ほんの少しの歩み
ゴリゴリと何かを擦る音で稜迦はゆっくりと目を覚ました。
鼻の中に独特の匂いが流れ込んでくる。
ぼんやりと目に映るのは見慣れない天井だった。少し首を横にずらすと、その天井からいくつもの袋が吊り下げられている。
ここは何処だろうと、稜迦がその袋を見続けていたら明るい女の声とリン……と鈴の音が聞こえた。
「あ! 目を覚ましましたか。良かった」
稜迦が声のした方を見ると、白い簡素な服を着た女が笑って此方に歩いて来ていた。
稜迦が声を出そうとしたら、喉がひくついて上手く喋れずにゴホッと咳を出す。
「あ、無理をせずに。そのまま、そのまま」
女はそう言って稜迦の側に寄り、椀に入っている水を稜迦の頭を抱えながら飲ましてくれる。
稜迦は椀の水を全部飲み干して、ハァと息を出した。
「まだ無理はいけませんよ、熱は下がりましたが、体力は戻ってませんからね。安静にしててください」
稜迦はまだぼぅとする意識のまま問いかけた。
「……はい……あの、ここは……?」
「ここは王城の中にある医療所です。とは言っても端になりますが」
「王、城……?」
言葉に出して、稜迦は思い出す。慌てて起きようとして、だが身体に力が入らないせいですぐに倒れてしまう。
「ああ! 駄目ですよ! そんな無理に起きたら。ひどい熱だったんです。覚えていますか?」
そう、自分は倒れてしまってそのまま動けずにいたのだ。その後は……。
「カガイがここまで貴方を連れてきたんですよ。二日ほど熱が下がらずにいたんです。けど、もう大丈夫ですからね。……どこか辛いところはありませんか?」
「いいえ……大丈夫です……」
稜迦は弱々しく首を振った。
「良かった……。わたしは、宝鈴と言います。何かありましたら遠慮なく言ってください」
そう言って宝鈴は優しくにっこりと笑う。
その顔に稜迦は身体の力を抜いた。
「はい……ありがとうございます」
「フフ、じゃあ薬を飲んでもらいたいので、粥を用意しますね。少し待っていてください」
そのまま部屋を出ようとした宝鈴に稜迦は慌てて声をかける。
「あ、あの、本当にありがとうございます……わたしは稜迦と申します。……迷惑をおかけして、申し訳ありません……」
宝鈴はきょとんとした顔をして、そして柔らかい声で笑う。
「迷惑だなんて思っていませんよ。大丈夫。ゆっくりと養生してください」
鈴の音を鳴らしながら宝鈴はパタンと扉を締めた。
宝鈴が部屋から出て行った後、稜迦はきょろりと周りを見回す。
自分が横になっている寝台から大きな几が見えて、その上には薬草が盛られている沢山の篭があった。壁には天井まで続いている統一された四角い引き出しがずらりと並んでいる。
稜迦が目を覚ました時に感じた香りは、この部屋の匂いなのだろう。不思議と気分が落ち着く匂いだった。
稜迦は長く息を吐いてから、記憶を思い返す。
やはり、あの時の黒い影はカガイだった。帰って来たのだ。けれど、邸に戻って早々、驚かせてしまっただろう。倒れていた稜迦をここまで運んでくれたのだ。……お礼を言わなければならない。
「……今……どちらにいるんだろう……」
稜迦はぽつりと言葉をこぼして、またウトウトと目を閉じた。
「……ん? なんだ、寝てるじゃないか?」
近くで声がして、稜迦はハッと目を開ける。すると視界いっぱいに白髪の老婆の顔が見えた。
「……っ!」
稜迦は声にならない悲鳴をあげた。
「ちょ! 師匠! 駄目ですよ! 稜迦さんの心臓が止まってしまいますって!」
バタバタと盆に粥を乗せた宝鈴が慌てて近づいて来る。
「おいおい、まったくなんて弟子だ。覚秦の小僧といい、言葉がなっちゃいないねぇ。……どれ、娘さん。ちょっと失礼するよ」
そう言って老婆は稜迦の手首と首筋に指をやる。その間、宝鈴が稜迦の上半身をゆっくりと起こし、身体の下に枕を何個か敷いて、稜迦の肩に上着をかけてくれた。
「……うん、いいようだ」
そう言って老婆は最後に稜迦の目を見て、離れていった。
「気候が急に代わったのも原因だが、あんたの場合は心労で身体が弱っていたんだろう。薬を煎じるからゆっくり粥でも食べておいで」
そう言いながら老婆がガタガタと四角い引き出しから薬草を何種類か見繕っていた。
宝鈴が稜迦に湯気がたっている粥を差し出す。
「本当にゆっくり食べてくださいね。熱いですから」
「あ、はい。ありがとうございます……いただきます」
稜迦はお礼を言って、おずおずと椀を受け取る。
卵と小さい赤い身が入っている美味しそうな粥は、身体が温まりそうだった。稜迦は手を合わす。
「だが、しかし驚いたね。あの獣の小僧の嫁が、こんなにも細っこい娘だとは。さぞ苦労してんじゃないのかい?」
老婆の言葉に、稜迦は思わず口に運んでいた箸を止めた。
「師匠!」
宝鈴が声をあげたが、当の老婆はあっけらかんとしている。
「なんだい? なにも変なことは言っちゃいないよ。苦労してなきゃここまで身体が弱らないからね。娘さん、あんたは黎国から嫁いで来たらしいが、慣れない土地でやっていけそうかい?」
稜迦は返答に困った。朱国に来てからあまり心安らぐ時は無かったように思う。それでも、か細い声で稜迦は「はい……」と答えた。
老婆はそんな稜迦を見ながら、薬研で薬草をごりごりと擦り始める。
「夫となった男とはどうなんだ? 奴はお前さんをほったらかしにしてるんじゃないのかい? 獣の小僧はふらふらして家に帰ってないと聞くが、お前さんたち上手くいってないのかい?」
老婆の言葉に稜迦は眉を下げた。
「……いえ、わたしのせいで……きっと気を悪くされているんだと……思うんです……少しも話せなくて……」
稜迦は手に持っていた箸を置き、俯きながら言葉を続ける。
「……不自由ない生活を、させて頂いてます……ただ、わたしが……ふがいなくって、失礼な事ばかりしてしまって……会話が、できなくて……こんなことに……」
その言葉に宝鈴は心配そうに眉をひそめる。宝鈴が何か言う前に老婆が先に言葉を出した。
「なら、早めに話すことだ。獣の小僧はまた遠征に出るそうだよ? しばらく会えなくなるんじゃないかい? 少しだけなら身体を慣らすために歩いてもいいさ。宝鈴、娘さんを案内してやんなさい」
稜迦は「え?」と顔を上げた。
「少し急いだ方がいいかもね、もう準備が終わっていたから。……溜まったもんは吐き出さないといけないよ、でないとまた身体に膿がたまって弱まるからね。さ、早くお行き」
突然のことに稜迦はおろおろと老婆と宝鈴を見る。
もしや今からカガイのもとに行くと言うのか……。会わなければいけないと思っていても、いざその時が来ると緊張で手が震えた。
「獣の小僧に伝えることはないのかい? 何も難しい事じゃないよ。奴は不器用な男で、此方に来やしない。お前さんが行ってやりなさい」
老婆からの言葉を正面から受け、稜迦は持てる限りの勇気を振り絞って「はい」と答えた。
「宝鈴、覚秦も共に出るそうだ。お前も言葉ぐらいかけてくるといい」
老婆の言葉に宝鈴は腰に着けていた小さな鈴をリンと鳴らして返事をする。
「え、そうなんですか? まったく……覚秦ったら何も言わないから……。では、激励の言葉でもかけてきましょうか、フフ。稜迦さん、手を貸しますね。歩けますか?」
稜迦は差し出された手を取ってゆっくりと立ち上がる。
「はい……大丈夫です。宜しくお願いします」
宝鈴はちょっと待っていてくださいと言って、慌てて稜迦に厚手の上着を羽織らせた。
「外は寒いですからね、では師匠、少し出てきます」
老婆はウムと返事をして二人を見送った。
長い回廊を稜迦は緊張しながら歩く。
あの倒れた日を除いて、カガイとは本当に久しぶりに顔を合わせる。どんな顔をされるだろうか。自分は果たして上手くお礼を言えるのだろうか。
どんどんと暗い顔になっていく稜迦に、横で歩いていた宝鈴が声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 身体は辛くないですか?」
心配そうに除きこんでくる宝鈴に稜迦は慌てて返事をする。
「あ、そんな……大丈夫です。すみません、ご心配をおかけしました」
「あら……フフ。そんな気を張らないでくださいな。……元気になられて良かった、心配していたんです。カガイが稜迦さんを此方に連れて来たときは、本当に弱っておいででしたから……」
宝鈴は柔らかく笑むので、その顔のお陰で稜迦は少しだけ気持ちが落ち着いた。
「本当に、ご迷惑をおかけして……あ、えっと宝鈴さんは此方に勤めていらっしゃるのですか?」
「勤めている、と言いますか、此方で修行中なんです。先ほどの方、明錬氏から教えを受けておりまして……フフ、師匠は国一番の薬草師ですからね。元気になられた稜迦さんを見て、カガイも安心して遠征に行けますよ」
稜迦は言葉に詰まる。
「……あの方の手を、煩わせてしまいました……。お怒りでは、ないでしょうか……」
つい、稜迦の口からポロッと出た言葉に宝鈴は驚いた顔を見せた。
「まさか! あなたの事を心配していました! 表情の乏しい男ですので分かりにくいとは思いますが、心根はいい人間なのです。いえ、本当に!」
勢いのある言葉に稜迦が面食らっていると、宝鈴はハッとして咳払いをする。
「……失礼をしました。ですが、どうか安心なさってください……カガイは決して怒ってなどいませんから」
「は、はい……」
稜迦はそう言われて少し安心できた。
「……むしろ、稜迦さんが怒ってもいいと思いますよ? きちんと家に帰ってくるようにと叱りつけてやればいいんです」
宝鈴の言葉に今度は稜迦が驚いた。
「そ、そんな……! そんなこと、言えません……」
「いえいえ、何事もやればできるものですよ、フフ……。あ、稜迦さん此処に座って待っていてください。カガイを呼んで来ますから」
そう言って回廊の外れに稜迦を残し、宝鈴は外へと駆けて行く。
稜迦は言われた通り、すぐそばにあった腰掛けに座って待つことにした。宝鈴にはああ言ったが、本当のところはまだ身体が少し気だるかったのだ。
腰掛けに座り、ふぅと息を吐く。
そこから少しだけ外が見えるのだが、人が沢山いる気配がする。
明錬氏はカガイが遠征に行くと言っていた。きっとこの先にはその遠征に出る兵卒たちがいるのだろう。
……遠征。一体どこまで、いつまで行くのだろうか。
稜迦はふと気になった。今度はいつ、カガイはあの邸に戻って来るのだろうか。
このままではいけない事は分かっていた。面と向かい合うのはやはり恐ろしいが、歩み寄らなければ何も始まらないのだ。夫婦になったのだから、ぎこちなく過ごしていくのは悲しいと思っている。
そんな事を考えていたら外から冷たい風が流れ込んでくる。
稜迦が身を震わせていると、ふと地面が陰った。
稜迦が顔を上げるとカガイがすぐそばに立っていて、稜迦を見下ろしていた。
稜迦はいきなり現れたカガイに心底驚いて、急いで立ち上がる。
目だけをキョロキョロと稜迦は忙しなく動かした。宝鈴はいないようで、どうやらカガイだけがこの場に来たようだった。
久し振りに見たカガイは奇妙な甲冑を身に付けており、その姿はおのずとあの恐ろしい夜に見た蛮族と被って見えた。
稜迦は思わず後退りするのを、気力で止める。そして、勇気を振り絞って声を出した。
「あ、あ……ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした……あ、あの……本当に……ありがとうございます……」
声こそ震えていたが、稜迦はカガイの顔をしっかりと見ながら言葉を出せた。目にするカガイの姿は変わらず恐ろしいと思っていたが、宝鈴の言葉が稜迦を後押ししていた。
カガイの顔を見つめていた稜迦だったが、目の前のカガイが何かを言ってくる気配が無いので、だんだんと稜迦は不安になってくる。
やはりカガイは怒っていて、こんな稜迦を煩わしく思っているのではないかと感じてしまい、稜迦は顔を下げようとした。
「……すまなかった……」
その時、上から低い声が聞こえた。
稜迦がまた顔を上げると、前髪の隙間から覗くカガイの目と視線が合った。
「え……?」
稜迦は気の抜けた声を出す。カガイは今、自分になんと言ったのか。
「……お前を、配慮できずにいる…………すまん……」
稜迦は大きく目を見開いた。カガイは稜迦に謝っているのだ。宝鈴が言っていたことは本当だった。カガイは決して怒っていない。
稜迦は肩の力が抜けていくのが分かった。そして不思議とカガイへと素直に返事ができる自分がいる。
「いいえ……いいえ、そんなことは……わたしの方こそ、至らなくて、沢山ご迷惑をかけてしまっています……情けなくて、すみません……」
稜迦のそんな言葉に、カガイは鼻から大きく息を出した。
「……身体は、どうだ?」
変わらず稜迦を見つめているカガイから、稜迦も目を逸らさなかった。
「はい……もう大丈夫のようです……心配して頂き、ありがとうございます」
「……また、家を空ける……何かあったらさっきの女……宝鈴を頼れ」
稜迦はカガイを見上げながら「はい」と答えた。今まで互いにこんなにも会話をしたことは無かったのではないか。そう思っていた稜迦だったが、そこで会話が途切れてしまった。
言わなければいけない事が沢山あったと思うのに、口から出て来ない。稜迦が焦っていると、カガイが視線を逸らして、この場から去ろうとする。
「あ……カ、カガイ様……!」
稜迦は咄嗟に初めてカガイの名を呼んだ。カガイが振り返る。また視線が合った。
稜迦は両手の指を腹の辺りで組んで、キョドキョドしながらカガイに問いかける。
「あの……遠征からはいつ帰って来られるのですか……?」
あの邸で一人待つにしても、カガイがいつ戻って来るのか稜迦は知りたかった。けれど、カガイから返ってきた言葉は随分と素っ気ないものだった。
「……分からん」
カガイの返事に稜迦は眉を下げる。カガイが遠征から帰って来ても、邸に戻るかどうかさえ分からないのだ。今度は稜迦が俯いて、二人の視線が外れる。
ほんの少しの間のあと、カガイが聞き取りにくい低い声で稜迦に言った。
「……邸には、必ず戻る……」
その声で稜迦が再び顔を上げると、稜迦に背を向けて歩いて行くカガイが見えた。
稜迦は思わず声を上げる。
「お、お帰りをお待ちしております! どうか、お気をつけて……!」
稜迦の言葉にカガイが再び振り向いて、小さく頷いた。
「……そこは冷える……、もう戻れ……」
稜迦にそう言って、カガイはもう振り向きもせずにその場から去って行く。
稜迦はその背が見えなくなるまでその場から動かなかった。




