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第八話

 鍵の壊れている扉をそっと開ける。

 授業を受ける教室と同じくらいの広さの部屋に、整然と並べられた机と椅子たちが沈黙している。どの席にも、人は座っていない。

 ここにいるはずだった。

 室内を見回す。茜色の光が差し込む窓のあたりに目が留まった。窓の下、ちょうど西日から陰になっている場所に、両膝を抱えてうずくまっている女子生徒の姿があった。

 彼女は壁に背をもたれさせたまま、微動だにしない。視聴覚室の冷たい空気とあいまって凍りついているようにも見える。両腕の間に顔が埋められていた。

「忍ちゃん」

 そばに歩み寄った。

 忍ちゃんはうんともすんとも返事をしてくれなかった。身じろぎさえしない。

 俺は彼女の隣の床に座った。

「どうして急に走り去ったんだ? びっくりしたじゃん」

 肘が触れるくらいの距離が空いた、お互いの肩の間には、冷たい空気が流れていた。

「ああ、びっくりしたって言えば、忍ちゃん。ずいぶんイメチェンしたね。最初は、誰だろうこの女の子って思っちゃった。すごく可愛いじゃん。うん、似合ってるよ」

 あるいは、ぶ厚いコンクリートの壁が二人の体を隔てていた。なにを話しかけても、俺の独り言にしかならない気がした。

「……チョコレート、好きなやつに渡せたか?」

 発した問いかけさえも、振動として周りの空気に吸収され、すぐに消えてしまった。居心地の悪い静寂がそのあとに現れてくる。

 冷えきった床が俺の尻から体温を奪い始めた。

 鮮やかなオレンジ色の光が、俺と忍ちゃんの頭上を掠め、眼前の机や椅子を輝かせていた。

「先輩」

 抑揚のない呼びかけだった。

 忍ちゃんが腕の隙間から顔をあげる。

「キスしましょう」

 唇の両端が吊り上げられた。笑顔だった。悲哀なんて全く感じさせない、普通の笑み。それが言葉とともに俺を困惑させた。

「でも……忍ちゃん、それは」

 恋人でもない男とはもうキスをしないと言ったのは、他ならぬ忍ちゃんだった。

「いいのか?」

 確認しても、はい、と短く返事をされるだけだった。

 あれこれと詮索するのはやめよう、と思った。

 俺は腰を浮かせ、忍ちゃんの方へ体をずらす。距離を詰めたことで肩が触れあった。相手の反対側の肩に手を回す。

 互いの顔が引き寄せられるように近づく。唇が接触する直前、忍ちゃんは静かに瞼を閉じていた。

 およそ一週間ぶりの、忍ちゃんとの口づけだった。俺には何年ぶりかの行為に感じられた。唇の小ささも、たどたどしい息づかいも、全てが懐かしい。

 俺は記憶を確かめるように、忍ちゃんの唇を自分のそれで押したり、また撫でたりした。一方、忍ちゃんはやはり自分では動こうとしない。これは以前も同じだった。唯一、変わっているところがあった。肩が強ばっていない。忍ちゃんはもう、緊張していない様子だった。

 ふと、体を押し戻そうとする弱い力を感じた。俺の胸元に、忍ちゃんの両手が添えられていた。やめて、の合図だ。

 顔を離す。

 視線が交差する。

 忍ちゃんの唇が妖しく蠢いた。

「先輩、入れてください」

 えっ、と掠れた声が反射的に漏れる。

 忍ちゃんの目が伏せられた。

「舌……わたしの中に」

 忍ちゃんの要求を正しく把握できたが、それでも動揺してしまうことに変わりはなかった。

「でもディープキスは嫌だって、忍ちゃん、前に言ったよね?」

 突き飛ばされたときの感触が胸に蘇った。

「最後にしますから」

 ついこの間、俺を拒んだ忍ちゃんの手は、今も俺の制服の胸に当てられていた。

「これで本当に、終わりにしますから。お願いします」

 美しいと言うよりは幼い印象の、忍ちゃんの五指が上着の胸部分を握り込んだ。

 後輩の顎がわずかに上向いた。至近距離で見上げられる。その瞳の上で、さざ波が立っている気がした。忍ちゃんの顔からは笑みが消えていた。

 なにがあったんだ?

 口から零れそうになった言葉をぐっと飲み込む。

 なにかをこらえるように固く閉じられた忍ちゃんの唇に、俺は再び自分の唇を重ねた。柔らかく、適度な湿り気のある入り口の周りを舌先でノックする。

 上着を掴んでいる手がかすかに震えていた。そのことに、俺は気づかないふりをした。

 上唇と下唇との合わせ目に分け入り、忍ちゃんの口腔内へ舌を差し込む。忍ちゃんの喉から短いうめきが一度だけ響いてきた。

 肩を強く抱き寄せる。姿勢を崩した忍ちゃんが倒れかかってくる。そのままだとずり落ちてしまいそうだった。制服の第一ボタンのあたりが強く握られた。襟が首の後ろを圧迫した。

 忍ちゃんの口の中は熱かった。溶けてしまいそうなほどだ。その熱が舌を通じて移ってきたのか、俺は頭の奥にマッチ一本ほどの火がちりちりと燃え始めている思いがした。何度も唇を触れ合わせた相手のはずなのに、今日の望月忍は俺の知らない女のようだった。

 未知なる場所を探索しようと、舌で忍ちゃんの口腔内を撫でていく。彼女の舌は噛み合わされた歯の向こう側に隠れていた。

 きゅっと引き締まった歯茎に触れ、並びの良い歯の隆起を感じる。そのどれもがかすかに風味を帯びていた。夢見心地になりそうなところを、現実へ引き戻すようなほろ苦さだ。

 忍ちゃんの口内。下顎の右側の、歯と歯の隙間に舌先を伸ばす。そこに、苦みのもとが大きな一塊となって存在していた。舐めとってみると、苦みの中にも、わずかな甘みがあることに気づく。それは、まるで――。

 想像以上に熱かった飲み物を口にしたときのようなスピードで、顔を引いていた。

「忍ちゃん、きみ、まさか自分で食べたのか!?」

 後輩の瞼が跳ね上がった。両の黒目が真円のまま露わになる。

 小さな唇が震えるのが見えた。

「そっか……まだ、残ってたんだ」

 無感情な言い方だった。

 どうして、と問おうと俺が口を開きかけた。それを、一瞬のうちに距離を詰めてきた忍ちゃんの唇によって塞がれてしまう。

 息が止まった。

 自分の口内に、異物が挿入される。忍ちゃんの舌だとすぐに気がついた。

 両頬に冷たさが触れてくる。忍ちゃんの両手が、俺の顔を包んでいた。逃れようと思えば振り払えた。彼女の肩を掴んでいた両手はそれをしなかった。掌は中空をあてもなく漂い、居場所を失い始める。

 頭の中が白熱していたせいかもしれない。

 中学時代に初めてセックスを経験したときの記憶が脳裏をよぎった。あのときと同じか、それ以上に、考えがまとまらない。自分がどう振る舞えばいいのか、見当もつかない。これではまるで童貞だ。

 指先一つ動かせずにいる俺に、忍ちゃんの、表面のざらついた感触が絡みついてくる。

 苦みが口いっぱいに広がった。相手側から流れ込んでくるのは熱と唾液だけではない。忍ちゃんは舌を使って、俺の口腔内に例の苦みを塗りたくっていく。その所作は荒っぽい。子どもがだだをこねるみたいに、力任せに舌先が振るわれる。技巧もなにもない、本能に任せた動かし方だ。

 水たまりを踏んだときと同じ音が口もとで断続的に弾ける。その中に、二人分の獣じみた息づかいが溶け込んでいく。

 忍ちゃんの蕩けそうな瞳があった。薄く開かれた目は水分を必要以上に湛えていた。今にも目尻から零れ落ちそうだった。俺は身動き一つできず、泣きそうな年下の女子の目を見ていることしかできなかった。

 さんざん口内を暴れ回った忍ちゃんの舌が、唐突に引き抜かれる。顔が離される。焦点を合わせるまでに数秒が要った。

 俺と忍ちゃんの唇の間で銀の糸が細く垂れていた。

「もう、充分です……ありがとう」

 糸がぷつりと切れた。

 忍ちゃんが素早く立ち上がる。

 遅れて、その動きを視線で追う。

 窓から差し込む夕日の光の中で、忍ちゃんの目尻から橙色の輝きが一粒だけ零れた。

 見間違いかと思い、凝視してしまう。

 忍ちゃんは今まで俺に見せたことがないくらい、穏やかにほほ笑んでいた。嗚咽なく、涙を流したままに。

「これで好きな人に、チョコ、渡すことができました」

「忍」

「さよなら、先輩」

 床に置いてあったバッグを掴み、忍ちゃんは視聴覚室を出て行った。足音が逃げていき、廊下のほうへ消えた。

 俺は追いかけるどころか、立ち上がることさえできなかった。射精を終えた直後にも似た、脱力感の波の上を漂う。

 かろうじて動く手で自分の唇を覆っていた。

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