一-八
No.14
私は気がつくと、医者の前で、ソファーに座っていた。医者は濡れた犬を抱きかかえていた。
「僕は動物園に行って来ました。犬しかいなったですよ。それに動物園は火事になってしまいました」
彼は笑って、
「大丈夫だよ。少なくてもこの犬は助かったから」と言った。
「しかし、他の犬は? 火は消えたのでしょうか?」
「さあ、わからないな。消えただろう。あそこには水が沢山ある」
医者は抱えていた犬を下に降ろした。犬は体を震わせ、水を飛ばした。そして私を見て、吠えた。彼が静かにしなさいと言って、犬を撫でるとおとなしくなった。
彼は犬を見ながら、
「この犬は私が預からせてもらう。君は動物は好きではないのだろう?」と聞いてきた。
私は少し不満があったが、確かにその通りなので了承した。彼は、それでは私は帰る事にする、色々片付けなくてはならない事があるからと言って机の上の本を持った。
「ちょっと待ってください。僕はまだ良くわからない。自身の事を知る事ができていない。もう少し話をしてください」
「はは、君は自分の事を知りたくないのだと思ったから。それに私には君を治せないからな」
「それでもいいんです。僕はもう少し知りたい」
「そうか、それでは少しの間話をすることにしよう。ちなみに、何度も言うようだが、私は君ではない。それに医者でもない。君が私を医者にしているのだろう」
「そうかもしれない」
犬が私に近づいて来た。私は犬を撫でる。
「犬はいいだろう。よくなつくしな。それに主従の関係がはっきりしている」
「尻尾を振ってますね。なんだか間抜けだ。この犬は僕を主人だと思っていないでしょう」
「どうかな。この犬は君とどんな関係があると思うかね」
「わかりません。まさか僕であるという事はないと思いますが」
彼は頷き、
「では、この本は君とどんな関係があると思うかね」と言い、私の方に本を見せた。
「わからない。自分と関係があるかもしれないという事はわかりますが、それ以外の事は。僕はどうしてこの様な形になったのでしょうか?」
「何故この犬だけ、逃げ出すことができたのだろう。何故この本だけ、ここにあるのだろう。何故私だけ、君ではないのだろう」
「わかりません。そういう運命なのでしょう。そういう巡り会わせかもしれない」
「君は運命というものがわかっているのかな。まだ君の世界は完成していない」
「僕には運命というものがわからない。ただ、体験しているだけです。それに運命という言葉は巨大な人間の意識の様な感じがして嫌ですね」
彼は苦笑して、そんな事ではないと言った。犬が吠えた。彼は再び私に本を見せ、
「この本は宗教の話が多く書かれている。君は救われたいか?」と言った。
「もし、僕が救われたいと思うなら、自殺しなかったでしょう。むしろ反対です。僕が自殺したのは、その様なものに対しての抗議です」
「これから君の行く所は、その様な抗議ができるかわからない。君は同じ、違ったものを見るだろう」
「何が同じもので、何が違うものなのでしょうか? 僕はこれから地獄に行くのですか?」
「まあ、おそらくそうだろうな。そこは君が思い描いていたものと同じであり、君はまた違うものを知ることになる」
「僕はそこに行って何をすればいいのでしょうか? 何をさせられるのでしょうか?」
「そうだ。忘れていた。私は君に忠告しに来たのだった。医者の役割をしているうちに忘れてしまったようだ。君は地獄という所に行く前に、色々な場所を通ることになる。君はそこで様々な物や人を見る。だが、君はそこで何もしてはいけない。誰かと話してはいけない。誰かに手を出してはいけない。誰かと係ってはいけない。そこにある物に手を加えてはいけない。何も見なかったように、何も無かったように通り過ぎなければならない。いいね」
私はそんな話を何処かで聞いたことがあるのを思い出した。




