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鴛鴦の契り  作者: 笹川 歌
一章 愛縁奇縁
13/47

流れる

 その日は、何だか街の空気がざわついているように感じた。


 買い物に出ていた稜迦は、いつもと違わない街並みを見回しながら、そのピリピリしているような雰囲気を肌に感じて、得体の知れない胸騒ぎが起きる。

 そのせいで少し足早で邸へと帰った。


 カガイはまだ帰って来ないのだろうか。まだそんなにも月日は経っていないはずなのに、随分と長い時を一人で過ごしているように感じる。

 そんなことを考えていると、何だか自分がカガイに恋い焦がれて帰りを待ち望んでいるように思えた。

 帰りを望んでいない訳では決してないのだが、自分がカガイを恋い慕っているのかと言われれば、そうじゃないと思う。

 もともと恋などしたことが無い稜迦は、その感情がどのようなものか、知りもしなかったが。


 もうすぐ邸に帰り着くと言うところで、稜迦は邸の門に誰かが立っている光景を目に入れる。

 その人影は男のようで、甲冑を着こんでいたためにほんの少し身構えたが、よくよく見るとそれは覚秦だと判った。

 稜迦の心は一気に緊張して、そしてわずかに感じたことの無い胸の高鳴りを覚える。覚秦が儒郭に戻っているのであれば、カガイも戻っていることではないか?

 もしや、もう邸に帰って来ているのか。


 稜迦は知らず知らずのうちに駆け足になっていた。


 覚秦はそこで稜迦に気づいたようで、身体をこちらに向ける。

「奥方殿、ご無沙汰しております……」

 覚秦は浅く一礼して、稜迦に声をかけた。少し息が上がった稜迦も覚秦の前まで来ると一礼する。

「お、お久しぶりです。……申し訳ございません、街まで出ておりました。遠征からお戻りになられたのですね、ご無事でなりよりです」


 息を整えながら、稜迦は邸の中をきょろきょろと見渡す。玄関先しか見えないがカガイはどこにいるのだろう。もう中に居るのだろうか。でも、馬小屋を見るとカガイの馬がいない……。違和感が胸の中に落ちてきて、覚秦を見る。


 すると、覚秦は暗い顔をして稜迦を見ていた。そんな覚秦を目にした瞬間に稜迦は腹の底が冷たくなったような感覚に陥る。

 稜迦はさぞかし不安な顔をしていたのだろう、覚秦はハッとした表情をして落ち着いた声色で話し出す。

「奥方殿、カガイは邸にまだ戻ってはおりません。……事情がありまして、奴は怪我を負ったために王城で治療を受けております。……いえ! 幸い命に関わる怪我ではございませぬゆえ! 遠征先でも手当てを受けておりますし大事には至っておりません……どうか、そのような顔を為さらず……」


 覚秦は言いながら、自分の言葉が気休めにもならないと判る。

 カガイが怪我を負ったと説明したくだりで、稜迦はこの世の終わりのような表情を見せた。

 自分のことをほったらかしにしていた夫をここまで心配するものかと、覚秦は正直疑問に思ったが、稜迦の心の内を知るよしもないし、覚秦が知らないところで二人の間には何かしらの情が生まれていたのかもしれない。

 いや、そんなことを考えるより、顔色がどんどんと青ざめていく稜迦をどうにかする方が優先だろうと、覚秦はまたもや我にかえる。


「奥方殿、心配には及びません。今はまだこちらには戻って来れませんが、数日もすれば……」

「あの! ……わ、わたし、王城に……王城に行きます……カガイ様の、ところに……」

 震える声で覚秦の言葉を遮り、稜迦は踵を返した。

 覚秦はそんな稜迦の行動に驚いて、急いで傍にいた自分の馬の手綱を引き、走り出した稜迦の後を追う。

「奥方殿! ちょ、お待ちください! 落ち着いて! 自分がカガイのもとまでお連れしますゆえ、足を止めてください」

 すぐに稜迦に追い付いた覚秦は、稜迦の肩を取って声をかける。すると、気が動転していた稜迦は我にかえってその足を止めた。

 なぜこんなにも焦ったのか稜迦にも分からない。心配することは無いと言う覚秦の言葉では安心できず、直接カガイを見ないと気が済まなくなったのだ。


「あ、あ、もう、申し訳ございません……し、失礼を致しました……」

 稜迦は震える身体を覚秦に向ける。覚秦はどこか困った表情を浮かべた。

「いえ、気になさいませんよう。奥方殿は馬に乗れますか? 馬で駆けた方が早いですが……」

 そう言われて、稜迦は覚秦の馬を見る。勿論、乗ったことなど一回も無いが、ごくりと唾を呑み込んで、意を決して馬に乗せてもらおうと覚秦に頼もうとしたとき、別の馬の蹄が稜迦の耳に聞こえて来た。


 目の前の覚秦が稜迦の後ろを見ていて、驚愕した顔をしたものだから、稜迦も慌てて後ろを振り返る。

 黒毛の馬に乗ってこちらへとやって来ているカガイが見えた。

 稜迦は驚いてカガイの名を呼ぼうとしたのだが、後ろからそれに勝る勢いで叫ぶ声があった。

「カガイ! お前っ……! 阿呆が! まだ動くなと言われただろうが!」

 鼓膜が震えるような怒声を飛ばしながら、覚秦はカガイへと大股で歩み寄る。見るとカガイの後ろからトウシナも馬に乗って付いて来ていた。

「おい! トウシナ! カガイを押さえておかんか! この馬鹿者が!」

 怒り続ける覚秦に対して、トウシナは実に落ち着いた様子だった。

「いやいや、覚秦よぉ、兄ぃの身勝手は今に始まったことじゃねぇだろよ。俺がどうこうできる訳ねぇって! 今回は家に帰るだけ、まだマシなほうじゃねえか? そんなでけぇ声出すなって……ん? ありゃ、奥方さまじゃねぇか? おぉい、兄ぃ! 奥方さまがいるぜ! おぉーい! 奥方さまよぉー! 兄ぃが帰りましたでぇー!」

 その場の空気に全くもって相応しくない明るい大声を出しながら、トウシナはぶんぶんと大きく稜迦に手を振った。


 稜迦はどう反応していいのか分からない。瞬きなどひとつもできずに、近付いてくるカガイを見る。

 馬上のカガイは何とも痛々しい姿をしていた。身体中に巻いている包帯の所々から血が滲み出ている。顔にだって生々しい擦り傷が大きくあった。

 大丈夫じゃないことは稜迦にだって分かる。何故このような状態で邸に帰って来たのか。

 稜迦の口の中はカラカラに渇いて、手足が細かく震え出す。


 稜迦の前まで来ると、カガイは馬から降りて静かな低い声で稜迦に言う。

「……いま帰った」

 その声に稜迦は一切反応できなかった。悲痛な顔をして口を小さくパクパクさせるぐらいしかできずに、カガイを間近で見る。近くで見るとよりいっそう怪我の酷さが分かった。

 血の臭いを感じた気がした。稜迦はカガイの怪我をもうこれ以上見ていられなくなって、急いで顔を伏せ、わずかに足を後ろに引いてしまう。


 これがいけなかった。


 稜迦はしまったと直ぐに後悔して、慌ててカガイを見る。

 当のカガイは、感情の読めない顔を稜迦に向けていた。

 カガイの目が髪に隠れて見えない。今カガイと視線は合っているのだろうか? 怯えのような不安であるような表情を浮かべながら、稜迦は必死にカガイに声をかけようとする。

 だが、息が詰まり声を出せずにいると、カガイは目の前を通り過ぎて、邸へと足を向けてしまう。

 稜迦は途端に泣きたくなった。後悔が胸の中でひしめいて喉の奥が詰まる。駆け足でカガイの後を追った。

 微かな震える声でカガイの名を呼ぶ。しかし、その声は小さすぎてカガイには届かない。カガイが稜迦を振り向くことはなかった。もっと大きな声を出さなければと思うのだが、それができない。カガイの背中が大きく滲んで見えた。



 ◇



 この季節の夕暮れは早い。

 覚秦は高くそびえる山々に沈んでいく夕日を見て、稜迦へと声をかけた。

「奥方殿、そろそろ我々は失礼する。……明日、もう一度こちらに伺いますので、それまでカガイには養生するようお伝えください」

 覚秦の言葉に稜迦は弱々しく、はいと返事をする。そんな稜迦の様子が気になって、今晩のカガイと稜迦の二人を懸念したが、覚秦は夫婦の間にどこまで入り込んでいいのか考えあぐねいていた。


 あの後、怒涛の勢いでカガイを叱りつけた覚秦だが、その間ずっと一言も発することなく隅で小さくなっていた稜迦を心配していた。覚秦は頭の中でまたもやカガイを叱りつける。


「奥方さまよぉ、元気を出してくれやぁ。大丈夫だって! 兄ぃは丈夫だからよぉ、あんな怪我すぐに治るぜ? そんな心配する事ねぇよ! だから笑ってくれや! そうだ、旨い飯でも作ったら兄ぃも喜ぶぜ? 久々に夫婦水入らずなんだから、仲良くやんねぇと!」

 隣でトウシナが大声を出した。すぐに治る怪我では無かったが、トウシナなりに稜迦を安心させたかったのだろう。

「はい……。トウシナ様も、どうかご自愛ください……」

 そう言って稜迦はトウシナに頭を下げた。トウシナ自身もカガイ程ではないが、身体中に怪我を負っていた。

「おう! 俺も身体は丈夫だからよ! その……ゴ、ゴジアイ? するから大丈夫だぜ!」

 トウシナはそして大きく笑った。そんなトウシナに稜迦は小さな笑みを返す。

 話の区切りが付いたところで、二人は馬に乗り邸を去って行く。それを見送りながら、稜迦は両手で服の袖をギュッと握りしめ、小さく息を吸って邸の中へと入って行った。


 カガイとの距離がほんのわずか縮まったと思って安堵していたのだ。自分の不甲斐なさに嫌気が指す。何故、一言でも労りの言葉が出て来なかったのか。最初の頃のように怯えてしまった。カガイの振り向かない背中がまるで稜迦を拒否しているように思えた。だが、それは自業自得だと思えて稜迦の心は深く沈む。


 パチパチと小さく薪が燃える音がする。カガイは囲炉裏の側で仰向けの状態で横になっていた。その姿が痛々しく見えて、稜迦は思わず震える声でカガイに声をかける。

「……カ、カガイ様……あの、怪我は大丈夫ですか……? どこか……つ、辛いところはありませんか……?」

 稜迦の言葉に対して、カガイは身動きもせず低い唸り声だけを返した。

 その唸り声がどのような意味を持って返されたのか分からず、稜迦は次の言葉が出て来ない。

 稜迦はできる限り足音を立てずにカガイへと近寄り、そして囲炉裏を挟んでカガイの対面に腰を降ろす。しばらく会話は無かった。


 薪がはぜる音だけが部屋に響いていた。稜迦は視界の隅にカガイを入れたまま、囲炉裏の火を見る。


 カガイが帰って来たらもっと沢山話そうと思っていた筈だった。今だって稜迦がもう一度声を出したら何か変わるかもしれないのに……。稜迦はギュッとお腹の辺りの服を強く握りしめた。

「……腹が……痛むのか……?」

 聞こえて来た低い声に稜迦は急いで視線を上げた。見ると、カガイが顔だけをこちらに向けて稜迦を見ているようだった。視線がどこにあるのか分からない。

 稜迦は慌てて服から手を離す。

「い、いいえ! ちが、違います……」

 まるで怯えているような声が出た。何故、このような声しか出て来ないのか。稜迦は俯く。


 カガイはきっと稜迦を心配して声をかけたのではないだろうか。自分の方が遥かに痛々しい傷を負っているのに……。そんな相手に対して、何で自分はこんな態度しか返せないのか……。稜迦は唇をかんで泣くのを堪えた。


「…………すまん……」

 カガイの掠れた声が聞こえた。稜迦はまたカガイを見る。そうしたら、カガイは立ち上がっており、部屋から出て行くところだった。

 稜迦は驚き、自分も立ち上がって小走りでカガイの後を追いかけた。

「……カ、カガイ様……」

 稜迦は弱々しくカガイを呼ぶが、カガイが足を止める気配がない。それどころか、邸から出て馬小屋へと足を向けていた。

「……カ、カガイ、様……?」

 稜迦はまさかと思った。まさか、カガイは今から外に出るつもりだろうか、そんな身体で……そんな傷を負っているのに……。

 動けずにカガイを見つめていると、カガイは馬を引いて門を出ようとする。そこで足を止めて、低く稜迦に声をかけた。

「……随分と、驚かせた……。中に戻れ……冷えるぞ」

 それだけを言ってカガイは馬に乗る。稜迦の頭は真っ白になった。カガイは稜迦が怯えていたから、ここから居なくなるのだろうか? 自分のせいでカガイは邸から出て行ってしまう……? あんなにも痛々しい怪我があるのに、自分のせいで……。

 

 わたしが、わたしのせいで……カガイ様が、行ってしまう……。


 カガイが馬の腹を軽く蹴って、門から出ようとする。それを見て稜迦の中で何かが切れた。

「い、行かないでください!」

 辺りに響く声を出しながら、稜迦は耐えきれなくなってボロボロと泣き出した。

 カガイは馬を止めて稜迦を振り返る。


「カガイ様……お願いです、っうぅ……行かないで! お願い……お願い、します……そんな怪我をしているのに! お願いだからどこかに行かないでください! ひっうぅ……お願い……」

 稜迦は止まらなかった。子供のように嗚咽を出して泣きながらカガイを見る。カガイも動かないまま稜迦を見ていた。

「……ごめ、ごめんなさい! ごめんな、さい……わたしが、なさっ、うっ……ううぅ……情けないせいで……! もう、もう怯えませんから……! カガイ、さまに怯えたりしませんから……! ゆる、許して、ください……お願い……戻って、ください……カガイ様が、死んでしまう……!」


 稜迦はとうとう大声で泣き出した。こんな駄々を捏ねる子供のように泣きながらしか思いを伝えられない自分が堪らなく恥ずかしくて、情けなかったが、カガイを止められずにいるよりかはマシだった。

 カガイがどこに行くのかは分からないが、あんな大怪我で安静にしてないと良くないのは確かなのだ。下手をすると最悪なことになるかもしれない。なのに、自分が怯えたせいでカガイが居なくなるなんて、稜迦には耐えれなかった。


 大粒の涙が後から後から出てきて止まらない。何度も袖で拭うが意味を為さなかった。嗚咽が酷くなって、カガイを見る余裕がなくなる。音が聞こえないが、カガイはまだそこに居るだろうか。


 そう思っていると、稜迦のすぐ側で人の気配がした。涙を拭っていた袖から視線を上げると、カガイが馬から降りて稜迦の目の前に立っていた。

「……すまん……」

 静かにそう言って、稜迦を見下ろしていた。とても近くにいたのでカガイの顔がよく見える。その顔にある傷がなんて痛そうなんだろう……。稜迦は涙が流れる目でカガイを見続けながらそう思った。

 すると、いつものように低い唸り声を出しながら、カガイは自分の指で稜迦の涙を拭い出す。

 最初、カガイの大きな手に身を強張らせたが、稜迦はそれを決して拒みはしなかった。カガイの拭う手は少し乱暴だったが、稜迦の心は温かくなって悲しくないのにそのまましばらく涙を止めることができなかった。


 その間、カガイは泣くなと何度も稜迦に言って、涙を拭い続ける。稜迦が泣き止むまでその手はずっと稜迦の顔にあった。

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