暁光
「……お前の義兄だが……」
カガイの顔にある傷が瘡蓋で覆われる頃、二人で夕餉をとっていたら突然カガイが声を出した。
稜迦は驚いて箸を止め、カガイを見る。
実のところカガイの身体の事もあり、躊躇して義兄の話をいまだカガイに言ってはいなかったのだ。
それなのにカガイの口から義兄の話が出てきて稜迦の心臓は跳ねた。
カガイは塩をまぶして丸焼きにした魚にかぶり付いて、むしゃむしゃと口を動かしながら話しを続ける。
「……こっちで捕虜の詳しい情報を知るのは時間がかかる……直接、見に行った方が早い……」
稜迦は不安と疑問を顔に浮かべる。つまり儒郭では詳しく調べられないのだろうか。見に行くと言っても、一体どこに見に行けば判ると言うのか……?
カガイは稜迦をちらりと見る。
「……お前をその地まで連れて行く。親父殿が丁度そこにいる、許可が出た……二日後に出立するぞ……」
「……え?」
稜迦は混乱で話を上手く飲み込めなかった。目を丸くしてカガイを見る。
早々と魚の塩焼きを一本食べ終えたカガイは、囲炉裏の火で炙っていたもう一本を手に取ると、またがぶりと口にする。
「……婆から……明錬氏から聞いた……お前の義兄の事だ……。捕虜としているのかもしれんのだろう……違うのか……?」
稜迦は小さく頭を横に振った。そして話を理解しようとする。
「あ……黎国の捕虜の方々がいる場所があるのですか……?」
椀に入っている山菜汁を口に掻き込みながらカガイは頷く。
「そうだ……戦は終わっているが、捕虜となっていた者には一定期間の労役が課せられている……と言っていた……」
「わたしを……そちらまで連れて行ってくれるのですか……?」
「そうだ……その方が詳しく判る……」
稜迦はすぐ言葉を出せなかった。胸が震えてしまい、ギュッと両手を握り締める。
「あ、ありがとうございます……!」
稜迦は歓喜の声を出した。カガイはその声に鍋から山菜汁をよそおうとしていた手を止めて、稜迦を見る。
「あ、あの……カガイ様に義兄のことをお伝えしておらず……、申し訳ございません……。あぁ、でも……本当に嬉しいです……! 義兄が見つかるかもしれない……!」
稜迦は山菜汁をよそおうとしている姿勢のまま動かないカガイを見てハッと不安になる。
「あ……でも……カガイ様は……まだお身体が治りきっていませんのに……ご、ご迷惑では……ありませんか……?」
稜迦は単純に心配になった。
まだ怪我が治りきっていないと言うのに、毎日カガイは王城へと出掛けてしまう。勤めで出ているのだろうが、稜迦としてはもっと身体を労って欲しかった。しかしそう思ってはいても、どうか休んで欲しいと強くカガイに言う事ができずにいる。
それなのに、稜迦のせいでカガイに負担がかかるかも知れないのだから、気が気ではいられないのだ。
それを瞬時に気付けずに、すぐ浮かれて喜んでしまったのだから、申し訳なくて稜迦は落ち込んでしまう。
「……いや……丁度いいだけだ、気にするな……」
カガイは椀に山菜汁をなみなみと入れて、箸を持つ。
「そうなの、ですか……? でも……どうか無理をなさらず……」
「……お前が心配するほど、情けない身体はしていない……構うな……」
そう言われてしまって、稜迦はもう黙るしか無かった。はいと小さく答えて、そしてもう一度、感謝する。
「カガイ様……本当に、本当にありがとうございます……」
カガイは口の中いっぱいに飯を詰め込んで、小さく唸りを返した。
◇
そして、二日後の早朝。
白い息を吐いて、稜迦は山々から昇る朝日を見つめた。気温は低く、手先はすぐに冷たくなる。
稜迦は朝日に向かって手を合わせた。どうか、義兄が見つかるようにと。
姉と姪の笑った顔が脳裏に甦った。
馬の蹄の音が近付いて来たので、稜迦は慌てて振り返る。そうすると、馬の手綱を引きながら此方に歩いて来るカガイと目が合った。
カガイは稜迦のすぐ傍まで来ると、何気無い口調で言ってくる。
「……乗れ」
稜迦は固まってしまった。馬に乗る事は分かるのだが、乗り方が分からないのだ。情けないと思うが乗った事が無いので今も恐ろしく感じてしまう。
稜迦はおずおずと黒毛の馬へと手を伸ばすが、やはり途方に暮れる。
迷惑をかけてしまうが、馬の乗り方を教えて貰おうと横にいるカガイを見上げた。
稜迦が見上げると同時にカガイが声を出す。
「左足を鐙に乗せろ……そうだ……。鞍に手を置け、そこだ……」
カガイに言われた通りにあたふたと身体を動かしていると、いきなり稜迦の身体が大きく浮いた。
「……!」
稜迦は驚き過ぎて悲鳴も出せずに、必死に鞍にしがみ付く。カガイが稜迦の身体を軽々と持ち上げていたのだ。
「鞍を跨げ、馬を蹴るなよ……」
稜迦は急いで鞍に跨がる。目線が高くなって恐々としながら、落ちてしまわないように力を込めて鞍を握った。
しかしすぐ稜迦の後ろにカガイが乗って来たものだから稜迦の身体はびくりと小さく跳ねてしまう。
そのせいでほんの少しだけバランスを崩してしまい、稜迦の身体は前に倒れかけるが、その身体を支える大きな腕が稜迦の腰に巻き付いてきた。
稜迦は左手で鞍を握り、右手で自分の腰にあるカガイの腕に掴まってバランスをとる。
「……そのまま後ろに凭れろ……」
稜迦はその言葉に狼狽するが、もたもたしていると迷惑をかけてしまうと思いゆっくりと後ろのカガイへと身を倒した。
体勢が安定したのはいいが、すぐ後ろにあるカガイの身体が気になってしまい稜迦はガチガチに固まってしまう。
カガイは稜迦の腰から腕を離して、手綱を持ち、馬を歩かせる。カガイの両腕に身体を挟まれる形になって、稜迦は自分でも気づかないうちに耳まで顔を赤くしていた。寒さはどこかに行ってしまったようだ。
◇
「おぉーい! おおぉーい! 兄ぃ! こっちだー!」
儒郭の街を出る門のところまで来ると、そこには嬉しそうに稜迦たちに手を振るトウシナがいた。
トウシナにも身体に包帯を巻いている箇所が見えるが、元気そうでなによりだと稜迦はほっとする。
トウシナはカガイたちが自分のところまでやって来るのが待ちきれないのか、すぐに手を振る事を止めて、にこにこと笑いながら馬に乗って駆け寄って来た。
「おおう、奥方さまよぉ! 元気そうでなによりだ! 寒くはねぇかい? いやぁー、しっかし兄ぃのすぐ傍にいると余計に奥方さまはちっちゃく見えるなぁ! 兄ぃがでけぇ獣みてぇだ! ダッハッハッハッハ!」
トウシナの声は大きくて、稜迦はおろおろとどのように反応したものかと迷い、苦笑いを浮かべる。
「さぁー行こうぜぇ! 国境までは遠いからよ! 親父殿が待ちくたびれちまう!」
トウシナはくるりと方向を変えて、稜迦たちの前を進んで行く。稜迦は首を傾げた。
「国境……? ……あの、トウシナ様もご一緒に行かれるのですか?」
稜迦がトウシナに問いかけると、嬉しそうな顔をして目の前の大男は振り返る。
「そうさぁ! ここに残ってもつまらねぇし、兄ぃが行くんなら、俺も勿論行くぜぇ! 奥方さまも宜しくなぁ!」
そう言って、トウシナはよく分からない歌を口ずさみながら、門を通って行く。
稜迦は宜しくお願いしますと返事をしたが、果たして聞こえているだろうか?
何はともあれ、旅路は大変賑やかになると稜迦は確信できた。
◇
その日の太陽が沈む頃、稜迦たちは儒郭から少し離れた街、苑へとたどり着く。
儒郭ほどではないが、都から近いだけあって中々の賑わいがある街だと、稜迦はちらちらと目を動かしながら思う。
もともと育ってきた時間の中で、遠くに旅をしたことなど無かった稜迦は、今日一日で見た物珍しい景色で少なからず胸が高揚していた。
黎から嫁いで来る際にも機会はあったが、気落ちしていたし、景色を楽しむ余裕などは無かったのだ。
カガイたちが馬を進めて丁度街の中央まで来ると、赤い提灯に火を灯している立派な宿が見えた。カガイはそこで馬を止める。
「おお! 兄ぃよ、香楼庵に泊まるのかい? 豪気だなぁ! こりゃあ奥方さまも喜ぶぞ! なぁ!」
トウシナは満面の笑みを稜迦に向ける。どうやら目の前の宿は大層良い宿らしかった。確かに香楼庵とやらを知らない稜迦だが、見るからに店構えが豪華なのは分かる。
「……この先、野営が多いからな……」
カガイはそう言って馬から降りる。カガイの言い分だと、これから野宿もあるから今は良い宿に泊まろうと言う意味なのかと稜迦は思った。
カガイはあまりそのような考えを持っていないだろうと印象付けていた稜迦は、自分の夫の事をまた一つ知る。なんとなく、寝ることができたらどこでもいいと考えている人かと思っていた。
そんな事を考えていたら、横から大きな声が耳打ちしてくる。
「奥方さまよ! こりゃあ兄ぃの奴、奥方さまに気を遣ったに違ぇねぇよ? 今まで自分からこんな宿に泊まるなんてよぉ、無かったんだぜ? 兄ぃはどこでも寝れる男だからな! ダハハハハ!」
トウシナの声は大きくて、少しも耳打ちの意味は無かった。
「……降りろ」
そう言ってカガイが稜迦に手を差し伸べて来る。稜迦は戸惑いながらも、カガイの両腕を取って馬から降りた。降りたと同時に、稜迦の足はガクガクと震えて上手く地面に立てずに、カガイにしがみ付く格好になってしまう。
「す、すみません……! 足に力が入らなくて……!」
稜迦は焦ってカガイから離れようとするが、やはり自力では立てない。苑へ辿り着くまでに何度も休憩を取ってはいたが、慣れない馬の移動で稜迦の身体は限界に近かった。
「うおゎ!? 奥方さまよ! 大丈夫かい!」
トウシナが気づいて、心配そうに稜迦に声をかける。稜迦は必死だったが、なんとかトウシナに「大丈夫です」と言葉を返す。
稜迦が一人で立てるようになるまで、カガイは無言のまま稜迦を支え立っていた。
「ほら、奥方さまよ! 沢山食べなって! まだ先は長ぇからよ、体力付けねぇと!」
宿の食堂は大変賑わっていた。稜迦は沢山の食事が運ばれて来るのを目を丸くしながら見つめる。
カガイも大いに飯を食べる男だが、トウシナも同じぐらいの量を食べる男だった。
机の上に収まりきれないほど皿が来て、稜迦は息を飲んだ。戸惑いながら箸を持って、頂きますと小さく声を出してから、取りあえず目の前にある白菜のスープを食べ始める。
「奥方さま、うめぇかい? 細ぇんだからいっぱい食べねぇと! 他に欲しいものがあったらどんどん頼んでいいからな! 遠慮なんかしなくていいぜ?」
そう言いながら、こんがりと焼かれた鶏の丸焼きにそのままかぶりついてトウシナは笑う。
稜迦は仰天しながらそれを見て、「大丈夫です……」と弱々しく返事をした。
「いやぁ、しかしよぉー兄ぃもこの頃はちゃんと家に帰ってるし、俺ぁ安心したね! どこ行ったか分かんなくてよぉ、いっつも探し回ってたからなぁ! 嫁を貰うとやっぱ変わるもんなんだなぁ! なぁ! 兄ぃよ!」
トウシナに話題を振られたカガイだが、無言でガツガツと食べ続けていた。それを特に気にした様子も無く、トウシナは何が面白いのか、ガッハハハと大きく笑う。
何故だか稜迦はそわそわとしてしまい、場の空気を変える為、遠慮がちに別の話を振った。
「あの……目的の場所は国境だとトウシナ様が仰っていましたが……もしや、黎国と朱国との国境なのでしょうか?」
トウシナはキョトンとする。
「そうだぜ? おいおい! なんだ、兄ぃよ! どこに行くかちゃんと教えてないのかよ! 駄目だなぁ、兄ぃは! そんなんだと奥方さまに愛想を尽かされるぜ? 言葉が足りない男は女に嫌われるって宝鈴が言ってたぐらいだからよぉ!」
トウシナが大袈裟にカガイに詰め寄ったので、稜迦は慌てて手を振った。
「あ……! トウシナ様、違います……! わた、わたしがきちんとお伺いしていなかったから……! カガイ様は悪くありません……!」
トウシナは「ん?」と言った顔で稜迦を見て、次に焼飯を口いっぱいに詰め込んでいるカガイを「お?」と言った顔で見る。そして何故か大声で笑い出した。
稜迦はよく分からずに、はらはらしながらトウシナとカガイをきょろきょろと見る。そうしていると、酒瓶が運ばれて来た。
「お! きたきた! どうだい、奥方さまも一杯やるかい?」
トウシナが椀を持って稜迦に勧めて来たが、稜迦は小さく手を振って断った。今まで酒を飲んだことは無かったのだ。
「そうかい? じゃあ、また今度だ! ほらよ、兄ぃ!」
トウシナはそう言って、ドンとカガイの前に椀を置き酒を注ごうとする。けれど、カガイの手がそれを遮った。
「……いらん……」
カガイのその言葉にトウシナは目を丸くして驚く。
「おぉん? どうした、兄ぃ? 馬鹿みてぇな酒呑みのくせによ?」
カガイは蒸してある大きな海老の殻をバリッと割り、たっぷりとした身にかぶりつきながら答える。
「……怪我が治ったら、呑む……」
トウシナはへぇーと声に出しながら、カガイと稜迦を交互に見て、また大きく笑う。
「こりゃあ、いいや! 変わるもんだぁ! ダハハハハ!」
稜迦は胸の中がむず痒くなったような気がして、トウシナの笑い声を耳に入れながら、ズズ……とスープを啜って胸の内を紛らわした。
けしてそれは、成功しなかったが。