第六話
「滝沢先輩とは、もう、キスしません」
まったくの不意打ちだった。
忍ちゃんの一言に、頬の筋肉が無意識に引きつった。口から言葉が出てこなくなる。視聴覚室の静けさが鼓膜を突き刺してくるようだった。
嘘だろ?
すぐには信じられなかった。隣席の椅子に座っている忍ちゃんをもう一度見た。眼鏡のレンズの向こうからも、視線が向けられていた。とても冗談を言っているような目つきではなかった。本当だと信じざるをえない。
放課後の視聴覚室でいつものように会った俺たちだったが、今日は上書きは求められなかった。代わりに、忍ちゃんのほうから「お話があります」と持ちかけられた。
どんな話かと思ったら……。
「どうして急に?」
ようやく言葉にすることができた。
「好きな人ができたんです。だから、恋人でもない先輩とはもうキスできないんです」
「俺は恋人いるのに忍ちゃんとキスしてるけど?」
「それは先輩がただふしだらだからです!」
椅子に横向きに座って、忍ちゃんはこちらへ両膝を向けていた。スカートの上には握られた両手が置かれ、背筋は垂直にのばされている。真剣な眼差しとあいまって、今日はいつにも増して、堅苦しい印象を受ける。
「まじめだね、忍ちゃんは」
後輩は眉間に皺を数本作った。
「ちゃんと、けじめをつけなきゃって。決めたんです。来週のバレンタインに、その人にチョコを渡して……それで、想いを伝えます」
もう彼女の心の中では、揺るがないことなのだろう。
唇の隙間から空気が漏れていった。
正直、自分でも驚くくらいには動揺していた。てっきり、忍ちゃんは俺に気があるものだと、確信していた。まさか俺の知らないうちに、他の男に恋をしていたなんて。もしも、よく懐いていた近所の野良猫がある日突然、見向きもしてくれなくなったら、こんな気持ちになるのだろうか?
寂しいことには変わりはない。でもそれは俺だけの気持ちだ。忍ちゃんの気持ちではない。俺はこの後輩の背中を押してやらなければいけない気がした。
「頑張れよ、忍ちゃん。応援するぜ。俺に手伝えることがあったら、力を貸すからさ。なんでも言いなよ」
「先輩にしてもらうことなんてありません」
バッサリと断られてしまった。
今までの俺たちの関係が無くなることを、この子はなんとも思っていないのだろうか?
自分の中に湧いてきたそんな疑問を、いや、と否定した。自分と同じ気持ちになっているのではないか、という期待が混じっていることを自覚したからだ。それは今ではもう、いくらなんでも自意識過剰というものだ。
眉間に皺を作っている忍ちゃんを見る。
「好きな男って、どんなやつ? 同じクラスの男?」
「そこまで先輩に教えるつもりはありません」
「つれないなぁ」
本当に、忍ちゃんは俺とのキスだけの関係を終わらせたいのだ。
「じゃあ、最後にアドバイス」
「……なんですか?」
「チョコを渡すときは、イメチェンして行ったほうがいいぞ。髪型を思い切って変えてみるとか、そのダサい眼鏡をコンタクトにしてみるとか」
忍ちゃんの手が、後頭部から垂らされている三つ編みに触れた。
「そんなことしたってムダですよ、きっと。わたしなんかがいくら飾ったところで」
「そう卑屈になるなよ。忍ちゃんはいくらでも可愛くなれる。絶対に、だ。俺が保証する」
「先輩が言うと説得力がありますね」
だろ、と胸を張る。
「さすが、女の人とたくさん遊んでるのは伊達じゃないですね」
「……あのね」
言葉のところどころに見え隠れする棘が無くなれば、なお魅力的な女の子になれるに違いない。
「でも」
忍ちゃんは自分の三つ編みを撫で、口ごもりながら言った。
「先輩のアドバイス……参考ぐらいには、覚えておきます」
「頑張れよ」
忍ちゃんは目を合わせずに、聞き取れるぎりぎりの声の大きさで「ありがとうございます」と呟いた。視聴覚室には宵闇の色が濃く、彼女の表情を読みづらくさせていた。
気づかれないよう静かに、大きく息を吐く。
こうして今年の、俺のもらえるバレンタインチョコは一つ減ったわけだ。




