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第七話

 二月十四日、バレンタインデーをいよいよ迎えた。教室の男子たちはやたらとそわそわしては、女子からチョコレートをもらえないかと気にしていた。言葉には出さなくても、彼らの期待に満ちた目はごまかせない。同性の俺から見てもわかるくらいだ。勘のいい女子が気づかないはずがない。実際、男子トイレに入れば、隣の小便器から聞こえてくる会話の内容はそればかりだった。

 俺もまったく無関心というわけではない。黒板の上にかけられた時計の針の動きが、今日はいつにも増してゆっくりと感じられた。

 放課後になった時点で、俺の手元にはチョコレートの入った透明な小袋があった。数は二個。どちらも、クラスの女子が渡してくれたものだ。彼女たちは他の男子にも同じような袋を配っていた。義理チョコだ。

 義理とは言っても、手作りのものらしい。歪な輪郭のハート型のチョコなどが数個ずつ、袋に入れられていた。家に帰ったら、ありがたく頂くことにしよう。

 靴を履き替え、昇降口を出る。

 夕焼け色に染まる鉄筋コンクリートの校舎を左右に見ながら中庭を校門へ歩いていく。校門に今日、俺は呼び出されていた。

『学校が終わったら錬の学校の校門前で待ち合わせね』

 そんなメッセージが、昨夜、歩波から俺の携帯に送られてきた。俺は『わかった』と短く返事をしただけだった。理由は訊くまでもなかった。今日はバレンタインデーなのだ。

 ふと、足を止めた。

 振り返れば、校舎の一点に視線が引き寄せられる。最上階の角の部屋。そこはいつも俺がお世話になっていた視聴覚室だった。もうキスはしないと忍ちゃんに言われた日から、あの一室には近づいていない。なぜだか、行こうという気にならなかった。楽しみが一つ、無くなってしまったせいだろうか?

 もちろん忍ちゃんとはあの日以来、唇を触れ合わせていない。それどころか言葉も交わしていない。視聴覚室という唯一の密会場所が無くなったのだ。学年の違う彼女と話そうと思うのなら、彼女の教室へ行くしかなかった。相手の携帯の番号やアドレスを、俺は聞いていなかった。

 忍ちゃんは好きな男にチョコを渡せたのだろうか?

 気になったが、告白の結果を聞けるのはどのみち明日以降だ。うまくやれよ、と視聴覚室の窓を見ながら念じた。

 学校外周のランニングから帰ってきた運動部員の集団とすれ違う。

 校門を出たところには、見知った顔の女が立っていた。

「やっほー」

 歩波は俺を見つけると手を振ってきた。校門の前には他にも女子生徒がいたが、違う高校の制服とあって、歩波は一人だけ異彩を放っていた。

「なんだ、お前ずいぶん早いな。学校を途中で抜けてきたのか?」

「そんなわけないでしょ。今日はたまたまサッと帰れただけ。あんただって、ずいぶん長いこと学校の中にいたのね」

「教室で男連中とあーだこーだ話してたからな。どいつもこいつも、脳みそがチョコレートになってる。今日はそればっかりだ」

 校門から出てきた数人の男子生徒が、珍しそうに歩波を見ながら、俺たちのそばを通り過ぎていった。

「その口ぶりだと、あんたはチョコなんてもらえなくてもいいって言ってるように聞こえるけど?」

「他のやつらよりは落ち着いてるだけさ。お前がくれるってわかってるんだから」

 歩波が苦笑いを浮かべた。

「たいした自信じゃない」

「くれないのか?」

「もちろん」

 歩波の手に提げられていた鞄の中から、長方形の薄い箱が取り出された。箱は光沢のある包装紙でラッピングされ、表の面には蝶結びのリボンをあしらったシールが貼られていた。

「はい、バレンタインチョコ」

「サンキュー!」

 チョコの入った箱を歩波から受け取る。重みがあった。

「錬はあたし以外からもチョコもらった?」

 歩波が訊いてきた。薄く笑っているものの、視線には嘘を許さない厳しさが垣間見えていた。

 素直に、片手の人差し指と中指を立てる。

「二つだけな」

「誰と誰から?」

「両方ともクラスの女子からだよ。手作りだけど、他の男子にも同じやつ渡してたから、本命じゃないだろうよ」

 そう、と歩波が呟く。俺の答えに、どこか納得しきれていない様子だった。

「お前のこれは手作り?」

「売り物よ。あたしが下手に作るよりも、そっちのほうが間違いないでしょ。手間がかかってないけど、そのぶん、味のほうは間違いないわ。評判のいいお店で買ったんだから。なんか文句ある?」

「ありませんとも」

 歩波ならバレンタインデーというものをうっかり忘れていても不思議ではなかった。だがこうして覚えていて、チョコをくれたのだ。それだけで嬉しい。チョコが手作りじゃないだとか文句をつけてはバチが当たる。

「あげておいてなんだけど、それ、あたしも食べてみたいのよね。どんな味なのか気になってて」

 歩波の細長い人差し指が、俺の手元の箱に向けられた。

「じゃあ、俺んちで食べるか?」

「家に行っていいの? お母さんとかいるんじゃない?」

「今日はちょうど、家族が夜まで帰ってこないんだ。だから気を遣わなくてもいいぜ」

「それなら……お邪魔しようかしら」

 視線が交わる。それだけで、言葉にしなかった気持ちも伝えることができたようだ。歩波の口もとに笑みが浮かべられた。

 歩波がくれたチョコレートを片付けようと、鞄の口に手を伸ばす。

 遠くから呼ばれた気がした。

 声に引っ張られるように、校舎のほうを向いていた。

 校門に向かって走ってくる女子生徒の姿が見えた。肩のやや下までおろされた黒髪が揺れ、夕日のオレンジ色の粒子を周囲に振りまく。短い丈のプリーツスカートが捲れ上がり、膝頭はおろか、その上の肌までが陽光を眩しく反射していた。

 見覚えのない女の子だった。

 誰だ……?

 さっきの声には聞き覚えがあった。その声の女の子と、いま校舎を背に走ってくる女の子とでは、あまりにも容姿がかけ離れていた。とても同一人物とは認められない。

 俺を呼んだのは本当にあの子だろうか、とも疑った。だが間違いではないらしい。女子生徒は校門にいる俺を目指していた。

 距離にして数メートルほどにまで近づいたときだった。

 あっ、と呟いて、女子生徒は急に立ち止まった。息を切らせた彼女の瞳は、俺を捉えていなかった。俺のすぐそばにいる、他校の制服に身を包んだ女子に向けられていた。

 そこに来るまで、校門の柱が物陰となって歩波を隠していたようだ。

「あら、久しぶり。たしか、望月さんだったわね」

 歩波が女子生徒に向けて放った言葉で、俺の疑念は一瞬にして払拭された。走ってきた女の子はやはり、忍ちゃんだったのだ。

「ずいぶん雰囲気が変わったじゃない?」

 気持ちを代弁されたような気がした。

 忍ちゃんはまるで別人だった。以前の三つ編みは解かれ、いま彼女の黒髪は毛先が緩いカーブを描いていた。スカートは他の女子生徒と同じくらい短い。そしてなにより、彼女の地味さの象徴でもあった縁の太い眼鏡はない。

 コンタクトレンズに覆われているであろう、瞳が俺の手元に向けられた。

「……滝沢先輩、それ」

 鞄にしまおうとしていた長方形の箱が視線の先にあった。

「ああ、これ。歩波がくれたんだ」

 チョコ、という単語だけが忍ちゃんの唇から漏れ聞こえてきた。

「そうだよ」

 なんでもない受け答えをしたつもりだった。言葉は俺の喉を引っ掻いていった。

 忍ちゃんの胸に、スクールバッグが大事そうに抱きしめられていた。そのバッグの中に、バレンタインチョコはもう入っていないはずだった。

 俺のところに走ってくるほどだ。

 告白の結果を伝えに来てくれたのかもしれない。

「なにか用事だったんじゃないか?」

 言いづらそうにしている忍ちゃんのために、本題を促してみる。直後、ギョッとした。向けられた忍ちゃんの瞳に、夕日の橙色の波紋が広がるのが見えた。

「いいえ……なんでもありません。お邪魔して、すいませんでした」

 頭が素早く下げられた。そのままの姿勢で忍ちゃんは踵を返した。もと来た道を走り、校舎へ戻っていく。

「忍ちゃん」

 大声で呼びかけていた。忍ちゃんの足は止まらなかった。逃げていくようだった。背中はどんどん小さくなっていき、やがて校舎の陰に消えた。

 俺はすぐ鞄の中に、歩波のチョコをしまい込んだ。

「ちょっと、錬!」

 走り出そうとした俺の足を、歩波の鋭い言葉が貫き、地面に留める。

「どこに行くのよ」

 歩波は腕組みをして、俺を睨んでいた。こいつの機嫌を損ねることは珍しいことではなかった。しかし、このときの歩波の怒り方は、今までとは質が違っていた。

 周囲の空気が凝縮され、圧力をもって、俺を押し潰してくるようだった。

「カノジョを置いてけぼりにして、他の女のところに行くわけ?」

「そんなんじゃない。でも今は……あの子、絶対になにか話があったはずなんだ。歩波が考えてるようなことじゃない、なにかが、きっと」

「どうしてそんなふうに思うのよ。あんたの考えすぎじゃないの? ……いいえ、それだけじゃない。バレンタインデーに他の女のことを優先させようなんて、彼氏としてどうなのかしら?」

 歩波の言い方は吹き付ける風よりも冷たい。

 俺は顔がカッと熱くなるのを覚えた。

「あんな顔した忍ちゃんを見て、放っておくことなんてできるか」

 衝動的に吐露していた。

 今だけは、恋人もバレンタインデーも、関係なかった。

 喉を絞められたように息が苦しくなる。空気が縄となり、首に巻き付けられている錯覚に陥る。そのままでいれば酸欠で倒れたかもしれない。

 目の前で、大きなため息が吐き出された。それが合図だったのか。俺を圧迫していた空気は消えた。

 歩波はまだ俺をにらみつけていた。

「あんたの恋人は誰?」

「……加瀬歩波に決まってるだろ」

 再びため息。

「いいわ、行ってらっしゃい」

 手がひらひら振られる。

 歩波は呆れたような表情に変わっていた。

「悪い、歩波。すぐに戻ってくるから」

 校門に恋人を残して、俺は校舎へと駆け出す。下校する何人もの生徒たちとすれ違った。

 鉄筋コンクリートの校舎や、教師の自動車、中庭の木々……。学校に存在するものの輪郭は今やすべてが鮮やかなオレンジ色だ。校舎の最上階の、端の一室も例外ではない。

 視聴覚室の窓ガラスが西日に照らされ、煌めいていた。

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