらから聞こえる訓練中の兵卒たちの声を耳に入れながら、覚秦(かくしんと言う男は大股で廊下を歩いていた。

 たった今、自分の配下の兵をしごいてきたところだが、身体がまだ足りぬとばかりに疼いている。

 決まってこんな時は、自分の友でもあり武功を競いあう良き好敵手の男と剣を交えるのだが、その肝心の相手は何日か前から行方不明であった。

 行方が判らなくなるのは今に始まったことでもないが、今回に関して覚秦は腹を立てていた。

 そんな折、その原因のひとつである男を見つけると覚秦は大きな声を出して呼びかける。


「親父殿!」

 親父殿と呼ばれた男、青丹は、「ん?」と声を出して覚秦の方へと顔を向けた。

「なんだ、覚秦か。どうした?」

「いえ、親父殿が先日、奴の嫁となる娘子にお会いしたと耳に入れましてね。それで、如何でした? そのまま黎国へと舞い戻りましたか?」

 覚秦の言葉に青丹は苦笑いを返した。この男は昔から言葉に遠慮がない。

「いいや、最初は驚いていたようだが、すぐ落ち着かれてこちらの話を聞いていた。今もあの邸であいつの帰りを待っているぞ」

 覚秦は大袈裟なため息を出してみせた。

「あぁ、それはそれは。娘子のお優しい人柄に救われましたね。……だから俺は反対したんです! 奴に婚姻など向いていないとっ! まったく親父殿は何をお考えか!? 身分ある女性など面倒極まりない!」

「おいおい……」

「雄鳥だか雌鳥だか判らん政策なんぞに奴を使う意味はあったんですか? 否、無いでしょう! どっちも不幸になるのが目に見えていたじゃないですか、合わなすぎる! 絶対上手くいかない! すぐ分かったじゃないですか、奴は絶対自分の婚姻の事を忘れているんですよ。事の大事さを、奴も親父殿も充分に分かっちゃいないんです! 今頃あいつの邸で侮辱されたと泣き喚いているでしょうよ、嫁は!」

 喚いている覚秦を唖然とした様子で見ながら青丹は答えた。


「鴛鴦之契のことを言ってるのか? えらい言い間違えようだな、驚いたぞ。……まさかお前が縁組に入りたかったのか?」

「違いますよ! そうではなくて、何故この政策に奴を選んだんだと俺は言っているんです! 推挙したのは親父殿だと訊きましたよ、どう考えても合わんでしょう! 奴の性分をよくご存知のはずです」

 青丹はやれやれというように首を横に降り、それを見た覚秦はまたもや腹が立ったが、覚秦が何か言う前に青丹が口を開く。


「お前の言い分も分かるがな、あいつは先の戦で一番の武功を立てた。位も上がった。率いる兵卒の数も増える。なにかと箔をつける好機にもなろうよ」

「俺はまったくそうは思いませんがねぇ」

「ははは、お前の中身は繊細だからな、互いのことを気遣っているのだろうが……まぁ、例えて言おうか……アレを見てみろ」

 青丹が指でさした方を覚秦が渋々といった様子で顔を向けると、そこには実が幾つか生っている一本の木があった。

「あれがなんです?」

「うん。あの実をお前たちに一つ採って来いと命じたとしよう。そうすると、お前は得意の弓矢で実を落とすだろう、奴に関してはどこかその辺りの斧でも投げて実を落とすと思う。結果は同じだが方法が違う。それを見てお前たちは互いのやり方を学ぶだろう? そして成長する」


 青丹の言葉を覚秦は怪訝な顔で聞いていた。

「また別に、道具を使わずに実を一つ採って来いと命じたとしよう。お前たちはおそらく木を登り採って来るとは思うが、どちらかが一方を担ぎ上げ実を採った方が早い。これは互いがいなくてはできぬことだ。身分や立場など関係ない。自分ではない誰かがいるからこそできる事がある」

「まぁ……仰りたいことは何となくは分かりますが……分かりにくい例えですね……」


 青丹は声を出して笑う。

「この婚姻が上手くいくか、そうでないかは誰にも分からんことだ、まだな。だが、これを気に奴が家を恋しがるようになれば万々歳と言ったところじゃないか?」

「呑気なもんですね……はぁ、まったく……」

 覚秦は小さくため息をついた。



 ◇



 馬の嘶きがどこか遠い場所で聞こえる。稜迦はふと目を覚ました。

 最初に違和感を感じながら目を擦り起き上がる。このような豪華な布団や毛皮が家にあっただろうかと首を傾げたところで、稜迦はここが自分の嫁いで来た邸の寝室だと思い出した。


 青丹と言う男性より事を聞いてから数日が経っていたが、まだこの邸の主、もとい稜迦の夫となる人物は帰って来ない。

 邸の主と顔を合わせてもいないのに、ここで暮らしていても良いものかと狼狽えていた稜迦であったが、青丹は妻となるのだからと当然と言いはり、夫を見付け次第すぐに連れて戻る、と申し訳なさそうに言い残し去って行った。

 次いでその翌日、黎国からの付き添いの面々も役目が終わったとばかりに嫁ぎ先の相手が戻るのも待たず、早々と国へと帰っていた。

 情などは無かったが、彼らが居なくなることで僅かに残っていた故郷との縁が切れたような思いが、稜迦の中に落ちる。


 それに加えて、夫となる人物は武人だと青丹から聞いたとき、稜迦は努めて顔には出さなかったが、まるで臓腑が凍ったような感覚に陥っていた。

 稜迦は何故か、戦に出ることの無い宮中に仕える官史が自分の相手だと思い込んでいたのだ。

 稜迦の中であの恐ろしい夜が甦る。茂みの向こうで自分たちを嘲笑っていた兵たちの声が耳に残っていた。

 けれど、青丹の誠実そうな人柄を垣間見て、その恐怖も僅かに鳴りを潜める。

 この方の部下と言っていたし、政策に関わるような人物なのだから乱暴な人柄ではないだろう……と稜迦は自分を落ち着かせる為、そう思う事にした。


 稜迦は軽く手櫛で髪を整え寝室を出ると、ちょうど朝日が登って来たようで、周りは明るくなり始めていた。

 稜迦は顔を洗うため、水場のある離れへと足を向ける。


 どうやらこの邸は使用人などを雇ってはいないようで、稜迦にとっては逆にそれが気を使わずに済むし、家事なども母と暮らしていた頃から得意であったから何ら困ることもない。

 だがしかし、最初に邸へと入った日に稜迦は勿論、共にいた女中も小さく悲鳴を上げていた。

 至る所に槍や戈や斧などが散乱していて、その中には何かの獣の骨もあったから。

 固まっていた稜迦に、青丹と共にいた若い男が、「いえ! どうか誤解なさらず、武勇溢れる方なのです」などど焦りながら言い出し、他の女中と一緒になって邸を片付けていた。


 邸の中は確かに汚かったが、家具や物などは極端に少なかった。あるとすれば寝室の寝台やその上にある豪華な布団と山盛りになっていた毛皮など。

 台所には鍋やら樽なども沢山あったが、いつ使ったのか、洗っているのかも分からない有り様であった。

 それを何とか使えるようにしたのは、つい昨日のことである。


 だけど、稜迦が小さく喜んだものもあった。

 中庭が広く、遮るものも無いので日の光がさんさんと降り注いで見える。

 これならば洗濯物だってすぐに乾くし、庭には何も無かったので、夫となる人に許しを得たら、花や野菜を育てることも出来るだろう。


 寝室などがある母屋から中庭を挟んで奥、壁がなく柱と天井のみの廊下が続く先に、水場である離れもある。

 これもまた稜迦が驚いたことなのだが、そこは井戸ではなく、裏の竹林から引いてきているのだろうか、水がそのまま竹筒を通じて流れ、大きな水瓶へと溜まっていた。そして水瓶から水が溢れ出ないように後ろの下の方に小さな穴があり、そこから通じて裏の小川へと流れ出ているのである。

 そしてさらに、その水場の離れの中には風呂場があるのだが、それがなんと温泉であった。

 普段水を浸した布で身体を拭いているだけで、なみなみとあるお湯に身体を浸からすなど、生きてきて今まで一度も経験したことが無かった稜迦は目を丸くして驚いた。

 しかし、興味津々ではあったが稜迦はなんとなく夫となる人の許しを得てから使おうと思い、未だその場に足を踏み込んではいない。


 夫となる人物は一体いつ戻られるのだろか。稜迦はそう思いながらトボトボと廊下を歩く。

 もしかしたら、この婚姻が嫌で戻って来たくはないのだろうかと考えたが、もしそうなのだとしたらきっと稜迦とは違い、断る事もできたのではないかと思う。

 なぜ戻って来ないのか理由が分からない。その事がここ数日、稜迦の新たな重荷になっていた。

 もし、このまま戻って来ないのならば自分は母たちのもとへと帰れるのではないかと淡い希望を持ち、そしてすぐそんな訳が無いと考える。

 自分の意思で故郷に帰ることはできない。けれど、もし相手が自分を拒否すれば、もしかしたらなどと思ってしまう。

 稜迦は未だ絶ち切れていないのだ。


 けれど、それが危ない道ということも理解していた。

 もし、戻れたところで冬が来る黎国で黄桓の保護が無いまま母たちと生きていける保証はない。

 なにより黄桓の脅しがあった。

 万が一稜迦が逃げ戻るようなことが起きれば、きっとあの男は躊躇いもなく母たちを手に掛けるだろう。

 そう思った稜迦は息苦しくなり、深いため息を出しながら離れへと足を踏み入れた。


 瞬間、稜迦は心臓が跳ね身体が動かなくなる。


 誰かがそこに居た。

 中はまだ薄暗くてよく見えないが、水瓶の前に大きな男がいるのが分かる。

 男はすぐ横にあった柄杓で水を飲み、そして自分の身体に頭から水を掛けた。

 賊だと直感した稜迦は早くここから逃げなくてはと思うのだが、身体が氷のように固まって動いてくれない。

 すると視線に気付いたのか、男はゆっくりとした動きで稜迦の方へと振り向いた。

 入り口の柱に掴まっていた稜迦だったが男が振り向いた途端、僅かな段差につまづき、小さな悲鳴を上げながら入り口の外へと尻もちをつく。


 そんな稜迦に男はゆっくりと近付いた。  

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