カガイを待つ日々
その日は鬱々とした雲が晴れて、久しぶりに青空が広がった。
稜迦は風呂敷に包んだ草餅を大事に持って、王城へ向かう為に、人々がごった返している儒郭の街を歩いていた。
時おり道を間違えもしたが、稜迦はなんとか城門へと辿り着ける。
カガイと話ができた日からしばらくは体力が戻っていなかっため、宝鈴と明錬氏のもとで養生させてもらい、先日カガイの邸へと稜迦は戻って来た。
稜迦は治療代を払おうとしたのだが、宝鈴はそれを笑いながら受け取ろうとはしなかった。そんなことよりも、少しでも体調が悪くなったら直ぐに自分の所へと来るようにと、稜迦に優しい言葉をかけてくれた。
あまりにも有り難く、申し訳ないと思っていた稜迦は、拙いお礼ではあるが草餅を持って宝鈴と明錬氏を訪ねる事にしたのだ。
城門へと辿り着けたはいいが、門が沢山あるので自分のような者は一体どの門から入ればいいのか分からずに、稜迦は辺りをキョロキョロを見渡す。
行商人のような者から官史のような出で立ちの者まで様々な人が、門から出入りしているのが見える。
結局分からないので、少し怖かったが門にいる衛士に訊いて見ようと稜迦が意を決したとき、後ろから澄んだ鈴の音が聞こえてくる。
「稜迦さん!」
その声に稜迦が驚いて振り向くと、宝鈴がびっくりした顔でこちらに駆け寄って来ていた。
宝鈴と会えたことに安心した稜迦だが、何やら切羽詰まった形相で近付いてくる宝鈴に腰が引けた。
「どうなさったんです!? また体調を崩されたのですか!? それとも、何か困った事でも起きたのですか!?」
「あ、い、いえ、そうではなくて……あ、あの……この間のお、お礼をと、おも、思って……」
稜迦の両肩を強く掴んで、顔を近づけて来た宝鈴に驚いて、稜迦は吃りながら宝鈴を落ち着かせようとする。
するとそれは成功したようで、稜迦の言葉を聞いた宝鈴は身体の力を抜いて、ホッと息を吐いた。
そして同じように稜迦もホッと息を吐いたのだった。
◇
「わぁ! 草餅ですか!」
宝鈴は稜迦から受け取った籠の蓋を開けると目を輝かせた。
「あ、わたしが作ったので、その、お口に合えばいいのですが……」
宝鈴があまりに喜んだので、稜迦は逆に申し訳なく感じてしまった。そんな稜迦に満面の笑みを浮かべて宝鈴は言う。
「わたし、大好きなんです! 草餅! フフ、師匠は外に出ているんですが、すぐ戻って来ると思いますので、どうぞ椅子にかけてお待ちくださいな。今、お茶を淹れますね」
無事に宝鈴と会えた稜迦は、そのまま宝鈴に案内をしてもらい薬草の香りがする医療所へとやって来ていた。
「あ、はい、すみません、ありがとうございます」
稜迦は言われた通り、宝鈴が引いてくれた椅子に座る。
「ありがたいです、丁度お腹がすいていましたので。稜迦さんはその後、お身体は大丈夫そうですか?」
宝鈴はお茶を淹れながら、心配そうに稜迦に問いかける。
「はい、お陰さまでもうすっかり良いようです。あ……わたしの方こそ、急にお伺いしてしまって……すみません……ご迷惑では、無かったでしょうか……?」
「とんでもない! ずっと気になっていましたので、様子を見に行こうかと思っていたんです。お元気そうで何よりです」
宝鈴はニコニコと嬉しそうに言うので、稜迦もつられてニコリと笑う。
「カガイが家に居ないので、慣れなくて大変ではないですか? 本当に困った事はありませんか?」
宝鈴は湯気のたっているお茶をコトリと稜迦の前に起きながら、また心配そうに訊いてきた。
稜迦はそんな宝鈴の心遣いを申し訳なく思いながらも、心底有り難く思う。
「はい……大丈夫です、本当にありがとうございます……宝鈴さんのお陰でとても元気になれます」
稜迦が素直に言った返事に宝鈴は一瞬ポカンとして、そしてすぐに嬉しそうに声を出して笑った。
何やら可笑しい事を言ってしまったらしく、少し恥ずかしくなったので、稜迦は顔を赤くしながらもじもじと宝鈴に別の話を振った。
「あ……カガイ様たちは、いつ遠征からお戻りになるのでしょう……お怪我など無ければいいのですが……」
稜迦は宝鈴の淹れてくれたお茶を頂きますと言ってから口に含んだ。味わったことの無い香りのいいお茶だった。
「大きな戦、と言う訳では無いので、そう長い期間では無いと思います。冬になるとなかなか内地も落ち着かなくなりますので……」
稜迦は「そうですか……」と返事をして、器に入っているお茶に視線を落とした。
あの日のカガイの後ろ姿を思い出す。無事でいるだろうか……。
「大丈夫ですよ! みんな化け物のように強いんですから、ちょっとやそっとの事では怪我もしません。……あ、これ頂いてもいいですか?」
宝鈴の明るい声に稜迦は顔を上げる。見ると既に宝鈴は草餅を一つ手に取ってむしゃむしゃと頬張っていた。
「……お、美味しすぎる」
宝鈴は感極まった顔をして稜迦を見る。稜迦はホッと胸を撫で下ろした。
「あ、お口に合って良かった……」
「い、いえ、待ってください、本当に美味しすぎるんです、今まで食べた草餅の中で一番美味しいです。……これは、カガイはずるいですね……帰って来たらこんなにも美味しいご飯を食べられるんですか……」
宝鈴が大袈裟に言っているように思えて、稜迦は照れながら苦笑する。
「そんな……大した腕では……、……そう言えば、宝鈴さんはカガイ様と親しいのですか?」
稜迦はふと気になって、何気無く訊いてみた。宝鈴から発せられるカガイの事柄に関して、親しみがある空気を感じていたのだ。
宝鈴は早々と一個目の草餅を平らげて、二個目を手に取りながら答える。
「そうですね、親しいと言いますか、ええと……幼い頃からの顔馴染みでして、……家族みたいなものだと思っていますね、わたしは。フフ、他にも覚秦とトウシナと言う人もずっと子供の頃から一緒にいて……わたしにとって大事な人たちです……」
宝鈴は柔らかく笑む。けれど、どこか寂しそうな顔だと稜迦は思った。稜迦が知らない彼らの歴史があるのだろう。訊いてみたい気持ちもあったが、何となく今は憚られた。
「だから、稜迦さんのような方がカガイのところに来てくれて、わたしは嬉しいんです」
稜迦はきょとんとして宝鈴を見る。宝鈴は柔らかい笑みを浮かべたまま稜迦を見ていた。
「稜迦さんは、人を大切にできる方だと思っていますから」
「わ、わたしは……そんな、カガイ様に迷惑ばかりを……わたし自身だって、大した人間では……ありません……」
宝鈴は困ったように笑みを浮かべる。
「ご自分をそのように言うもんじゃないですよ。フフ、稜迦さんとはちょっとしか一緒にいませんが、人となりは分かっているつもりです。人の気遣いができる優しい方だと思っています。そんな人がカガイのお嫁さんで本当に良かったと、わたしは感じているんです」
稜迦は宝鈴の言葉に顔を赤くしながら俯いた。どのような反応を返せばいいのか分からなかった。
「……ごめんなさい、こんなことを言ってしまって……だから、ずっと気になっていたんです……稜迦さんがこちらを恨んでいないか……そのせいで苦しい思いをしてはいないか……」
稜迦は思わず顔を上げた。対して宝鈴は目を伏せて話し続ける。
「大きな戦でしたから……きっと傷跡も深いでしょうし……政策とは言え、故郷から遠く離れる事になってしまって……ここは敵国でしたし、辛い思いをしているのではと……」
稜迦は宝鈴の言葉を聞きながら色んな事を思う。もう帰ることのできなくなった故郷。本当にこの戦で沢山のものを失った。それは真実だった。
大勢の怪我を負った人を目にして、焼けた家々を見た。それは今も稜迦の中に残る。家族とだって戦さえ無ければ離ればなれになる必要は無かったのだ。
戦は悲しい。恨まないと言えばそれは嘘だ。だけど、だからと言って目の前の宝鈴を敵国の住人だったから恨んでいる、と言う思いは稜迦の中には無かった。
カガイに対しても同じ思いだった。
武人であるから、きっと先の戦では黎国の人々と戦ったのだろう。けれど、やはりカガイを恨む心は稜迦の中には無い。
稜迦が恨んでいるのは戦そのものだった。何より人を恨むのは悲しく心が重い。この国で生きてきた人、この国で出会った人すべてを恨みながら生きていくのはあまりに辛く思える。
だから稜迦は慎重に言葉を選んだ。
「……辛くない、と言うのは嘘になりますが……わたしは……だからと言って……この国を恨んでは、いません。失ったものは多いですけど……でも、こうやって宝鈴さんとも会えたのですから……得たものもあるのだと思います……すみません、上手く伝えられなくて……けれど、宝鈴さんの心遣いを本当に嬉しく思います、こんなわたしに心を砕いてくださって……ありがとうございます」
稜迦の言葉を何とも言えない顔で聞いていた宝鈴はふぅと息を出した。
「本当に……カガイのもとに来たのが稜迦さんで良かったと思います。……こんなこと言うもんじゃ無いと思いますが、わたしだったら泣き叫んでいたと思いますから……稜迦さんはお強いですね」
稜迦は面食らった。実際は稜迦だって泣いてばかりだったのだから。
「……そんなこと、ありません」
互いにふぅと一息吐いたので、二人は可笑しくなって笑い出した。
「んん? なんだい、賑やかだね」
二人の笑い声の中に明錬氏が扉を開けながら入ってくる。
「あ! 師匠、お帰りなさいませ。稜迦さんが草餅を持って来てくださったんです。お茶、淹れますね」
宝鈴はそう言ってもう一度お茶の用意をするため、ぱたぱたと動き出した。
「ほぅ……旨そうだね……獣の小僧はまったくだが、嫁は気が利く良い娘が来たようだ。有り難いことじゃないか、どれ頂くよ」
そう言ってお茶も待たずに明錬氏はむしゃむしゃと草餅を食べ出す。
「あの、先日は本当にお世話になりました……お陰さまですっかり元気になれました」
稜迦はそう言って頭を下げる。
「あぁ、少しは膿も出せたようだね。奴が帰って来ても溜めないよう気を付けな。……あと、お前さんは細いからもう少し肉を付けた方がいいね。そんな身体だと、獣の小僧が上に乗っかってきたら、お前さん潰れちまうだろ?」
明錬氏が最後に放った言葉で、稜迦の顔は青褪めて、そして真っ赤になる。
「ちょ! 師匠!」
宝鈴も顔を赤くしながら、お茶を運んで来る。
「ん? なんだい、近頃の娘たちはみんなウブなのかい?」
明錬氏は宝鈴の運んできたお茶を啜りながら、ニヤリと笑う。
稜迦はいたたまれなくなって咄嗟にある事を訊いてしまった。
「あ、あの、黎国の捕虜の兵を調べる事は、どこかでできるのでしょうか?」
「捕虜?」
稜迦は訊いたあと、ハッとする。今、この場で訊いてみるにはあまりに物騒な事柄だっただろうか。宝鈴に至っては、また気にしてしまうかもしれない。
不安になったが、稜迦にはカガイに訊いてみる他に手は無く、そのカガイがずっといないので稜迦は義兄の事を調べられずにいたのだ。黄桓は調べると言ってはいたのだが、その言葉が果たして実現されたのか稜迦には分からない。
明錬氏は怪訝な顔をしていたので、稜迦は意を決して事情を話す事にする。
「あの、わたしの姉の夫が戦から帰って来ないので、もしかしたらこちらで捕虜として居るのではないかと……労役を課せられているのだと、黎国にいた頃に噂として耳にしたことがあったので……すみません、このような事を訊いてしまい……」
明錬氏は納得がいった顔をしてから、腕を組んで唸りだす。
「あぁ、そうなのかい……さてねぇ……捕虜……。どこの管轄なのか……。娘さん、それはここでは解らない事だね。軍部の方が詳しく知っているだろうよ。どれ、調べといてやろうかね……その夫さんの名前と、特徴はあるかね?」
稜迦は思わず明錬氏の方に向かって身体を前のめりにする。
「ほ、本当ですか? ありがとうございます! あ、あ、あの名前は戯張と言いまして、赤みが強い肌をしています。歳は二十五になりまして、髭を蓄えてて優しい顔をしています、あとは……あとは……」
明錬氏は稜迦を見ながら、小さく笑う。
「よほど大事なんだねぇ……いや、そりゃそうだね。しかし、お前さんがこんなにも口早く喋れるとは思ってもみなかったよ」
明錬氏の言葉に、稜迦は我に返る。そして、すみませんと小さい声で言いながら身体をもとの位置に戻した。
「青丹様にも伺ってみますね! 今は任務で儒郭にはいらっしゃいませんが、地位ある方なのできっと力になってくださいますから!」
宝鈴も稜迦にそう言ってくれた。稜迦の心の中で少しずつ日が照っていくように感じる。もしかしたら義兄は見つかるかもしれない。希望がある。姉を思った。義兄を見つけることができたらどんなに安心するだろう。稜迦は知らず知らずのうちに祈るように両手を合わせた。
「獣の小僧にも話しておくといい、性根は優しい男だからねぇ。お前さんの力になってくれるさ」
明錬氏の言葉に稜迦は「はい」と明るく答えた。
カガイとも歩み寄れる気がする。あの日の会話を毎日ずっと思い出していた。もっと会話ができたらいいと思う。稜迦のことを知ってもらって、カガイのことを知るのだ。
稜迦はいつの間にか嬉しそうに笑んでいた。心が前に向けた気がする。
ーーしばらく日が経って、カガイが血まみれで帰って来るまで。