家族との別れ
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
稜迦は馬車に揺られながら、そっと窓の暖簾をめくり外を見た。ちょうど、街道の端にひっそりと生えている木の枝で二羽の鳥がさえずっているのが見える。
だが、すぐ一羽の鳥が枝から飛び去り、残りの一羽もその後を追うように枝から離れて行った。
稜迦は浅いため息をこぼしながら窓から離れ、またぼぅっと馬車に揺られるだけとなる。しばらくしてまた浅いため息を吐き、なんとはなしに自分の足下に目線を落とす。すると見えるのは、この短くも長くとも言えない旅路で何度も見た、彩り鮮やかな沓を履いた自分の足だった。
今の稜迦は、着たことなど今まで一度もない豪華な衣服で身を包んでいた。
稜迦は顔を上げ、目を閉じ、何度目かも分からないため息を吐いて、数日前を思い出す。
あの日、出会った男はやはり稜迦の実の父であった。
唐突に告げられ唖然としていた稜迦に、父と名乗る男はこう話を続けた。
「お前の母、乾曜は宮中に仕える女官であった。……それは知っていたか?」
稜迦は驚きながら頭を小さく横に振る。そのような話を聞いたことは無かった。
「元々は下級武官の娘であったが、当主が戦で亡くなり没落した。アレは頭が良くてな、教養があり、そして美しかった。ゆえに宮中でも働いていけたのだ」
「……はい」
稜迦は、ただ呆然と答えることしかできなかった。
今思えば確かに、母は周りの女たちと少し違っていたような気がする。何と言えばよいのか、粗野な部分がなく、どこか上品な雰囲気があった。なにより、母は文字の読み書きができた。
暮らす土地によっては、子供に文字を教える塾があったが、将来、宮中に仕えるだとか、商家で働くだとかの目標がなければ、通う子供は少なかった。小さな子供でも田畑で働く家にとっては重要な働き手であったからだ。
稜迦の家もそうであった。作物を育て、自分たちの糧とし、時に街に売りに行き、街道をゆく旅人に売る。そうした収入で稜迦たちは暮らしていた。
ほんの少し他と違ったことは、子供の頃、空いた時間に母から文字を教わっていたことだ。だから稜迦は文字が読めたし、書くこともできた。
「お前の母と儂は宮中で出会った。……娘を前にして言うのもなんだが、儂はすぐ乾曜に恋慕してな、あちらも応えてくれ、婚姻もしない内から子ができた。お前の姉になるか」
稜迦はただ黙って聞き続けた。
「婚姻をしなかったのには訳がある。当時、宮中で内乱があってな、簡単に説明するとだな、儂の家と、没落したとは言え乾曜の家とは派閥が違っていた。ゆえにそう易々と乾曜を妻にはできなかった。下手をすると互いの命、お前の姉の命も危なかったのだ」
稜迦の耳は男の声と、外から僅かにする水音を聞いていた。雨が降ってきたのだろう。部屋が少し暗くなっている。
「儂は時期を待った。アレを別邸に住まわせ、そこに儂が通う日々となった。その中でできたのがお前だ。……しかし、その日々も終わりを告げた。儂の婚姻のせいだ」
男の眼がすっと稜迦を見る。男は続けた。
「儂の父は当時の尚書令でな、高官であった。父が持ってきた縁談を断ることが可能ではなかった。愚かであったと思う。乾曜やお前たちには辛い思いをさせた。お前たちの暮らしていた場所は知っていたが、会いに行くことはできなかった」
稜迦は男の話を聞きながら混乱するのと同時に、なにか得体の知れない気持ち悪さを感じていた。
男が話す内容は理解できたのだが、本質が分からない。あのように、乱暴に連れて来られて話される内容では無いように思う。
父と名乗った目の前の男は、何故、稜迦のみをこの場に連れて来たのか?
男の意図が読めない稜迦は恐怖ゆえか、言葉を発する事ができずにいた。そんな稜迦に構うことなく、男は言葉を続ける。
「此度の戦で、お前たちがどうなったか分からず不安であったが、無事で安堵したぞ。……して、お前はいま幾つになった?」
突然の男からの質問で、稜迦の肩が僅かにはねた。
「じゅ……十八です……」
「十八……ふむ、結婚はしておるのか?」
「い、いえ、まだ……」
稜迦は俯きながら小さな声で答える。頬が赤くなっているだろう。今の時代、稜迦のような年頃の娘は結婚していることが普通なのだ。
だが、稜迦のその言葉を聞いた男は静かに口の端を上げる。目を伏せていた稜迦は、男のそんな表情を見る事はなかった。
「ふむ……。お前は先の戦で我が黎国と争った国を知っているか?」
稜迦は顔を上げ、困惑した表情でうなずきながら、はいと答えた。
「あの……名前は、朱国と覚えています……」
旅商人が昔、稜迦の住む集落で語っていた話を思い出す。様々な国や部族と戦い勝利し領土を拡大している大国だと。
「うむ。此度の戦で我が国は朱国に敗れた……。それはお前も知っていよう、それにより黎は朱国の属国となったのだ」
男は淡々と喋っていたが、その声には僅かに苦渋の響きがあった。
「そして、黎と朱で鴛鴦之契と名付けられた政策が行われる。……これについては知っているか?」
稜迦は首を横に振った。鴛鴦之契という言葉など聞いたことも無かった。
「率直に言うと、婚姻を交わす事だ。両国の結びつきを堅固なものとする。ゆえに黎から朱へと輿入れが行わる。我が黎国の姫が朱国の王族へ嫁がれるのを筆頭に、高官達のご息女、数十人が朱へと嫁ぐことが決まったのだ」
男の眼が稜迦を離さない。稜迦は自分の指先がまるで血が通ってないかのように、冷たくなっていくのを感じた。
「先程の言葉をもう一度言おう。我が黎国のため、お前が必要なのだ」
「あ、あの……意味が……意味が分からないのです……なぜ、そんな……」
稜迦は上手くできない呼吸の中、やっと言葉を出す。目の前の男が恐ろしく、そして信じられない思いでいっぱいだった。
「な、なぜ……わたしが? いきなりそんな……わたしにその中に入れと仰っているのでしょうか……? 信じられません、そんな話……。貴方が父親であっても、そんな……」
稜迦は上手く言葉が出てこない自分が不甲斐なかった。早くこの場から逃げてしまいたい。
「い、いきなり現れて、あなたが父親なんて誰が……信じるとでも? いいえ、父親ならば……父親だったならっ……なぜ、こんな話を……なぜわたしに……。か、帰ります。お願いします、わたしをお帰しください……! わたしはあなたのような身分の方なんて存じ上げません、きっと勘違いをしてわたしを此処に連れて来たのです……!」
稜迦は震えながら声を出す。目の前の男がただ小さく息を吐いた瞬間、稜迦は堪らなくなって勢いよく立ち上がり扉へと走り出した。
怖い、恐ろしい、きっとこのままでは母たちに一生会えなくなる。
だが、ぶつかるようにして辿り着いた扉は、引いても押しても開くことは無かった。
「見苦しい」
男の声がして稜迦が振り向くと、男は椅子に座ったまま此方を見据えていた。
「お前は現実が見えておらんのだ。よく考えなさい、今の自分たちの事を。これからどうやって生きていく? 住む家もなくなって、食べ物は? もうすぐで冬が来るぞ。凍え死にたくはあるまい?」
稜迦は震える口を僅かに開け、そして閉じる。目線を下に向け、自分の薄く粗末な服を見た。
この男に言われなくとも稜迦は分かっている。決して清潔では無い場所で暮らしているせいで母の怪我の治りは遅い。姉に至っては出産を控えている。あのような状況で無事産めるのか? 母も姉も気丈に振る舞っていたが、やはり稜迦は心配で堪らなかった。
そして冬が来るのだ。
黎国の冬は厳しい。冬が来る前に十分な蓄えがあって、ようやくその寒さを乗り越える事ができるのだ。
「お前たちを助けてやろう」
男のそんな声が聞こえてきて、稜迦はゆっくりと男と目を合わせる。そこには椅子に座したまま、然も優しそうな笑みを浮かべた男がいた。
「助ける……?」
稜迦は消え入りそうな声を出した。外の雨音に混じって聞こえづらいその声を、男は拾って答えた。
「うむ。お前の家族に家屋を与え土地を与えよう。食料も衣服も全て心配いらん。飢える心配など無くなるのだ、約束しよう」
稜迦の身体は石のように動かなくなった。
「知っているのだ、お前の母が怪我を負っていることも。心配であろう? それと、お前の姉の夫のこともだ。徴兵からまだ帰って来ておるまい? 無事かどうか調べることもできる。もしも捕虜になっていたら、此方に帰すこともできよう」
稜迦は知らず知らず扉から離れ、男の言葉に耳を傾けていた。
「お前もだ。身分ある者に嫁ぐことになる。光栄なことだ。家族と離れることになるが、衣食住に困ることも無い。安穏とした生活を送ることができるのだ」
男は椅子から立ち上がり、稜迦に言った。
「答えるべき言葉はもう分かっていよう……?」
稜迦は雨音がさらに大きくなるのを感じた。
◇
「ーーっ稜迦!」
それから数日後。よく晴れた日の朝、稜迦は馬車で、ある屋敷の前に連れて来こられていた。
馬の蹄の音で気付いたのか、屋敷から乾曜が飛び出して来る。
「母さん……!」
母の無事な姿を見て、稜迦は安堵すると同時に胸の奥に痛みが走った。これから伝えねばいけない言葉で、決して泣いてはいけない。
髪を結い、絹の衣服を身に纏った稜迦を見て、乾曜は片方の足を引きずりながら稜迦へと走り、その身体を抱き締めた。
「稜迦、怪我は無い!? 何をされたの? あの人に……黄桓に会ったのね?」
「母さん、わたしなら大丈夫よ。それより母さんはお医者さまに診てもらったのよね? きっと怪我は良くなるって……黄桓様が言ってたの。それに……それに此処が母さんたちの新しい家だって……凄い! こんなに大きな家、きっと苦労することなんてないわ」
自分の顔は上手く笑えているだろうか、そんな事を思いながら稜迦は言葉を続ける。
乾曜も、いつの間にか佳毘を連れた楊翠もその場にいたが、二人とも稜迦の顔を愕然とした表情で見ていた。
「こ……黄桓様が助けてくれるって……姉さん、わたしたちの父さんは朝廷のお役人様だったのよ! だから全部、心配要らないって! 赤ちゃんだって無事に産めるわ」
「稜迦……あんた……」
「あーう、あー」
佳毘が小さな手を稜迦に伸ばしてくる、稜迦はその手を両手で包み込むように握った。忘れないように。
「佳毘、綺麗でしょ? この衣裳凄いよね。わ、わたし……わたし、朱国の身分ある人のお嫁さんになるの。凄いでしょ」
稜迦のその言葉を聞いた瞬間、乾曜と楊翠は物凄い形相で稜迦を掴んだ。
「稜迦! 何があったの!? あの男に何を言われたの!? 駄目よ!! そんなこと絶対に許さないわ!」
「稜迦! わたしは知ってたのよ、自分たちの父親が誰かって。あいつは母さんとわたしたちを捨てたの! 権力に喰われている獣よ! あんな奴の言う事を聞いては駄目!!」
稜迦の脳裏にあの男の言葉が木霊していた。泣いては駄目だ。
「姉さん、黄桓様が義兄さんの事を調べてくれるって言ってたの。それに、わたしが朱国に行ったら、わたしも調べられるかもしれない。旦那様になる方は権力がある人って訊いたもの。きっと義兄さんに関しても力を貸して貰えるわ」
「稜迦! わたしたちにあんたを売るような真似をさせないで!」
「違うわ、わたしは望んで行くの! 誰も損なんてしない! 姉さんたちだって生きていく事ができる! そうでしょ!? わたしは母さんたちが苦しむ姿を見たくないの!!」
楊翠は目を丸くした。内気な妹がこのように自分に向かって叫ぶ事なんてまったくと言っていいほど無かった。
咄嗟に言葉に詰まり楊翠は焦った。このままでは駄目だ。このままではたった一人の妹は手の届かない場所に行って二度と会えなくなってしまう。
そんなとき、ずっと稜迦の肩から手を離さないでいた乾曜が言葉を出した。
「稜迦、父親に関してお前に今まで伝えていなかったことをこれほど後悔する日が来るとは思わなかった。あの男は卑怯な策士だわ。言葉巧みにわたしたちを助けると言ってお前にこのような選択をさせたんだろう。あの男の言葉にはいつも裏がある。わたしたちに屋敷を用意して、あの男は一体お前になんと言ったの?」
稜迦は母を見た。心が揺れる、泣くまいと必死になった。
「稜迦、お前はわたしたちの苦しむ姿を見たくないと言ったけれど、わたしも楊翠もお前が幸せになれているか知ることもできない遠い地に、一人行かすわけにはいかないのよ」
「母さん……」
稜迦が乾曜にすがり付こうとしたとき、稜迦の後ろに控えていた従僕の男たちが二人を引き離した。
「お時間にございます。お別れの言葉はそろそろ……」
「なにを……っ」
従僕の男が発した言葉に、楊翠は怒りをあらわにして、稜迦へと手を伸ばした。
もう稜迦は限界だった。顔を伏せ、口早く告げる。
「わたしは自分で望んで行くの。本当に。……幸せになるから……。だから、母さんも姉さんも佳琵も……どうか健やかに……」
そう言って、稜迦は自身の歩みで足早に馬車に乗り込んだ。
「稜迦……!!」
母のその言葉が最後だった。進み出した馬車の中で稜迦は声を出して泣いた。ずっと頭に響いていた父親の言葉を思い出す。あの男は稜迦に言ったのだ。
ーー断る選択などお前には無い。もしもお前が耐えきれなくなり家族の元に戻るような事があらば、その時は母子共々……分かっていような?
最初から気付いていた。父親と名乗った男は最後まで稜迦の名前を訊かなかった。呼ばなかった。
もし、家族の情があるならば、稜迦を利用しなくとも乾曜たちを助けてくれているはずである。本当に父親なのかと疑いがあったが、先程の母の様子では真実なのだろう。
なぜ自分なのだ。自分でなくとも、他にも身分のある娘はいるはずである。なぜ、今まで会ったことも無い父親の娘として利用されてしまうのか。
そう思う反面、これで良かったのだと思う気持ちも稜迦はあった。
あのままであったのなら、無事に生きていけるか分からなかったのだ。利用されたとしても母たちの生活は黄桓に保障されたのだから。
ーーただ、もう家族と会えない。故郷に帰ることはできないのだ。
稜迦は憤りと悲しみで、それから長い時間泣き続けた。
◇
ーーガタンと車輪が揺れる音で稜迦は目が覚めた。ここ数日の事を思い出しながらいつの間にか眠ってしまったらしい。
瞳から流れ出ていた涙を拭き取りながら、稜迦は外の景色を見た。
まったく知らない風景が広がっていた。ここはもう朱国なのだ。
また別の場所、黎国の宮中の一室で、稜迦の父親である黄桓ともう一人、官服姿に身を包んでいる初老の男が雑談を交わしていた。
「して、黄桓殿、"鴛鴦之契"は?」
「は……滞りなく、無事に最後の一人も国境を越えたとのことです」
黄桓の言葉を受けて、初老の男は眉間を軽く揉んだ。
「はぁ……それはなにより。しかし敗国と言えど黎王も心痛であろう。婚姻とはいえ人質のようなものだからの……」
初老の男の言葉に黄桓は軽く肩をすくませる。
「ああ……済まぬ、失言であった。しかし……そなたに、もう一人娘がおったとは」
「庶子でございますが、母親に多少なりとも教養が御座いまして。作法は問題ないかと……いえ、それも嫁ぐ相手を知り、いらぬ杞憂だと判りましたが……ね」
初老の男は黄桓のそんな言葉を受け、小さくため息をついた。
「そなたも言葉には気を付けることだ」
「これは申し訳御座いません……して、わが娘と御子息との縁談で御座いますが……」
「分かっておる、そう心配するでない。幸いにもそなたにもう一人娘がおったことで、恋仲の二人が離ればなれになる心配も無くなった。時期が来たら婚姻を結ぼう」
その言葉に黄桓は満足げに微笑み、頭を垂れた。
「両家の末長い繁栄があるよう願っております……丞相殿」